俊逸的松球 · 宝书网txt电子书下载网站 | ...· 2 周前 · |
开朗的烤土司 · 从医生到超级黑客 ...· 3 月前 · |
大力的长颈鹿 · 立创EDA能代替传统的PCB软件么?比如AD ...· 1 年前 · |
心软的饭卡 · 无声(2020年柯贞年执导的电影)_百度百科· 1 年前 · |
没读研的啄木鸟 · c++ similar function ...· 1 年前 · |
【華盛頓二十九日發電通】美國海軍省、前在產業復興計畫之一部之形式下、使通過確定大建艦計畫、目下在進行建造作業、然作戰部以為右不過為一時的補充計畫、故由此見地之下更擴大右記、而立充實永久性之本格的大建艦計畫業已得大體成案、次屆議會為海軍省案決提出求協賛、據所聞其內容、是為決定自一九三四年至六十二年二十八年間之美海軍勢力基礎、在最初之六年、使發揮最大之建艦能率、至三十九年、完了現存條約所許之最大限度之建艦、使出現真無敵艦隊、其詳細如左、
一、據本計畫、二十八年間、應為建設之軍艦總數、為三百七十五隻、內開戰艦二十隻、航空母艦八隻、大巡洋艦二十二隻、輕巡洋艦二十五隻、驅逐艦二百一隻、潜水艦九十九隻
一、建艦目標、至一九一三九年、根據現存條約、在使達最大建艦許容量、然三十五年之會議之推移如何、倫敦海軍條約滿期後或為不繼續、故為應此時之情勢、而為立案
一、以一九三九年、因勢力增大之建艦告一段落、從此以後、注重維持右記勢力、艦齡超過艦之代艦等、
一、此經費二十八年間通算、平均約九千六百十六萬弗、但支出總額之主要部分、至三十九年、即以急速度按配於軍艦之建造費。
社說 對當局米穀應急施設之態度 社說一
農林省當局因欲根本的維持米價於相當之地位,現正與臺鮮兩當局開磋商會,以樹米穀應急施設之具體案,聞其當初之原案,對於內地欲縮少卅萬町步,對於朝鮮縮少十五萬町步,對於臺灣縮少五萬八千甲之米作耕地,然因被臺鮮兩地之官民視為差別待遇之案,極力表示反對,故現在已變換其方針,數次互相協議比較的富有實行之案,其內容雖不得而知,諒不致以植民地為犧牲,始得保護內地之農村。吾人對於要縮少耕地一事固無異議,然本國與植民地不宜為差別待遇,彼此之縮少率以無異同為合理。萬一若其縮少率稍有差異,對於為此而轉作之農民,宜由一般會計支出相當之補償金,而不使農民擔負何等之犧牲才是。
二
其次對於獎勵貯藏粟子之案,因政府無强制之權,故比較的無弊害可言然對其効果甚抱疑問。只因粟子之所有者,依此法律而行貯藏之後若無受政府之許可,已不得擅行販賣,且政府之方針,對於貯藏粟非達到相當之價格不予以許可,故貯藏者恐不多。政府對此雖有通融低利資金若其條件與金利對於貯藏者不加以優待,恐難坐收十二分之効果。對此案之實行,其効果之有無姑且勿論,吾人却双手表示贊成。
至於對植民地米行移出制限一事,不論如何,唯以植民地為犧牲,特保護內地農民之不平等政策,對於統治上之影響至大,故吾人徹頭徹尾表示熱烈之反對,而代表植民地之利益之拓務省與兩植民地當局亦均表示不賛成,至此似無實行之可能性,然吾人當監視此問題之推移如何,若再有死灰復燃之際,依然以强硬之態度表示反對,方不至有千慮一失之日。
三
觀夫此囘農林省當局之米穀應急施設案,其効果如何,不無疑問,然吾人一面感謝農林當局對於米穀統制一事,頗抱多大之關心,一面感謝拓務省與督府當局對於植民地之權益,亦極力支持,如此問題,因其影響之範圍最大,斷難以一部之犧牲而供為一部之利益,宜以合理的計全體之利益最為上策。最後吾人希望臺灣之民眾,對此重大國策,宜持冷静之態度以對付之,若本國與植民地之間同供一律之犧牲,宜舉双手表示賛成,如果不然,自不得不到底堅持反對之態度為要。
除郵便費提高外 尚非斷行增稅時機 本日高橋藏相的言明 頭條新聞【東京一日本社特電】明年度之豫算、因軍事費之增大、及其他理由、趨勢不減八年度之膨脹高橋藏相直面於此等諸情勢、將為如何決意、頗堪注目、然三十日藏相言明當明年度豫算編成之時、提高郵便料且為别問題、而斷行增稅尚非其時、故為明年度豫算之財源、與八年度豫算同樣、依公債而外無他、歲出隨國防費之膨脹、依然決定的須發行巨額之赤字公債、然高橋藏相之增稅尚早論之根據如左。
藉時局匡救、事業振興與春繭貴、農村有幾分之改善、然尚未至增進購買力、產業貿易雖亦漸次回復、然此亦不得謂為本格的改建故今須觀透產業界之推移農村之狀況、然後方可決定增稅之時機、
大稻埕發展の跡を辿りて 大稻埕の起源 放逐された泉州人が 築いた『稻ほし場』 淡水河畔の平和を破る 百年前の漳泉爭鬪 特輯過ぎし昔は稻はし場であった島都大稻埕が、今やありし日の寂寞を忘れたかの如くモダンニズムの華やかな夢を追ふて、カフエーやダンスホールの樣な狂噪なジャズとカクテールが躍りつづける歡樂□出現、近代高層建築の續出、更にモボ、モガ跳梁するモダン、ストリートの形成、三三年型の銳敏な感覺を發散する五十セン「タクシー」の洪水が氾濫する一つの近代的市街を型づくるに至った。この素朴なひびき、田舍じみた音律を持った大稻埕のまちが、興へられた名に似もつかず、かやうなモダン、シイテイをつくるに至るまでには、幾多の變遷を經て來てゐることは云ふまでもない。
現在澄み切った秋の空の樣に明朗、鳩の樣に平和な大稻埕にもその起源を辿れば意外にも血を流す爭闘があったのだ康熙四十年(西曆一七〇八年)泉州人陳賴章といふものが官に請ふて開鑒に着手したのが現在二十五六萬の人口を擁抱する島都臺北市である。その後陳賴章の後を追ふて次第に渡臺する泉州人が多くなり、だんだんと小部落を形成する樣になった。西曆一七六〇年には都司を置く樣になったが、當時は淡水河が深くて船舶の出入が非常に便利であったため、この河によって對岸との貿易が行はれてゐた。その中心點が今の萬華である。この臺北最古の市街萬華は泉州人によって築かれたものであると云ってもよい位であるが、彼らの勢力も次第に後から渡って來る漳州人のために奪はれ、斷然そこに出身縣を異にする理由の下に泉州人と漳州人との激しき
爭闘が展開された。
これがほぼ一八三三年頃であると云はれてゐる。所が後來の漳州人が意外にも勢力が強く、最初に移住した泉州人もこれがために懐しの萬華を去らればならなかった。そこで根據地を橫取りされ、放逐送された形となった泉州人はやむなく下流の淡水河畔――北の方の原野に新開拓地を求めたのであるが、それがすなはち大稻埕の起源である。
それで不思議にも本紙が大稻埕發展紹介號を出す今年が、その創立百年頃に當ってゐると云はれてゐるので、大稻埕のためより一層の意義を齋らすものであると愛鄉心の強い人は非常に喜んでゐる。
茶の芳香街に漂ふ 近代都市「大稻埕」 商業の殷賑は全島一 特輯泉州、漳州の兩縣人の爭鬪に起源を發した大稻埕はその後次第に泉州人の移住するものが
激增しのうちには萬華に據を置く漳州人も大分潜り込んで來たが兔に角咸豐の末年(一八五八年頃)から市街らしい市街を形成する樣になり、更に同治年間(明治初年頃)から茶業の著しい發達によって再製工場や輸出市場となったので、船舶がとみに輻輳するやうになり、逐ひに臺北最古の市街を誇る
萬華の繁榮をも奪って子った光緒十三年(明治二十年)巡撫劉銘傳が臺北に巡撫衙門を設置したとき、大稻埕を商業區として工を起し、狹隘な市街を擴張した
更に領臺後明治四十二年の市區改正によって北門通り太平町の如き道幅もズッと廣くなり、煉瓦造りの二階建てさへも現はれるやうになった。淡水へは每日水蒸汽船が往復し、僅か一時間半位で淡水への運輸を行ってゐたので大正三年までは淡水港の一部として米英、蘭の領事館があった位である後に河床が高くなった上淡水港が一段と調落して來たのと、陸上交通機闘が非常に整備して來たため舟楫の便は殆んど失はれたが
商業の殷賑
は今でも全島一を誇ってゐる。臺北盆地及び臺灣全島の中心市場たる大稻埕で取り扱はれる物資は殆んど本島生產物の全般に亘ってゐるが、特に本島の特產品である米と茶はここの重要商品であり、茶は本島北部の各地で粗製されたものを全部ここに集めて再製を行ってゐる。鳥龍茶や包種茶を米國や南洋方面に仕向ける大きな輸出茶商が數多く軒を並べ、街路まで茶の芳香を漂はしてゐるこの市街は卸賣商が頗る多く、從ってその取引高が甚だ巨額に上って居り、本島人の富豪顯紳も多くここに集ってゐる。
舊市街の面影 今やなし 太平町の躍進的發展 特輯壯麗で繁華のストリートとして一時全盛を極めた舊時の建昌街や六館街は今やただ僅かにあの宏狀な建物と狹隘な道路で昔の面影を残してゐるが、「街」の
榮枯盛衰を
物語る一つの好き例ではある。建菖街とか六舘街とかを舉げたから序でに昔の街名を思ひ出までにあげておかう。文武町とか書院町とか乃木町とかの改正後の町名よりは、舊街名の方が遙かに懷しいものであり、またストリートの發達や起源をよりよく聯想させるものである。
△稻新街△鴨寮街△竹脚街△得勝街△建輿街△太平街△永和街△南街△城隍廟前街△媽宮後街△中街△中北街△港邊街△震和街△普願街△入有街△社厝街△朝陽街△日新街△九門仔街△陸記街△師館街△珪瑜粹街△增仔街△益保格街△大頭△枋隙街△國興街
尚大稻埕の太平町通りは、六館街や建昌街の繁榮を奪った永樂町通りの殷賑を更に奪って
斷然目覺ま
しい躍進振りを示し、漸次商業の中心をなして來てゐる。そのため永樂町通りにあった大商店や老舗だんだんと太平町通りに向って進出してゐる樣な狀態である。
大飛躍の稻江 大龍峒に延びん 特輯淡水河岸に沿ふて南北に長く、東西に狹い大稻市街は、現在双連や牛埔方面にまで非常な硬展を遂げ、都市として一大飛躍をなしつつあるが、人口が餘りに密集しすぎてゐるため、將來膨張して行く人には勢ひ現在の水田地である圓山方面や昔日
