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捨聖(すてひじり)といわれた一遍上人は、鎌倉時代後期の1239年(延応1)に、伊予・道後(愛媛県)の河野家(河野水軍)に生まれました。祖父・通信(みちのぶ)は、源平の合戦のとき水軍を率いて源義経に味方して手柄をたて、平家を壇ノ浦において全滅させる大きな力となりました。しかし1221年、承久(じょうきゅう)の乱のときには後鳥羽上皇に味方して、幕府にはむかい敗れたため奥州に流され、一族は没落してしまいました。

一遍上人は、この乱後18年経って誕生しました。父、通広(みちひろ)は出家して如仏(にょぶつ)と名乗っていました。一遍上人が10歳のとき母が亡くなり、父の命を受けて出家し、僧名は随縁(ずいえん)と伝えられています。

再び出家する

親類間のいざこざがもとで、一遍上人が殺されそうになる事件が起こりました。『遊行縁起』(真光寺蔵)第1巻が最初に描く場面は、剃髪で法衣姿の一遍上人が、刀を抜いた人に追いかけられている絵です。これがもとで、今までの生活を突然やめ、再び出家したのです。1271年(文永8)、一遍上人33歳の春のことでした。

親類間の争いとは何であったのか。絵巻には、そのことについて何も記していないが、蒙古(元)の使いが数年前から日本に来ており、幕府は西国の御家人に沿岸防備の強化を命じています。蒙古襲来が予測され、没落した河野家を再興するには絶好の機会でした。そのような一族の考えに、一遍上人は同意することができなかったのでしょう。

善光寺に参籠する

故郷の伊予を捨てて旅立った一遍上人が最初に訪れたのは、信州・善光寺でした。ここは、「决定往生(けつじょうおうじょう)の勝地」といわれています。

一遍上人はここに参籠(さんろう)している間に、「二河白道(にがびゃくどう)の図」を感得し、それを写して自分の本尊としたのです。

一遍上人は、白道を渡っている旅人を自分自身と見たのです。

念仏三昧に明け暮れる日々

一遍上人は善光寺から念仏一路に身を置いて、もう一度修行をやり直そうと考えたのでした。
故郷・伊予へ帰った一遍上人は窪寺(くぼでら)というところの閑室で、この「二河白道の図」を本尊として、念仏三昧に明け暮れていました。

1273年(文永11)7月には、伊予の菅生(すごう)の岩屋寺に参籠しています。一遍上人は今までの生活を捨て、河野家の家屋敷、田畑を捨て、一族とも離れて、衆生利益の遊行の旅に出たのです。

熊野の山中

遊行、賦算をしながら一遍上人は熊野へ向かいました。熊野までの賦算の方法として、「信心を起こさせ、南無阿弥陀仏と称えさせて、念仏札を与え」ていました。しかし、熊野山中で会った律僧(実は熊野権現(ごんげん))に札を受けるようにと勧めたときに、信心が起こらないので受け取れないと拒否されます。この僧が札を受けなければ、他の人も受けないのではないかと思い、無理にその僧に札を与えたのです。

このことがあって、一遍上人はすぐに本宮證誠殿(しょうじょうでん)に参籠(おこもり)し、自分の布教方法について、熊野権現の啓示を仰いだのです。参籠していると権現が現れて、「融通念仏を勧めている聖・一遍上人よ、どうして念仏を間違って勧めているのか。あなたの勧めによってすべての人びとが往生できるのではない。南無阿弥陀仏と称えることによって阿弥陀仏により極楽浄土に往生することが決定しているのだ。

したがって南無阿弥陀仏と称えることによって、信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、誰れ彼れの区別なく、念仏札を配りなさい」と示したのです。

一遍上人はこのときのことを、「大権現の神託(しんたく)をさづかりし後、いよいよ他力本願の深意を領解(りょうげ)せり」(『聖絵』第三)と述べています。

熊野権現の神勅

熊野権現の神託により、一遍上人が悟った「南無阿弥陀仏はすべての仏の教えをおさめた絶対の教えであり、念仏を称えて極楽に往生する人は、人間のなかで最もすぐれた人であり、白蓮華(びゃくれんげ)のように清らかな人である」と、その身そのままで往生するという教えを説きました。時宗では、これを「熊野権現の神勅」と呼び、このときを一遍上人の成道(じょうどう,悟り)とし、時宗の開宗の時と定めています。

これ以後、臨終を迎えるまで、一遍上人の遊行は16年間続きました。北は奥州江刺(えさし,北上市)から、南は九州・鹿児島にまで及んでいます。

1289年(正応2)8月23日、一遍上人は兵庫の観音堂(現・真光寺)での遊行の生涯を終えました。「一代の聖教(しょうぎょう)みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」(『聖絵』第十一)と南無阿弥陀仏を称える以外、人々の救われる道はないことを説き、最後に「我(が)門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」(『聖絵』第十二)と言い残したのです。

まことに捨聖・一遍上人の臨終の言葉としては心に残るものです。