繁榮の殘影
を止めてゐる大龍峒方面に進展するものの如く見られてゐる。現に太平町七、八丁目――すなはち大稻埕と大龍峒を連絡する幹線にもボツボツ家屋が建てられてゐる。殊に閑靜にして空氣の清淨な地――保安宮や聖廟のある大龍峒はここ十年のうちには現在繁華を極めてゐる太平町通りの延長として大いに發展するものと見られてゐる。從って市當局としても何時までもこれを閉却することが出來ない筈で、來年度あたりからは必ず太平町七、八、九丁目すなはち大龍峒に通する
幹線道路を
開通すべく豫算を計上しなければならないと思ふ
萬華の繁榮を奪ひ 絢爛な姿を現はす 市況は城內を凌駕 特輯大稻埕、萬華、城內と三市が相接して鼎立の形となつてゐるが、大稻埕が萬華の繁榮を奪ったのは泉州、漳州の兩縣人が爭闘を行ったのに起因してゐる以外に自然的な原因が一つある。それは度氷河の水運が今日のそれより遙か上流まで及んだ頃、盆地の中心都市が大嵙崁溪に沿ふた今日の新莊街であったのを、
土砂の堆積
によって淡水河の水運が次第に上流から衰へたために今日の萬華が新莊街の繁華殷賑を奪ったのと同樣、爭鬪の副產物として興ったいはゆる「新興の大稻埕」が萬華の水運を奪って隆盛に赴いたのである。約百年前まで河水が深くて岸頭に大船を碇泊させ淡水河を遡る船舶の埠頭として殷賑熱鬧を誇ってゐた「舊街」萬華が、淡水河の土砂堆積により港としての價值を大稻埕に奪はれたのは實に奇しき運命であると云はなければならない、そして今や臺北最古の市街としての面影がなくただ花柳絃歌の巷として淡き現實を物語ってゐる萬華の市街に對し、新興大稻埕はいはめる「新街」や「商業區」として斷然その
絢爛な姿を現はしてゐる更に政治區である城內に較べてもその市況は實に活潑なものである。
反省して改良 進步を圖れ/蔡式穀 特輯大稻埕の市區は臺北市の人口の二十五萬七千餘人の約二分の一即ち十一萬三千餘人を包擁して居る、臺北市數市區中の隨一であります商業は殷盛を極め取引も亦活潑であることは申す迄も無い。特に製茶業の盛んなことは全島隨一だと稱されます。茶の一年の海外輸出量は六百十萬七千餘斤で其の金額は四百七萬餘圓に上るさうです。盛夏の夜分大稻埕市中を散步する時、途中の香の高い料花を擔いで通る者に出會ふことがあるが、甚だ氣持が好い。又其の時分には茶行の前停子腳に於て老若婦人が茶の撰り取りをする光景が見受けられます。これぞ大稻埕の情調の一であることは申す迄も無い。
近來人口が益益殖工たと見え、下奎府町等に家屋の新築が續出しましたが、道路下水の設備が之に伴はず遺憾の點が多い。然し茲に於て改良進步を圖らなければならぬことが二三ある、即ち一は此の大稻埕に住む本島人は、奮慣を墨守し、進步的思想に乏しく、殊に迷信深く、迎神接佛の風習、年一年と益益盛んに為りつある傾向である、殊に舊曆五月十三日の霞海城隍爺の繞境の祭典は、其の華美なること、仰仰しいこと、見物人の多いこと、浪費すること等は、全島隨一だと稱されます。其の他五穀先帝、保生大帝、茶行媽祖等之れに類する祭典行列は數回あります。しかも其の詩意藝閣、陣頭鑼鼓、樂隊等の行列は、千遍一律で少しも新味が無い。此の迷信的風習は、反省して改良しないで好いでせうか。二は大正十二年頃には、內地人たると本島人たると問はず眾口一致に大稻埕の本島人の店舗で、賣って居る品は好くて安い、城內の方の店は高いと言はれて居る。其の時艋舺內に住む人でも、大稻埕に買物に來るのが多かった、又內地人の商人で、大稻埕で商賣を始め、巨萬の富を致し、成功した者も少くない。然るに此の大稻埕に住む本島人の商人は、右述の如く進步改良の精神乏しく、團體的公共心も薄弱であるため、十數年來の市區を其の儘に放置し、更に之れを改正擴大し、道路を立派に整理し、品物の整備店頭の裝飾、光明燈增設等に、更に努力を拂はなかった為め逐其の販路及顧客は市區改正の道路の完成店舗の新築、光明燈の增設等を為し遂げた城內に移轉したのであります。今や城內は宛然一大公園を為した觀があります。大稻埕に住む人達は、散步がてらに城內に買物に往く者が多くあります。
故に大稻埕に住む商人其の他の人士は共同一致、市區の改正、道路下水の整備、公園の設備、市街の裝飾等に一大努力を拂はなければ將來此の地の商業は、恐らく衰運を招くは虞れは無いだろうか。此れ一大反省をしなければならぬ事柄であると信じます。敢て大稻埕の發展策に付いて、苦言ら呈した次第であります(寫真は蔡式穀氏)
廿六七年前の 奇しき因緣 三卷春楓子談 特輯まだ話をする柄ではないが今から二十六七年前の此のあたり(倉庫會社臺北出張所)を思ひ出す轉た今昔の感に堪えぬ。例の埋立工事前で江頻街一帶が水田で河頭溝街と云った此處は低地のジメジメした煉瓦置場であった。今の踏切は其當時通路の上にあって所謂穴門となって居た。
記憶にあるのはポート練習の為めに我輦が
△每日の▽
やうに南門から通った事があるからである。
淡水河でボート、レースが出來た、それも過去の語り草とはなったが隨分と花やかな場面が展開された事もある。
我輩も若い血汐の漲る頃として合宿の連中をリードしコクスンとして勇躍競漕のスタートを切った事だ。佐久間總督が陸軍大將の正服で高木友技さんの官舍(先頃まで稅關廳舍)に臨場され、篠へく雨を物ともせず遮二無二ゴールに飛び込み、大將の御前でメタルを頂戴した日の光榮を思ひ浮べるにつけ、此のあたりに累累と積み重ねられた煉瓦の影が懐かしい。
大正五年倉庫會社創立の當時千秋街の一隅に陣取った事があるが
守備隊司令官の杉木少將(今の中將)が其頃としては珍しい
△自動車▽
で來訪せられ『隨分非道い建物だが古典的でよい獨逸のクルップ會社に行くと創立當初の建物が保存されて居る。君の會社も此事務所は保存ものだネ』と謂れた事があるが、其後現在の假事務所を新築し、其儘今日に及んで居るのは汗顏至極である。
嘗て月明に乘じ、端舟に掉し、江頻街邊に辿りついた時、籔影からいとも艷なる㜁媒の出現したのに驚き、再び河心に出でで流れを下った事もある。それが今日我輩の接客執務のほとりであらうとはげに奇しき因縁と云はればならぬ(寫真は三卷氏)
大稻埕は本島產業 及び文化の中心地 松岡臺北市尹談 特輯大稻埕は本島の商業貿易の心藏で例へば臺灣の重要商品たる茶は大稻埕を中心として、東洋は勿論、歐米迄輸出してゐる、其他米でも此處を中心として、內地各地に移出してゐる、此意味に於て大稻埕は單に本島の中心であるばかりではなく世界的の中心ともなり得る素質を持ってゐる、大稻埕の商工業者はもう少し努力して南洋、南華の貿易販路を擴張すれば
本島全體
の為ともなり、日本の為ともなる、之に反し大稻埕が沈滯すれば立所に對岸の貿易を萎縮する恐れがあると思ふ、如斯く大稻埕は產業的には重要な役割を演じてゐるが、一方文化的の方面も全島のバロメーターである、即ち大稻埕の文化が進むか進まぬか、衛生的設備が進むか進まぬかに依って、本島の文化を
測定する
事が出來ると斷言して良い、大稻埕の文化的設備は、從來閑却されてゐる非難がないでもないが、近來長足の進步を遂げてゐる事も又否むべからざる事實である、從って將來も大いに施設を要する事は云ふ迄もない、終りに臺北橋の先即ち三角埔方面は將來大稻埕の培養地として、大いに伸す
運命を以ってゐる事で、此點大稻埕を發展するには此方面も共に考慮すべきである。(寫真は松岡市尹)
近代的都市の 外觀は整備 內的は依然舊態 岩田北署長談 特輯警察から見た大稻埕は輓近著しく面目革まり、近代的都市としての外觀的要素は略ほ整備せられた感がある、けれども尚幾多改善施設を要すべきものが殘されてゐる即ち危險を感じ美觀を殺ぐ樣な舊家屋の改築、惡魔の橫行を助長する樣な暗黑市街の照明、惡臭を鼻をつく非衛生的な下水溝の改修、市中に散在して淳風美俗を害する樣な淫賣窟の整理、市民保健と保安設備たる公園の施設等十指に餘る緊要な諸問題が橫って居る勿論之等の諸問題は個人經濟と市の豫算に大なる關係があって今急に解決することは困難が伴ふ所であるけれど、難事として手を着けなければ何時迄經っても改善されるものではあるまい、要は官民協力並に熱誠と努力に依って事に當れば、大稻埕の都市的整備面目一新は大に期待されるであらう、尚一步進んで大都市の輪廓が整備されたからと云って、居住する一般の市民の內觀的要素が依然舊態を脫し得ず、本來の惡慣習を口碑傳說の儘に踏襲して行けば非常に發展の氣勢が殺がれるのである、故に一般住民は現代的都市生活にそうやうに、各自の內的生活並精神的生活の充實に全幅の精神を注ぎ、手近な日常の行事からあらゆる儀式に到る迄、當然改革すべき處は進んで革新し、大臺北市民として何處へ押出しても愧じらないやうに內的生活の充實に、大に努力せられんことを期望して止まない次第である。(寫真は岩田署長)
慶珍商會の優秀な醬油工場 特輯市內日新町三丁目慶珍醬油商會の代表者丁涂龍氏は語る
本商會は開業以來滿十週年になりおかげで今や年の賣上げ高は二千五百石にもなり、人家は勿論有名料理店にも非常に歡迎されてゐる、それで昨年築して一大工場とした。本年は少くとも五千石突破する見込みである、今では各地方にも特約店があるので各地方からの注文は相當にある南部、南部北部港慶街街慶珍醬油公司は即ち姉妹商店である。醸造法は最新式、原料は優良品であるので申分ない醬油である、將來としては最優良の龜甲の醬油を製造する目的である尚工場は寳に衛生完備品質優良である。(寫真は同商會の工場)
臺灣の茶葉と 大稻埕經濟界/陳天來 特輯臺灣茶の再製業者の大部分と輸出商の全部は當大稻埕に在って其盛襄は實に大稻埕の經濟界に多大なる影響を及ぼすことは多言を要しない。然るに輓近の臺灣茶業界は世界的不景氣の為に均しく深刻な打撃を受け本年に至り益益不況を告げ往年の殷盛時より觀れば誠に雲泥の差がある。殊に包種茶の如き最大消費地たる爪哇を始め西貢、盤谷、新嘉坡、馬尼刺等は何れも不況、排日貨又は關稅政策の為著しく輸出減退を來し此の儘推移すれば數年ならずして我が包種茶輸出の全滅を見るやも計られず。故に此際新販路開拓は真に焦眉の急と謂はなければならぬ、此の新販路の開拓は幸に新興國家たる滿州國が茶の一大消費地にして殊に花茶は其大部分を占めて居るから彼地に新地盤を拓くとは日滿提携の盛に唱へられる今日に於て、國家的見地より誠に意義深きものがある。此の新地盤を拓くには當局の充分なる御援助と御指導を仰がなければならぬことは勿論なるも、我業者に於ても其の製法の研究と犠牲的覺悟を以て恒久的努力を拂はなければならぬと思ふ。(寫真は陳天來氏)
庶民金融の雄 貯蓄銀行出張所 特輯株式會社臺灣銀行は大正十年十一月に創立されて以來既に二十箇年を閲しその間幾回のパニックに遭遇せるに拘らず業況益益順調に向ひつつあり、全國八十餘の貯蓄銀行中預金額に於て第二十位を占め、預金額は日日增加の趨勢にあり、本年六月末の調查によれば預金總額九、一五四、七三二圓を示し、預金千萬圓に達するのは恐らく遠き將來のことではあるまい
當行の特色を舉ぐれば次の如し
一、預金總額の三分の一は政府に供託せり
二、預金には所得稅免除の特典あり
三、取締役は連帶無限の責任を負ふ
四、營業上天藏大臣の嚴重なる監督を受く
斯くの如くなれば預金者の為めに安全無比の地帶といはねばならぬ
當行の營業所は次記以外、全島に於ける臺灣商工銀行支店十四箇所內に代理店網を張り緊密な連絡の下に活躍してゐる
本店臺北市本町一丁目
大稻埕出張所 同 太平町二丁目
南門出張所 同 兒玉町三丁目、
臺南支店臺南市大宮町三丁目
當行の營業科目は大體普通と變りはないが記のものは特色あるものであらう
一、特約普通貯金――最も有利な貯金
二、据置貯金――一定の期間預け入自由
三、定期積金――每月一定金額を積立て期日纏った金を受取るもの
貸付は有價證券、不動產を抵當として行ふ以外に預金者に及定期積金者に對してもそれを擔保に貸付をも行つてゐる當行は庶民金融機關としてその使命を全うすべく堅實な營業を續けられ殊に大稻埕出所張の如きは預金總額百萬圓に垂んとし同方面では一般の商人から非常に重寶がられてゐる(寫真は貯蓄銀行大稻埕出張所)
稻江の模範的 內臺融合振り/橫山市治 特輯昔の大稻埕は對岸貿易の商埠として相當の殷賑を呈した物ではあるが併し夫れは淡水港の延長の如き感があった。今の大稻埕も對岸貿易の商埠地たる殘影はあるが現在の大稻埕の殷盛は夫れとは異った意味、即ち中北部臺灣の商業の中心地として、又全島人文化の淵源地として殷盛である。而して近來目醒ましき躍進をした大臺北の發展の中に於ても住宅の建設學校の設置等と異り、大稻埕が真に商業地としての實質ある發展を遂げて居ることは瞎目に值するのみならず、之に連接する大正町御成町宮前町及其附近も各特色ある發展を遂げ、此地帶を綜合した所謂臺北の發展も亦隔世の感があるのである。
大稻埕は真に內臺融合し內臺人の間に些の確執反目なく、各各平安に其業を勵み相携へて發展向上を策して居るのである、蓋し內臺融和は政治的經濟的には勿論本島に於ける總有制度施設の運用上、換言すれば真に本島の發展を企圖するに付ての礎石であり、當局及有識者に依って之を說かるること久しいのに拘らず事實は之に反する事象が尠くないのであるが、吾大稻埕に於て近來內臺人全く融合し、何等忌まはしい事象を生じないと云ふことは洵に喜ばしいことで此の內臺融合振りは全島の津津浦浦に普遍せねばならぬ。
(寫真は橫山氏)
南華、南洋の貿易振興が必要/陳清波 特輯近年臺北市の發展振りは非常に大したものでありますが、大稻埕は近頃なんだか活氣が足りない樣な感じがする。と言ふのは農業國たるの農產物の價額が暴落した結果地方農村の購買力衰頹が我大稻埕の景氣に影響した樣に思ふそれで大稻埕の繁榮挽回策として識者の考へなければならぬ事は地方農村を顧客とする對內的營業の外に、南華南洋を相手とする對外貿易の振興を圖って昔日の如き全盛なる大稻埕に返る事にあるではないかと思ひます。殊に最近日本商品の海外地盤が英米等の高關稅政策に困って失はれつつある今日我大稻埕を仲警地として南華南洋へ母國商品の販路を開拓する事が尤も必要な事であります。さうするには對南華南洋の交通機關をもっと整備する事と、現在疲弊の極に達して居る中小商工業者に金融の道を開き對外的活躍を指導してやる事が何よりの緊急事であると思ひますので、私の組合も此の意味に於て責任と使命の重大を感じて居ります、幸に大稻埕繁榮の一臂の力ともならば本懷の至りであります。(寫真は臺北勤業信組)
今日の繁榮は 人和の賜り/郭廷俊 特輯大稻埕の發展は非常に力の強いるのである、大稻埕は島都として各地方からあらゆる種類の人間が集まって形成したものであるが、都市生活として非常に人和を得てゐる處である、打って一丸となり各地方から集った人間別の衝突のなきことは勿論、內臺人間にすら一度の衝突となく內臺融合兄弟の如く、實に誇るべき共存共榮の都市生活を營んでゐるのである、大稻埕繁榮の重大原因が此の人和に依存したからであるその實例を舉ぐれば十年前人口五六萬であった大稻埕が現在では十三萬になり約二倍の增加を示してゐるその發展が旭日昇る勢を進んて止まない近な實例に過ぎない、輓近市街の整頓、鋪道の完成、照明燈の据置、並に媒煙の防止保健衛生機闘の施設等が著著面目を一新し得たのも、これ又人和の賜りである最近稻江會館の建設等で都市の生活改善に着手したのも又人和の然らしめたものである、このやうな次第でこれ迄大稻埕は住み惡いと匙を投げ出し城內方面へ移って行つた人間が、最近大稻埕は好い處だと判明し元の大稻埕へ住家を移したやうな實例は幾多もあるこの大稻埕發展の華たるべき人和は、この非常時時局に際し、尚一層その本領を發揮して國家社會に寄與し、引いては大稻埕の繁榮に資助せられんことを希望して止まない次第である(寫真は郭延俊氏)
對岸で大飛躍の 豐南信託公司 特輯對岸の數多の錢莊に伍して信用の確實、經營の成功を誇るものに廈門の豐南信託公司がある鎮邦路二二番地に本店を有し上海、香港、廈門、神戶に夫夫コルレス先を有し顧客本位の下に安き手數料で對岸貿易商の為めに營業を續けられてゐる。當公司の資本金は銀拂込濟二十萬元にして積立金銀七萬元を擁したその資產の堅固は同種業者中正に隨一である、公司長の林木土氏は臺北板橋の產、夙に銀行界に投じ新高銀行の取締役から商工銀行の厦門支店長大稻埕支店長を經て廈門に渡し頭記の公司を起した人で本島人では金融界に於て氏の右に出づるものはない
臺北市永樂町五丁目の株式會社天南信託公司は豐南信託公司の代理店として一切の業務を代行してゐる【寫真は林木土氏】
堅實な基礎に 懇切な主とする彰銀 特輯彰化銀行は本島人に對し經濟的基礎を確立しむる為設立せられたものである同行臺北支店が大稻埕の今の場所即ち太平町一丁目に開設せられたのは大正元年九月で正に二十二年の歲月を經過してゐる、當時大稻埕の商取引は勿論本島に於ける中心的勢力をもってみたのであるが、しかし今日旺盛なる狀態に比すれば蓋し隔絕の感がある、昔は本島人の取扱にかかる仕事は局限せられ所謂內地人の取扱範園には容易に進入許されなかったが今日にては內地人の取扱商品即ち本島人が悉皆手を染めてゐる、これ丈けでも本島人の經濟的發達を察知するに足る事と思ふが更に本島人日用雜貨の大口取引は殆んど大稻埕商人の手に依り占有せられてゐる、これが逐年大稻埕の商取引を大強化した所以である、大體本島に於ける取引は北部は臺北を中心とし南部は臺南を中心とし勢力を二分せられは形勢にあった、これが近年臺北の勢力即ち大稻埕商人の引取が臺南高雄等南部地方に伸展せらるるに至ったのである、名實共に大稻埕は本島に於ける經濟の中心である彰化銀行が主として中部地方の主要なる都市に支店を有する關係上同行臺北支店に依り大稻埕商人の受くる利便は蓋し不尠ものがあることに同行は所謂財界恐慌の際に於ても毅然して、此等暴風雨圈外に立ち、所謂配當銀行として本島經濟界の為め萬丈の氣焰を舉げてゐる、これは同行當事者の卓越せる經營上の手腕と行是とする堅實の賜であると思ふこの二十二年の長き年月に於ける臺北支店の發展は一言にして堅實の二字につきる、同支店長隣小坊氏は同支店開設當時同店に勤務し後ち基隆支店長を經て再び大正十四年九月同支店長に就任した人で大稻埕の事情通である
同氏に配するに溫厚篤實なる實務家井挂武雄氏あり、且つ元商銀常務の坂本信道氏が同行北部支店監督として營業に參加して居る、近年同店の發達著しきものあり、大稻埕商人の□てが同行と密接なる取引をなすに至ったのは同行のモットーとする堅實な基礎に於ける進取的取引と懇篤丁寧迅速なる應對振りと取引先に對する不變の溫情味にある(寫真は彰銀)
信用確實な 肥料商義順 特輯市內太平町五丁目の終點に美麗なる本店を有する義順商事株式會社開業してから十年になるが、各地方に二、三の支店がある。豆、粕、硫安、燐酸等の肥料を販賣してゐる。年に六七十萬圓以上の取引をしてみる島內有數の大肥料商である殊に社長陳金木氏は新進の實業家である、本島は勿論の事內地肥料商の信用を博してゐる確實な會社である
大稻埕繁榮と 自轉車界/王初生 特輯私が只今の處へ店を設け獨立して商賣する樣になった大正六年頃の大稻埕の自轉車界は販賣店少ないが自轉車を利用する人も少なかったのであります、其の當時の數は約三千臺位かと思われますが、現在では確かに一萬六千臺はありませう。私の店でも開店當時と今日では二十倍の販賣高になって居ります、是等の實際を見ても市區改正と交通の安全より繁榮へと進む大稻埕の各店並に大眾は自轉車を利用するに至りしものと思われます、隨って今後共大稻埕の隆昌と共に彌彌交通も繁く自轉車の利用も增すことこと思はれます進輪店主王初生氏は日米商店代理店として同商店中全島第一の小賣店あると同時に今年コンパス號ホドワン號の全島配給所並に一般部分品の卸商をなし在庫豐富にして大稻第一の卸商である。(寫真は進論商店)
當社は臺灣製糖工場の跡/山岸初太郎 特輯當社は大正二年臺灣爆發物取締規則が施行せらるるに至りし結果始めて創立を見たもので此の邊は臺灣製糖工場の跡である今も昔の儘の姿で同じ太平町でありながら一向改善されて居りませんが當社の工場も最初はバラック建の粗末なものであったが、爆竹が亞米利加へ移出を見るに至り相當の利益を收めたと共に取引が對外的な外國人も工場を視察にくると云ふので煉瓦にしたものです御覽の通り當社は勞資協調の仕事ですから仕事に對し相富な熟練を要します、此の町の人人は幸いよく仕事を理解して吳れて殆ど一家をあげて仕事に從事して吳れて居ります、家庭に殘る者は家庭に於て出來る仕事をなすと云ふ具合に從業員は現在では約三百名混然たる一大家族をしてゐます年產額三十萬圓位で今日では其の大分を島內で消費して居ます、私は創業以來今日迄當社に勤務して居りますが、事故と云ふのは前後に只一回に火用の火藥の取扱から死者を出した位で、外に事故がありませんでした以前の樣に亞米利加へドシドシ移出する樣になると會社と共に此の町の人人も更に幸福になるのですが為替の關係で一時止ったが又昨今少しく移出の機運に向って來て居ります。
商工銀行の 目覺ましい躍進! 特輯臺灣商工銀行は大正十二年七月嘉義銀行及新高銀行を合併し、資金一千六百萬圓に增資し、全島に營業網を張り約四十八箇所の營業所を以て大に業務の發展を期して來たが、歐州戰後の經濟恐慌の影響を蒙り大正十三年十二月六百萬圓を減資して資本金を一千萬圓と堅實なし、更に昭和二年の金融恐慌に依り、昭和三年一月に五百萬圓に減資して、資本金五百萬圓と為し堅實なる為した結果、近年來の業績は著しく改善され、本島に於ける商工業の金融機關として益益其の使命に邁進しつつある、殊に同行が大正十二年新高銀行を合併した地盤である同行大稻埕支店は永樂町の中心地にあるだけに大稻埕金融機闘として商工業者に利用され、其の業績は躍的に良化して居る、同支店の昭和二年度の預金と拂戻高と諸貸付金及び商業手形、為替取組高の取扱高と昭和七年度の取扱とを比較すれば如左單位「單位圓」(寫真は商工銀行大稻埕支店)
科目 昭和二年度 昭和七年度
預金 預り高 七一、四五九、四〇九 一〇〇、二六二、四六四
拂戻高 七一、八二三、八一二 九九、六三五、八三四
諸貸付金 預り高 七、三九九、三九〇 八、六三五、四二八
拂戻高 八、八一一、五九三 八、五一三、〇〇五
商業手形 割引高 五、一三〇、五一四 一三、五六九、八六四
決濟高 五、〇一〇、四七六 一三、五三六、二二五
為替取組高 仕向高 九、八四三、九七三 二二、〇二九、五八五
被仕向高 六、一三〇、〇二〇 九、五五一、二二五
金銀勘定 入金高 一四七、四四九、三四三 一九三、一六三、二八五
出金高 一四七、四九一、〇八八 一九三、一三五、九二二
三村號自轉車で 知られた泰美商行 特輯三村號自轉車と云へばすぐに泰美商行を思出す程に大稻埕では「泰美」の名が知られてゐる、同行は三村號以外にラーヂ、ライオン號自轉車の全島一手販賣權を有し輪界では押しも押されぬ地步を占めてゐる、該行はその他に酒類雜貨の卸賣をも兼ねてゐる、尚店主陳天順氏は數十年來煙草仲賣人を務めて曾って龍江信用組合長を歷任せしことあり當地での紳商である
大稻埕發展號 女子私學の魁 靜修女學校 臺灣唯一の天主教女學 特輯本校は大正六年羅馬カトリック教會臺灣教區長ケレメンテ・フェルナンデス氏の設立に係り年を閱すること十六ヶ年、卒業生を出すこと九百九十三名を算し、本島女子教育に貢献せること大なりと言はねばならぬ、創立當時はケレメンテ氏校長に、小宮元之氏顧問として盡力し今日の盛況を見るに至った現在はトマス氏校長に職員拾六名學級數八在學生四百九拾六名を有しミッションスクールとして特殊の存在價值を保ち本來の使命を果しつつある該校の教育方針に付校長代理鈴木讓三郎氏は語る本校の教育は、他の公立高女と學科數や其の程度に大した相違がない。唯女子を我が國女性の養ひ來りし從順性を傷はぬやうに十分の保護を與へ、更に近代女性の特徵である明朗にして快活ならしむるやう注意して居る。特に家庭の女子として十分役立つやう、裁縫手藝家事作法等に留意して教育して居る。
大稻埕唯一の女學校なる故に大稻埕のためにとて、校庭の街路を每朝掃除し、大稻埕一の淨街路たらしめ、漸次寶隣保にこの風を移さんと努力して居る。生徒も亦學生社會奉仕の一として、喜んで之に從事し、曾て怠りたることがない。
目下本校生徒は、豫定數を超過して居るが、皆皆品行を慎しみ體育に精進し、よく勉強して居ることは誠に欣快とするところである。
本校教育に對する兔角の批評は當らぬものが多い。本校は羅馬公教會が其の趣旨に基き日本國のために忠誠賢良なる女性を養成して御恩に報いんと企圖し居る純私立學校であるから、或は州立とか、公立とかの希望は絕對にない。どこまでも私立して公明正大に內地人とか、本島人とかの差別觀を撤去して神意に從ひ人類一如の精神にて從事して居ることをこの際明瞭にして置きたいと思ふ。
(寫真は靜修女學校舍)
服裝の變化は 實に隔世の感/重田榮治 特輯島都唯一のデパートメントストアである菊元商行の主人公である重田榮治氏を大稻埕大平町の本店に訪ね、綿布商として在臺三十餘年の大稻埕の變遷觀を拜聽れば、同氏は微笑をたたへ乍ら衣裳文化から見た大稻埕を語る
私は明治三十六年に渡臺し、現在の店舗で綿布商を開業したがその當時の綿布の商を見るに內地からは內地人に供給する吳服物を主として移入して居ったので、內地人綿布商としては大して振はなかった、その反面に本島人間の被服額は當時にあっては香港を經由した英國產が、支那產の綿布、麻布、又は泉州の粗末なる綿布が入って居っために內地人と本島人間の被服原料の分布が異つて居った、この狀態を以てすれば何時迄も內地吳服物が臺灣に普及しないので我達同業者が對策を考案した結果、內地からも英國や支那品と同一の品物を造り出す事が必要であるのを想到し、盛んに內地から製品を作って臺灣に移入して販路の擴張を計った、その後大正八九年の歐洲大戰を受けてドイツから染料の輸入が杜絕した機會に內地で新しい染料事業が發達した為めに吳服物の色合や柄も上達し、本島人間の嗜好に投じたので、英國や支那品を驅逐し、却って支那へ輸出する樣になった、
それを服裝文化から言ふと明治時代の本島人間の服裝は單色の極めて殺風景であったのに、近年來の本島女性の服裝は、實に色とりとりであり千紫萬紅である、この影響を受けた為めに大稻埕の街も非常に明い街になり昔に比較すれば實に隔世の感がある、私をして言はしむれば臺灣文化の先鞭は服裝美から導因を與へて發達せしめたと言ふも過言ではない
都市と精神病/中村讓 特輯人口の增加につれ社會生活が複雜になって行くことはあらゆる都市を見ても分る。隨って居住者の日日の惱みも多く、病も多いと云ふ事になる、當院でも、數年前と今日では患者の數も增加して來てゐる、殊に大稻埕方面の發展につれ文明病に屬する精神病患者の增した事は事實であります、根治しにくい患者でも最初のうちに入院治療すれば必ず根治するものです。
因に院長中村博士は斯界の權威者にして博士の手により回復せる人には數百名の多きに達する由、同院の病室は完備入院隨意であると、(寫真は養浩堂病院)
門前市をなす 郭小兒科醫院 特輯院主郭火炎氏は大稻埕切ってのはやり醫者、昭和三年臺北醫學專門學校卒業後直ちに臺北醫院小兒科に勤務し安井酒井兩博士指導の下に專ら小兒內科の臨床に付き研鑽を進めたが、知友先輩の勸誘により昭和六年五月臺北市永樂町三丁目(舊南街)で「郭小兒科醫院」を開業した。
常に親切と慈愛とをモットーとし我が子に對する氣持で患者に接し最新の學理で患者に臨んだため歡迎を受け門前常に市をなし患者日に百を越え日夜轉手古舞の態である。氏は臺北醫院で多年鍊へられた妙術を有する上に又最新の學理研究に精進を怠らず實地と理論とに深き造詣を有すといはれてゐろ
幼稚未開なる本島人の小兒衛生思想普及を念頭に置きその方面に對し常に勞力を惜まず、一般父兄の育兒保健の良き相談相手と慕はれてゐる(寫真は郭火炎氏)
尖端を行く 巴里公司 特輯婦人界に最新式流行衣服を調製してゐる巴里公司は內臺婦人から非常に歡迎されてゐる巴里公司は開業してから五年になる業績は益益發展してゐる、巴里公司には特色あるマークがあるこの「マーク」が附いてゐるものだけが同公司の調製したものである、現在島都には幾多の婦人服仕立屋があるが巴里公司ほど好評を博してゐるものはない(カットは巴里公司のマーク)
稻江の一流 カフエー孔雀 特輯社交界の花型である大稻埕のカフェー孔雀は市內太平町三丁目の中央にあるが、昨秋開業して以來好評嘖嘖で人氣がよい、殊に七月催した女給人氣投票は頗る評判がよく女給のサービスも仲仲洗鍊されてゐる。(寫真はカフェー孔雀)
中秋餅で有名な 五星商會 特輯舊南街商工銀行大稻埕支店の隣右にある五星商會は陳水田氏が經營してるる稻江一流の食料品卸商であるが開業してから十年を經てゐる。確實な商店であり內地の各商店からも信用を博してゐる多くの特約のうちユニオンビール、味の素、森永ミルク、森永の菓子がある。殊に島內有名な元春製菓部として中秋月餅及び特製品イチゴ餅、レモン、金腿五仁餅を前も優良なる原料で製造してゐる氏は新進の實業家であるが、稻江商業の振興にも儘力をしてゐる。
斷然正札勵行 洋雜貨店瑞祥 特輯太平町三丁目瑞祥洋雜貨店は雜貨商として最も人目を引いてゐる斷然正札勵行をモットとして開業して以來既に五六年を經てゐる、誰でも安心して買へる店である。主人陳氏は稻江本島人の商店先覺者で新進の實業家である、店內の洋什貨はモダンの品物揃ひで大稻埕の紳士貴婦人を相手にし、各方面の注文が殺到してゐる稻江第一の洋什店である
本島茶業の功勞者 林鵬謙氏 特輯市內港町裕泰茶行主人林鵬謙氏が生茶熟茶各種の茶に精通してゐるのは五十餘年の研究の結果である。氏は英、米及南洋各諸島に茶の販賣に貢献し實に臺灣茶の擴張の功勞者である、殊に氏は慈善家で各種の社會事業にも盡力してゐる紳士である。現に港町義和洋行(英)の茶技師を兼ねて居り、其の長男林石泰氏は同行の支配人である(寫真は林鵬謙氏)
ビカ一の家具商 李君木商行 特輯島都大稻埕に於ける有名な指物商と云へば李君木西洋家具商行を思ひ出す。即ち主人の李君木氏は技術的の天才があるため氏特製の最新式西洋家具は最も人目を引いて居る。氏は指物を十二三歲より研究し實に三十餘年の長き經驗がある。市內日新町に開業してから十二年になるが、一般の別莊用家具は勿論、床、椅、卓子其の他の家具を造つてゐる、昔から相當中南部方面の注文がある。職工は三十餘名である。
老舖雜貨卸商 新集益商行 特輯林等氏令息林祖謙氏の經營である。明治二十四年創立してより四十餘年を經てゐる。商品は和洋什貨、化粧品類、毛糸類の卸商である、島內は勿論內地各地方の一流商店からも絕大の信用を博してゐる。林氏は相當の人格者で社會事業にも盡力してゐる
溫厚な紳士 方玉墩氏 特輯市內港町二丁目に堂堂たる邸宅を構へてゐる方玉墩氏は多年米界に活躍し巨商瑞泰と共に一時はかの三井、三菱をさへ壓倒したほどの大移出である。感ずるところがあってか、數年來から斷然米商から手を引き協裕土地建物株式會社を組織した。氏は社長となって敏腕を揮った。溫厚な紳士である氏は一般から好評を博してゐるが常務支配人江茂松氏は頗る老練の士であるから今後の發展を期待されてゐる
レコード界に輝ぐ OKレコード 特輯娛樂機關の少い大稻方面に着眼した陳英芳氏は太平町三丁目に蓄音器合資會社陳英芳商會を開業したその業績は相當なものである。オーケレコードは本島人向きのレコードばかりで純國產品である市內は勿論のこと全島的に非常な勢で普及してゐる。吹込四回のうち第一回は三萬枚、第二回は四萬枚、第三回は五萬枚、第四回は六萬五千枚である。殊にこの第四回目は發賣數日間で賣切れた。三箇月前永樂町二丁目(中華領事館前)に移轉男女歌手四十數名を一團として熱心に研究してゐる、近く內地で吹込むとのことである、
フオード販賣店の 內地旅行計畫 特輯世界有名なる自動車は何人と雖へどもフォード自動車の事を思ひ出す位に知られてゐるが、今回新型のオード宣傳の為めフォード乘用車トラック、トラクター購入者には十月末日迄に一臺每に內地往復旅行券一枚贈呈し、團體旅行費も一切負擔して內地名所即ち日本フォード工場の參觀、日光、東京、江の島、奈良、京都、大阪、を見物、下關を經て門司乘船、往復十五日で歸臺の豫定であるが、汽車汽船は二等である。既に多數の愛用者もあり出發期は締切後決定の上發表すると
許可制拓務若承認 課稅案農林或可讓步 減段案之成否全在于此 頭條新聞【東京二日發電通】就握減藏段案成否關鍵之移動米課稅、移出米許可制度之二問題、拓務省顯然示絕對反對之態度、農林省以為由減段案除外此二項時、恐將使同案成為有名無實、故依然強硬固持原案、結局此問題、除待政治的解決外無他法、而移動米課稅、依減段補償所生之國庫負擔之一部、使轉稼為受益者之負擔、是由財政的根據而為立案者。此課稅之結果、當然得豫想米價之昂騰依課稅於生產者不生何等之利害關係、結局課稅金額、為內地消費者大眾之負擔、由如前述之理由、農林省或與大藏省之關係上、而想出課稅案、其全然不為豫想及此、植民地關係徒偏於神經質、結果而不能理解稅之真意義、亦未可知、故在現在關係如有大藏省之諒解、則就移動米課稅、以為拓務省或不難讓步、此即是農林省之真意、而就移出米許可制度、亦欲以課稅問題之讓步為條件、而強欲擠開、即減段之目的、是以減少管外移出米並植民地移出米為目的、然減段如可望成功、則米價昂騰、然此時所有之移出米、勢必激增、減段之效果勢自返原、故減段案是以移出米之許可制度為絕對之條件此即是農林省之主張、拓務省是否予以同意、實屬疑問、結局以課稅問題之農林省之讓步為條件、而在許可制度、拓務省似可讓步。
社說 為思想對策之言論壓迫 社說為圖善導近時之激烈而且混沌之極右極左思想,在政府方面,向有樹立思想善導方策並文教方針,外更為考慮思想取締方策之具體案,此項竞於去九月十五日之閣議時,由堀切書記官長提示思想對策協議委員會原案,並作委曲之報告,而閣議經有正式決定一切,其原案可由關係者之內務司法兩省提出於來議會無疑,聞其案係以,(一)治安維持法改正,(二)出版物取締法改正,(三)檢閱制度之擴充等三大項目所構成,其要綱揭出如左,
二
治安維持法之改正,似欲對左記要點行之,對國體變革為目的之行為,處以嚴罰,而在所定刑期內,再不改悛者可得繼續豫防拘禁,改悛者可得保留其起訴處分,使檢察機關及特高機關充實整備。
就出版物取締法之改正及檢閱制度之擴充,決定對左記諸點行之,改正納本制度,嚴罰無屆出之出版物,關於發賣頒布禁止並差押,擴大强化地方長官之權限使新聞上不穩記事之責任者得明確等之制度之改善,關於發行停止之處分,擬設置新制度以統一輸入出版物,無線電及映畫等之檢閱及其他事項之改正及擴充,
依上所述,可得明白者乃政府欲對極左極右之不穩思想,簡約言之,處以嚴罰主義,而
由嚴罰欲行取締不穩思想,併期其絕滅,此種方法果能舉得所期之効果與否,頗屬疑問。
三
對政府之一般思想取締法之改正,姑且勿論,於兹不能看過者,乃欲改正出版物及新聞紙法等思想取締之事,則使記事之責任明確,擴大强化地方長官之權限予以發行停止處分權,如斯地方長官難免藉言於不穩思想之取締,而濫用其強大之職權,,行必要以上之言論壓迫,結局正當之言論,為不當之壓迫,勢必受屈而且受刺激,因此逐致激成不穩思想亦未可料。總之,言論之不當彈壓易使釀成不穩思想,固無疑問,因吾人深知過去當局之不當壓迫,經見造成許多之危險人物及不穩思想,故尤深此感,
四
對為特種之目的,而發行之出版物或新聞紙,嚴加取締者,固屬當然,然對一般之出版物及新聞紙,應當格外助長之,決不可濫加彈壓者,雖三歲小孩亦知之,壓迫言論,終使社會化為暗黑,使社會混亂,退步,係不須議論之處,壓迫言論之弊,既如上述,由壓迫言論而欲期思想取締,係屬一大誤謬,此乃不知言論乃至思想因由何處而來者之錯覺,言論或思想,若無何等之根據,必不能單由妄想而發生,別無根底之思想或言論,不須講究對策終必自為消滅,決不足為憂,然具有根底者,假使受彈壓,亦不致為容易撲滅,何者,言論或思想乃由其所根據之事實而所生之枝葉而已,若不使其母胎之事實根絕,任何彈壓,亦不能使之絕滅,乃屬眾所共認,因此而若欲撲滅某種思想必須先衝其事實,破其母胎,方能達其目的,若其事實仍存於社會機構或經濟機構之裏面,而不圖其改革時,決不能使其所生之思想自已消滅,或受撲滅,
無視此種事理,使主客顛倒,妄行强壓,而欲取締思想時,其結果唯有百害,實無一益,反見弄巧成拙而已,殷鑑不遠,只恐徒學獨逸那智斯之焚書坑儒等之愚策耳。
齋藤首相提案 廢植民地特別手當 各閣僚同意令翰長調查 頭條新聞【東京三日發電通至急報】齊藤首相、在三日之定例閣議、提案廢止植民地官吏之特别手當、各閣僚對此均表贊意云。
【東京三日發電通】為行財整理之一端、齋藤首相夙即就國庫補助金交付金之減產整理、各委員會委員之手當、植民地特別手當等、在考慮中、在三日之閣議、由首相提案、凡官吏兼委員者之委員手當全廢、植民地官吏手當之廢止制限、年度末手當之廢止、謂此時務望其實現各閣僚亦無異議同意之、故政府立使堀切書記官長、為詳細調查研究、即附議於事務次官會議、以期其實現、而實現行政整理之一端云
社說 街庄基本財產造成之急務 社說語云「人有恒產纔有恒心」或謂「衣食足知榮辱」,皆言人有恒產之必要。街庄亦莫不如是,大凡所謂優良街庄者,概有尨大之基本財產。是故以基本財產之多寡,可以斷定街庄之優劣。何則,街庄內之教育,衛生,交通,產業等之施設,實要莫大之費用,故若無有基本財產之收入,一切仰於街庄民之負擔,誠非容易之事。是以有心於街庄政者,莫不致力於基本財產之造成。若有視察內地優良町村者,莫不驚駭其基本財產之尨大。如山武郡之源村,幡多郡之蕨岡村,東京府下之戶倉村,安藝郡之中山村,西伯郡之法勝寺村,信濃縣之加子母村等,小亦有數萬圓之蓄積,大有數百甲或四,五千甲之造林,以其收入可以維持町村費者不少。
二
試查臺灣之現狀如何?總街庄數二百五十九之內有基本財產之街庄者有一百九十八街庄,據昭和七年度末現在基本財產所有額計有三百三十九萬五千七百六十一圓,此等概係廳時代為學校基本財產籠括所在地之神明會或部落有之財產者,其中街庄在自家積立者亦不少。然一方面街庄債亦甚巨,據查昭和六年度末現在街庄債有一百五十五萬六千四百二圓之多,值基本財產總額之約四成六分。譬如有十萬圓之資產者,負有四萬六千圓之債項相同,豈得謂之富裕?是故臺灣之街庄向後須盡力於基本財產之造成,方得應時勢之推移,否則難免遭遇着梗塞之時候。官廳亦應予以援助,有官有林野宜拂下於街庄,指導街庄當局,協力完成此大業才是。
三
大正九年十月田總督施行街庄制的時候,有命各街庄申請官有林野之拂下,於是各街庄極力申請,不幸遭遇田總督更迭,茲事遂寢。嗣後却有一道公文,謂欲為街庄保留承認地,爾來懸案至今,此事多未見解決。至本年一月於中川督憲之手,才許可大宗官有林野於臺南州竹崎庄(山林六百十三甲)中埔庄(山林千五十九甲)小梅庄(山林千四百七十六甲)番路庄(山林五百十一甲)。本年五月許可布袋庄田十甲餘,畑十二甲餘,又高雄州下高雄市,潮州庄,路竹庄及臺中州下新社庄,東勢庄,南投街,名間庄,國姓庄既得許可。臺北州文山郡下二三街庄及宜蘭郡下二三街庄亦經已受許可大宗之官有山林。於吾人所知的範圍大概如此,其他或者有滄海遺珠亦未可知。由是觀之,此事可謂漸見解決之曙光,也許是可喜之現象。
四
由來政治家之初心,善者居多,觀其赴任當時之聲明就可知其梗概。語云「勿忘初心」,可為政治家之座右銘。田總督初施行街庄制之時候,命各街庄申請官有林野之拂下,其初心可謂善矣。不幸不久而遭更迭,可謂臺灣之一大不幸。然幸遇中川總督之蒞任,有逐漸進行之模樣,若得陸續拂下則臺灣各街庄基本財產之造成,當有劃期的一大進展。當此自治制度改革與義務教育實施高唱入雲之秋,臺灣各街庄基本財產之造成,可謂燃眉之一大急務。然各街庄當事者,亦須圖自立更生之道,不可單恃官廳之拂下,須立百年之大計自行蓄積。一方官廳若有適當之地,亦須應街庄之申請陸續許可於街庄以利大眾,則比較許可於一,二勢力家,其功量豈不是莫大?切望當局三思才是。
為東洋平和廣田外相的 對美俄華外交策 以自主的貫徹帝國主張 頭條新聞【東京四日發電通】廣田外相、以國防充實之絕對力為背景企圖平和的處理一九三五年之外交國難、在三日之五相會議、決披瀝其所懷抱之對外政策、然廣田外交之中心觀念、以自主且能動、貫徹帝國公正之主張、在以謀東洋平和、其對華、俄、美外交政策之全貌如左、在其實行、一般均抱多大之期待
一、對華政策
(甲)對中國之純然的經濟的建設工作、帝國有意盡量予以好意的援助、但中國之經濟的建設、如藏有長期抗日之意圖時、帝國本善隣之特殊關係、為啟其迷妄、講積極的措置、
(乙)使中國官民認識滿洲國為獨立國家日臻發達之事實、使其毋再企圖覆滅既成事實、以調整華滿兩國關係、而增同文同種之共存利益、
(丙)中國傳來之以夷制夷、遠交近攻政策、結局應使其自認為誤遠東大局前途之所以、講有效措置使得行審議日華滿三國協定
一、對俄政策
(甲)近視眼的對俄政策、非最慎重不可、尤其蘇俄利用特有之國際的地位、對日本為種種宣傳工作、對此宜剖白其政策之不當且危險之所以、同時帝國、幸勿乘其宣傳、依獨自之見解、以處理對俄問題、
(乙)現在開會中之東鐵讓渡交涉以下於日俄及日俄滿間、有幾許重要懸案、此等懸案依互相之誠意、方得圓滿解決、俄方若示誠意、我方亦不吝藉外交交涉以處理。
一、對美政策
(甲)在日美相互間、將並無攪亂其平和關係之案件之事變、在兩國各自之認識為之、為第一義、如滿洲問題、亦曾為兩國抗爭之主題、帝國對美國官民、先使認識此事實、務使一掃其對日敵視感情
(乙)在一九三五年之軍縮會議、由帝國雖有要求依華盛頓、倫敦兩條約之海軍制限比率之改訂、然對此力說帝國國防之絕對的必要
(丙)謀日美間之通商及其他平和關係之增進、同時根據其地理事情、就特殊利害關係、使容認各自之主張、須毫無隔意交換意見。
陸海軍對豫算 強硬主張承認全額 藏相的辦法如何堪注目 頭條新聞【東京五日本社特電】政府雖表明軍事豫算先議之意思、然大藏當局以為將軍費、特殊的辦理技術的殊屬不可能、態度相當強硬、就右陸軍當局提出總額五億七千萬圓之要求、蓋為對付最近之蘇俄之對遠東政策並國際情勢並要求考慮國內軍需工業能力、所以雖展延審議、亦決要求承認全額、頗持強硬態度。
一方海軍省謂所要求之全部如不貫徹、國防之確保難期、此亦持強硬態度、將如何對處此港大軍事豫算、高橋藏相之辦法、將影響內閣之將來、協定軍事外交國策之此時、推移頗被重視云。
社說 乘官界異動 須刷新行政 社說一
這次全島官界的大異動,實為中川總督蒞任以來所未有,自殖產,警務兩局長更迭以來,早已傳出府內外只少部分課長級的異動而已,不料到了總督上京後,人事劇然一變,竟為廣範圍之更迭,單就這次的異動,高等官已達四十餘人,若合地方退官者總數約達數百人,因此異動的旅費及退職賞金其數不尠。如此費了許多的國費,若不能革新行政,不獨無益於人民,官界的更迭,亦可謂徒費國帑罷了。
二
若論這次退官者之多,因改正的恩級法,從本月一日實施,故一般的老吏因自知前途不長,為自己之利益計,在未施行以前退職較為有利,是故以自動的退職者頗多,因想乘此好機退官,富裕者可囘內地作隱居安樂的生活,如感不足慾心勃勃者,將可再在臺居住,以便稟請退官者特別優待的土地,或轉入農會,水利組合,市街庄的團體等,以饗太平讌者,於每次官界的異動,我們老早已看慣了,在此本不要多提,但因這種舊習,若依然繼續,臺灣的各種公共團體,永無革新之一日,仍舊是為退官者之收容所,因這些老吏在官場已是老朽的,怎能再用於公共團體,難怪這些老朽退官者所主持的公共團體,不獨沒有生氣,反倒為安固其地位,而以退縮主義,保守的方針,只虛度光陰為其上策,可把現實作證,便能一目瞭然。如此,怎能使臺灣的公共團體得以為社會活動起來呢?
三
於是乎,我們希望在此官界大異動之好機,對於退官者的處置,不宜傲效前例,介紹進入公共團體等。又對於異動的各官,大多是府內外的課長級,郡守,市尹,署長等職,皆是臺灣官界的中堅人物,把握其實務的,對於向來官界的積弊,須乘此機打掃乾淨,刷新行政上的舊態,使沈滯的臺灣官場,為劃期的更新,尤其是希望新進的少壯者,從此可發揮其素來的抱負,應乘此機革故鼎新,表現少壯官吏的特色,倘使故態仍舊不改,與老吏在職有何差別,世人的期待,異動的意義,豈不是空歸於徒勞嗎?
四
我們為看於過去動,大多出於政黨的政策使然,故異動後不見有何等的刷新,只為黨略上,配置其人員,以維持其黨勢,對於行政的刷新,在異動當時雖各張其聲勢,皆屬空雷無雨之類,於行政上不見有何等的効果,這是一般所知道的,不要我們在此多說了。於是我們乘此異動之機,為喚起官界的革新,對於數十年來官場的積弊,非在此異動之時,實無法促進其更新,因老吏雖知其弊,皆以糊塗了事,以為渡世之良策,例如有貪官污吏,若非暴露於世人之前,皆為極力掩盖不喜揭開,這是官場向來的積弊,須乘此機清掃,以舉行政的實績才是。
われらは先づ 絕景に魅了せらる 本社主催對岸視察團 視察の跡を顧みて(Ⅰ) 海外遊記臺灣に在住する本島人大多數の住民は殆ど全部福建、廣東の兩省に祖先を持つ人々である。臺灣と對岸は全く一衣帶水の關係にあるが多くの人は對岸の事情を知らず、對岸の人々もまた台灣の實情に頗る疎い、本社はこれを深く遺憾とし本島人に對岸の事情を知らしめ、兩地間の關係を密接ならしめるため組織されたのが今回の視察團である。
幸に本社のこの催に對し多數の贊成者を得、萬殿の用意をすすめ團體(三一名)となつて未知の世界最初の目的地たる福州を目指して出發したのは九月二十日であつた。吾等の乘船長沙丸が出帆四時といふにわれら視察團はその日の一時頃にはすでに長沙丸の客となつてゐた。長沙丸は高雄、基隆、福州、上海、青島、天津、大連の各地を定期的に巡航する中國沿岸航路である關係上下級船員の全部が中國の勞働者である、從つて氣分は內地航路とは全然趣を異にし、中國下級海員の生活模樣が頗る旅行團の興味を惹いたことは言を待たね。
╳──╳
彼等は中國の革命はどうならうと、また世界の經濟恐慌が如何に深刻であらうと我不關焉の態度を構へて安い賃銀で孜々と聞いてゐるのである。而して食事も自分持ちで自由勝手に御馳走を拵へてパクツリ有樣で如何にも屈托がない食卓がやがては洗濯板にも使用される簡易な生活振りである。變通自在吞氣である點において全く天下無双だ、この生活樣式を以て世界經濟を征服しつつあるを思へば真に感慨無量のものがある。だが旅行者にとつては愉快なものではなかつた。
╳──╳
かかる獨特のアトモスフイアの中に一夜船に搖られて廿一日の早朝閩江の江口に入る、この閩江江口一帶の光景は山脈海島の起伏隱顯甚だしく、海上の濁水と相映じて福建獨特の感じを與へ、兩岸の山々は殆ど全部岩石の山脈をなし老松その峯を彩る風致は臺灣では見られぬ光榮であつた。われらはこの特有の風光に魅了されつゝ河岸にある小都會馬尾に着いたのは午前の十時頃であつた。
╳──╳
馬尾は閩江の河口より約四十二キロの地點にあり、この地には海軍兵學校あり、海軍造船所、稅關があり、船から眺めて相當な町である。中國都市風景のわれらに與へた印象は上々である。
なほ馬尾に碇泊してわれらの注目を惹いたものは羅生島上にある羅生塔であつた。この羅生塔は昔大富豪の羅生といふものがある名妓に戀をして所持の金を用び果した未が見捨てられた結果を招來し遂に無限の怨を抱いて親元より入るだけの金を取寄せて建設した歷史的な塔である」と物知りのS君より說明を聞かされ、昔も今も變らぬ情艶史の一頁て如實に見たような氣がして少か□ず興味を惹かれたのであつた。この印象深き馬尾において福□在留□□の熱烈な歡迎を受けてラ□チに乘り換え約十三キロ溯つて福州に着いたのは十二時すぎであつた。(寫真は馬尾、遙かに見える塔は羅生塔)(延陵子記)
鮮內米穀關係者 決開鮮米擁護大會 反對農林案之差別外地 頭條新聞【京城六日本社特電】米穀統制問題之推移、全鮮關係各方面均深加注視、農林省減案實質、顯係差別外地、又考慮鮮米移出制度等、今後鮮米之立場、益陷於不利之形勢、鮮內各地關係者、乃決開鮮米擁護期成會臨時大會、舉擁護鮮米之氣勢、欲全鮮輿論、反對中央之差別待遇、目下在關係者間進行協議對策云。
社說 糖會社之利潤過多 不宜單制限增配 社說一
最近值明治製糖與臺灣製糖將發表本年下半期之決算時期,兩製糖會社因其利益激增,意欲增加二分之配當,然因大藏省不喜其增配,以非公式漏出不賛成之意見,竟使兩製糖會社均各照舊配當一割。聞大藏省所抱之見解,謂砂糖為國民之日常必需品,同時安住於高率關稅之保護下,此際若實行增配,處於非常時之今日,對於國民必引起不良之反響。
二
前記大藏省之見解,吾人却無條件表賛成,但現在製糖會社能獲得多大之利潤者無他,第一因有高率關稅之保護,第二因有强力之生產與販賣統制,第三因買收過賤之甘蔗等之結果。如現在每擔以六圓左右之生產費之分密糖,而極力維持十二圓以上之賣價,故一流製糖會社易舉四割以上之紅利。處於對資本主義多抱反感之今日,獨使製糖會社享受高率之利潤,實難容易無條件看過。然大藏當局僅抑其配當,仍不能使其分配公平,故進非而制限為適當之利潤,以確立社會的正義不可。
三
以吾人之見解,分蜜糖每擔之價格漲至十圓以上,母乃大有榨取消費者之利益,兩三年來於國內砂糖之消費,殆難增進者,不外糖價過貴之結果。若糖價降至十圓左右,消費必增,政府亦可增收多額之消費稅,以補充赤字豫算之一部。故如糖業聯合會汲汲乎吊起糖價為唯一之目的,雖稱其販賣統制成功,大有不利於消費者與國家之收入。政府既已制止製糖會社增配,何不再進一步,以制止其過多之利潤,始能確立社會政策之基礎。其方法不一,此際或撤廢三割五分之附加關稅亦可,或制定其最高價格亦無不可。
四
其次製糖會社因極度裁减買蔗之價格,故自昭和八─九年期以來,種蔗之土地一舉縮少二萬七八千甲,因此多轉為米作,竟惹起臺灣米之增收,此乃極其顯明之事實。若製糖會社之買蔗價格每千斤再加上五十錢,不僅可增加蔗農之購買力,亦可間接的縮少米作之土地,以資解決當面米穀問題之一助。總而言之,吾人鑒及製糖會社乃供給國民日常必需品之公共機關,對於其利益率若得保障一割五分乃至二割之程度便無不足,一面宜低下其糖價以報答消費者,一面宜提高買蔗價格以報答蔗農,如此其分配姑能較為合理,政府當局之政策若不徹底到此,區區僅制限其增配,原難矯正資本主義之弊害。
福州の特色は 濁水の江流と小舟 本社主催對岸視察團 視察の跡を顧みて(2) 海外遊記福州に着いたわれら視察團は大阪商船支店の樓上から全福州を眼下に見おろし福州に對する第一印象を刻んだ、實際福州の印象はあの濁水の江流とその上を行く黃色の小船であつた。福州の特色はこの小船を取去つたら恐らく何ものも殘らぬであらうとさえ感ずるのであつた。黃船に櫓を漕ぐ婦人の姿は確かにゆたかな地方色を代表してゐるのだ。この商船支店樓上で山下支店長は先づ福州の經濟狀態を說いた。同氏の說明によると福州は昔から茶と木材の產地として有名であるばからりでなくそれが福州の經濟的基礎を型作つてゐたが近年排日と外國の競爭で漸次衰微に傾きつつあり。現在では往時のような殷盛を見ることが出來ないといふのであつた。
◇─◇
それから福州在留同胞の案內で汎船浦を通つてわれらの宿泊所たる大和館に入り書食をとつた、われら最初の計畫は福州の中心地に中國式の宿屋を取るはずであつたが排日熱の盛んな時であるといふので領事館の配慮により日本人經營の宿屋に泊ることとなつた、この大和舘は古い洋館を日本式に改造したもので誠にぎこちないものがあつた。なほ始めの豫定は二十七日まで福州に滯在するはずであつたが團員の中には福州は言葉が第一に通ぜず、見るべきものは皷山以外にないとて廈門行きを急ぐべきであると提議するものがあり結局眾議に諮つて多數決で二十三日の便船で廈門へ急ぐことに決定した。このプログラムで行けば福州の見物は二日間の日程しかないので見るものがないとはいふものの相當せはしいものがあつた。
◇─◇
大和館で小憩の後閩報館、總領事舘、居留民會、日本人小學校、臺灣公會、東瀛學校、青年團本部博愛醫院を訪れたのであるが總領事館を訪問した際は守屋總領事は視察團のために約甘分の講演があつた、同總領事は福州は往昔經濟的に重要な土地であつた、貿易が相當盛んであつた關係上福州は日本にとつて商取引上密接なものがあつた、だが最近貿易、經濟的發展から見れば何ら取るべきものがない、現在の福州は經濟的に重要であるといふよりも軍事的に重要である、それは福建省不割讓の默約あるによつて明かであると實例を擧げて懇々と說くのであつた。
◇─◇
これらの機關の訪問により福州市街のアウトラインが大體飲み込めたのであるが豫想してゐたよりも福州市街が廣く、しかも非常ににぎやかであつた、メーンストリートは大變な人だ、商店は何處となく落ちつきがあつて活氣があつた、近代都市としての外觀はや、損色はあるようだがにぎやかな點においては何れの都市にも劣らないであらうと思はれた、それはそのはずである。福州は福建省の首都であり、漢代からすでにその名あり、現在の人口は五十萬もあるといはれてゐる位であるから產業の都市としても消費の都市としても相當なものがあつたのだ
【寫真は福州全景】(延陵子記)
對五相會議 外相所提外交國策 對內外為一元的發動 確立帝國自主的立場 頭條新聞【東京七日本社特電】政府自三日以來、亘二回特開五相會議、急欲樹立打開非常時局之最高政策、六日提出於五相會議之廣田外相之見解大體如左、因為力主對俄對美政策之樹立、就此點受荒木、大角兩相之熱烈的質疑的反駁、與廣田外相之間、有相當深刻之應酬、今後以二三回會議、得見最後案、已略為確實。
一、一般基調
外交與軍事併行、對內外應一元的發動、確立帝國在遠東之自主的立場、致力與列國折衝。
一對俄政策
對蘇俄我國執實質的解決兩國間之個個懸案之方針、不可侵條約及其他之決定、鑑于蘇俄之特殊性、極力回避之。
一、對華政策
鑑于日華關係之現狀直接交涉是有害無益先將當面之諸懸案、漸次處理解決、期全面的打開
一、對美政策
為打開一九三五年之危機之基礎□□、於日美兩國政策間、持實現太平洋平和保障協定之目的、開始政治交涉、同時為融和兩國國民之感情、交換國民的使節
尚右記具體案、在五相會議、若得承認、即豫定將此上奏云。
社說 為補填赤字之郵費提高 斷難贊成之愚策 社說一
明年度之所謂非常時豫算,雖將突破二十三億圓之尨大的數字,然歲入則受恐慌之餘波,日日減少,故歲入之缺陷愈使赤字公債累積日多,因此而昭和八年之國債,不但已達百億,且其利息,年利以五分算之,亦達五億以上之巨額,故租稅收入之七割二分强,不得不充作此項之支出,如此現狀,莫怪一部人士唱國債亡國。為明年豫算之財源。依賴公債外,可斷行增稅與否之問題,現於各方面成為論議之中心,高橋藏相與在前議會聲明同樣,依然抱懷增稅尚早之意見,言明依舊以公債充當明年度之歲入缺陷,三土鐵相,固不待言,甚至山本內相,亦無視民政黨之增稅論,決意支持藏相之非增稅說,故於豫算閣議時,增稅派之荒木陸相與其他之間,關於增稅之可否,定必惹起相當之論議,然觀目下之情勢,增稅不容易實現,十億赤字公債之發行係屬不可避之形勢,
二
藏相之增稅時期尚早之論據,一言以蔽之,則說由現在經濟界諸事情觀之,增稅恐有阻害已經萌芽的產業之發達,即現下經濟尚未達至國民增進其購買力而使產業資金之需要勃然而興之程度,故增稅尚屬過早,然對提高郵費堪值一顧,現下似在考慮之中。關於此項,日前藏相會見記者團時,曾有力說增稅之不可,主張郵費提高之可能,表示由明年擬行提高郵費之意志,其說略謂『對郵費提高一事,遞信省抱何見解,我却不知,依我之意見,提高郵費亦無妨,而且有充足之理由,一錢五厘之明信片升為二錢,三錢之封書升至四錢,乃年來之懸案,這樣程度之提高,一般國民經已達至不得不負擔之時期』云云,對此遞信省則說,若依一般增稅時,乃屬不得已之事,如不使一般增稅,單欲提高郵費,萬不能賛成,因此勢必以兩省秘密協定為口實,堅持反對之態度,故至實現以前定必呈出一番之波瀾,
三
對一般增稅,時期尚早,然郵費提高,欲由明年斷行,此乃藏相之見解,何故難於增稅,而易於提高郵費否,對一般增稅,雖時機到來,不能與提高郵費一樣,一朝一夕而可斷行之理由在何處?。按目下之情勢,在此非常時,豫想可得增稅者,乃所得稅,資本利子稅,營業收益稅及其他,然此種悉歸資本家之負擔,不敢對資本家增稅,竟藉言增稅有阻害產業而行反對之老藏相之言,實有欺人之處,宛如資本家掌櫃然之藏相,考慮資本家之反對,日唯承彼等為己任,固不足怪。反之,郵稅負擔者係屬國民大眾,而且似資本家之有勢力,故雖聞反對之聲。不須介意,比較的容易斷行,藏相之着眼乃在於此,而提高郵費之根據亦在乎此。
四
以提高郵費所得之增收一千二百萬圓,為補填赤字財政,轉過一般會計,換言之,乃屬過於考慮資本家之利益全然不置國民大眾之疲弊於念頭,偏袒一方之非社會政策的財政策,堪稱為純資本主義的財政策,在資本主義組織下,屬其代表者之政府,探用資本主義的政策,固屬當然之事,然國家社會主義的法西斯的思想風行之今日,尚不知反省,依然無視大眾利益時,其結局宛如自掘墓穴,吾人斷不能賛成此種之愚策。
鼓山の雄大は 閩山第一の名に背かぬ 本社主催對岸視察團 視察の跡を顧みて(3) 海外遊記內地に於いては日光を見ざるものは結構をいふべからずとあるが如く、福州においても皷山を見ざるものは結構の壯を說いてはならぬとある程皷山は旅人にとつては忘れることの出來ないところであり、佛教史を飜くものにとつては見逸すことの出來ぬところであるこの有名な名勝をわれら視察團は訪れないはずはないのだ、
九月二十二日朝七時、二臺の乘合自動車を仕立てて宿泊所を出發萬壽橋を渡り福新街を經て王庄の溫泉塲を過ぎ、右折して田園の間を東方にすすめげ皷山の山麓につく、こゝで徒歩するもの、轎に乘るもの、三々五々で目指す皷山登山を試みたのであるが不意に多數のお客を迎えたこの部落の轎擔ぎは順番問題で大變な紛糾を招き、福州語で云ひ爭ひ樣、喚聲は物凄いものがあつた。度膽を拔かした程のことはないが大分面喰つたことは事實である。
◇……◇
かくて休み休みして皷山に辿りついたのは午前の十時頃であつたがわれらは先づ路傍の石といふ石岩といふ岩に文人墨客の揮毫の掘り込に少からず興味を惹かれた、われら視察團もここに足跡を殘すような大文章を刻んで置きたかつたのであるが時間極めて切迫してゐたため遂ひ目的を達することが出來ず、誠に殘念であつた、事實皷山の湧泉禪寺を始め、大雄殿その他末寺等はその結構雄大、且つ牡麗なものかあつた、規模の宏大は全く閩山第一の名に背かぬものがあるのだ、この古風の寺院の傍には參詣客宿泊專用のモダン建築三層樓あり、この外に宿泊に供し得る客堂約五十を算するといふことであるから設備からいつて實に素晴しいものがあつた、これら雄大な佛殿に歷史を物語る靈源洞、喝水岩、國師岩洞、龍頭泉、を配したところは一層皷山の情趣を添へるものがあつた。人工の精と大自然の美が完全に溶け合つてゐて觀客自から恍惚とならざるを得ぬのであつた。
◇──◇
この皷山の寺院に立てこもる大僧小僧總計五百餘人といふ、これらのもので每日お經を誦し、道を求めてゐるわけであるが政治的不安と世界經濟恐慌の影響を受けて最近財政難に陷入り四苦八苦の狀態にあるとはいささか同情に堪えぬものがある。臺灣出身の僧──數人にも會ひ親切な接待を受けたのであるがこれら僧君は近く歸臺有志者の寄付をあつめるといふことである、皷山はすでに昔の皷山にあらず、世間並の經濟苦に惱まされてゐる皷山なのだ。世の信者これを以て如何となす?。
◇──◇
この由緒深き皷山を賞して福州隨一の百合溫泉に下りたのは正午すぎであつた、こゝで登山の疲れを癒した後在同胞の親切な配慮により數班に別れて自由に市街を見學し、午後六時から居留民會、臺灣公會の盛大な聯合歡迎會に臨んで福州の視察日程を濟ましたのであるが福州情緒として見逃し得ないものは彼の地でいふ「照水蛙」(チヨースイケー)である。
◇──◇
前回において私は福州の特色として小舟を擧げたのであるがこの小舟が照水蛙と不可離の關係にあるのだ。照水蛙といふのは內地臺灣でいへば女郎屋の冷かしである先づ小舟に乘つて女郎を乘せてある大型戎克船を訪れ、こゝで交涉談判を開始するのである。福州花柳情緒としてまことに奇拔ではあるが私にとつては全くの不愉快な存在であつた。センチな人道主義に立脚した見方をするものにとつてはこれを何といつて評するか推して知べしである。【寫真は湧泉禪寺】(延陵子記)
五相會議提倡 軍備平和二元論 各方面皆表贊成之意 頭條新聞【東京八日發電通】在五相會議依藏相及外相主張軍備與平和外交併進之二元論。藏相亦對此理想對外部明確言明。統觀政界一般、最近最顯著者、乃以軍備與平和外交之二元論欲備於千九百三十六年之國際危機之空氣頗為濃厚。高橋藏相與山本內相明確主張軍備與平和工作併行之二元論為最理想。而於五相會議、高橋藏相與廣田外相亦明確主張此二元論。不參加於五相會議之閣僚、諒亦與此同一意見。而於政黨關係亦多與高橋廣田兩相論一致、貴族院方面對此二元論、大勢亦表贊意。唯從來有避此種議論之傾向、而且平和外交之提倡、不由責任者言明、故此種之議論、寂而無聞、但若漸次表面化、政界各方面亦定必予以支持、發揮平和外交之全機能突破千九百三十六年之國難之論、將刺戟各方面。軍備外交併進之二元論、可謂為國論指導之新方式、由五相會議放送出來的。
市になる屏東の全貌 大武山の麓下淡水溪流域の 廣闊な屏東平野 米、甘蔗、木瓜等を產し 州下有數の農耕地 特輯屏東郡はその位置東經百二十度四分乃至百二十一度一分、北緯二十二度六分乃至二十三度五分に位し州所在地たる高雄市を距る東方鐵路十五哩の地にある都邑にして東方は中央山脈の高峻を以て臺東廳に界し北は新高主山を夾んで臺南、臺中の兩州及花蓮港に對し南は東港郡に連り西は下淡水溪を隔て鳳山及旗山の兩郡に鄰して居る。
地勢
當郡は大體東北部の蕃界高地と西南部の平地に分れて居る。中央山脈に源を發する荖濃、濁口、寶來、隘療の諸川は各所に廣大なる扇狀地を形成しつつ下淡水溪に合流し其の流域は廣闊なる屏東平野を展開して居る。此の平野地帶は土地平坦にして道路四通八達概ね水利の便に富み地味肥沃であるから州下有數の農耕地として一大富源をなして居る。加之昭和二年以來多額の國帑を費し旅行されつつある內務局主管下淡水溪治水工事も工既に半に達し是が完成の曉は前述の諸溪の亂流を一掃し洪水の脅威より蛇蛻する地域一萬九千甲又新生地として浮復する廢川敷約九千甲に及び此の中農耕地として六千餘甲を期待せらるるを以て將來益益重きを為すであらう。
氣候
本郡は熱圈內に屬する關係から夏季最も長く又寒暑の差甚だ少く氣溫一般に高度であって最高溫度三十三度五、最低溫度十二度五を示して居る。而して雨量の分布狀態は地勢の関係上北部と南部は其の降雨期相反し本郡は大體に於て五月より十月の期間で降雨の性質も自ら北部の霏霏たる細雨と異り雷雨又は暴風に伴ふものが尠ない然れども概して天候平穩微弱なる南方の季節風は沛然たる驟雨と相俟ってよく酷熱を一掃する。
『アアカウ』から 屏東になるまで 特輯屏東街は元阿緱、阿侯、鴉緱、啞緱の等異名若くは同音異字を以て表はされた地にして蕃語の「アアカウ」を漢字に充て稱呼するに至れるも明治三十八年三月を府令を以て阿緱街と一定せられたのであある
和蘭人の據臺期鄭氏時代は祥かならず、康熙二十三年(貞享元年)打狗より上陸せる閩粵の移民下淡水溪左岸に亘り廣大なる未墾の腴野あるを發見移住し開墾に從ふ、之れ屏東平野に於ける漢族移住の開基である、其後逐年移住者增加し各所に開墾行はれ、乾隆年間に數個の部落形成せらるるに至り屏東街益當時の創成に係るものである。道光十六年(天保七年)下淡分縣洗長棻街を圍繞して城壁を築きしも、爾後自然の額敗と現市區改正の為め、今や唯一の東門を公園內に存せるのみにして饞に九十年前の規模の片影を窺はしむ。改隸後は明治二十八年の假官制により臺南縣に屬し、次て臺南民政支部、臺南縣、鳳山縣に累次所管せられ、同三十一年六月地方官官制にて南阿緱辨務署を置かれ、三十四年十一月官制を以て阿緱廳に、四十二年十月地方廳の廢合に際し阿緱、蕃薯寮、恒春の三廳を併合せる阿緱廳に屬し、大正九年地方制度改正にて高雄州屏東郡に編入、阿緱、崇蘭、頭前溪、海豐、歸來、公館、大湖の一街六庄を併合し、地名を屏東街と改稱せらる。
今上陛下東宮に在せるる際行啓あり、其後高松宮殿下、北白川宮大妃殿下、朝香宮殿下、久邇宮殿下近くは賀陽宮殿下の御成を仰ぎ昭和二年飛行第八聯隊の轉營、下淡水溪治水工事事務所の新設等今や南部屈指の都邑となれると共に全國に其名を知らるるに至ったものである。
農業、國防都市 屏東の躍進 屏東街長渡邊發藏氏談 特輯屏東は大正九年の地方制度改正前迄は阿緱平野を中心とした政廳の所在地であったが、改正と共に一時中心を失って失望落膽したが屏東は農業の中心地として本來の使命を持ってゐる為め、地方廳を失ったにも拘らず比較的順調に進步して來た。先づ臺灣唯一の臺灣製糖會社が阿緱平野の地味肥沃なるを見込んで高雄から屏東へ移轉して農產工業を興した。警察航空班があったことが機緣となり兼ねて南臺國防上の見地から當地に飛行第八聯隊を迎へた。尚下淡水溪流域に於ける既成農耕地の保護と新生地開の目的から治水工事が行はれることになった等何れの點から見ても屏東街は確かに農業都市として將亦國防都市として發展し、その自然的な使命を果しつつあることは同慶に堪えない。今當街の進展の模樣を達觀するに私が大正十二年街長となった頃は人口僅かに三萬人足らず、戶稅生產三百萬圓を滿たなかったものが、每年略一千五百人づづ遞增して現在では三萬八千人に垂んとして居り戶稅生產にしても不況時代にも拘らず四百萬圓を超えつつきあるとは遲緩乍ら健實なステップを以て漸次發展して來たが立證される。以上の狀勢から當街を見た時には屏東街が常然市に昇格されるだけの內容を十分に具備してゐると斷言しても過言ではない。從って屏東街民は徒らに市制施行を要望せず有りのままの屏東街が充實した內容を以て自然的に総督府に認められ、十二月二十日愈愈市になることになったことを最も欣快とする所である。この市制施行を基調として市民が一致協力して近き將來に大屏東市を建設することを切に期待して息まない次第である。(寫真は渡邊街長)
屏東市を繞る人人 特輯屏東郡守小山政太郎氏
今回の全島的官界の大異動にて地方警視から地方理事官に昇進し同時に臺南警察署長から屏東郡守に榮轉されたのである、氏は臺南の名譽警察署長として非凡なる手腕を發揮したが警察界に入ったのは明治三十八年で爾來今日まで三十年近く本島官界にあり、臺南、嘉義、臺北の各地に勤續し又新竹警察署長を勤めたこともある、全島で屈指の大部屏東は輝しい未來を持ち更に地元屏東が市に昇格されることとなったので一層その任務の大なるものがあるが、氏の下に今回同じく新しく屏東郡幹部に登場された庶務課長の石丸氏、警察課長の森乙一氏は又夫夫屏東通であって今後の活躍を期待されてゐる。
屏東街長渡邊發藏氏
全島中に街長多しと雖ども渡邊氏の如き老練なる經驗家は稀である。氏の圓滿福祿な人相は福福しい平和の印象を相手に興へるのである。大屏東街長として且つその下に城戶助役、精松會計役等の如き老熟の士を配してゐる、曾っては實業界に雄飛もしたが大正九年制度改正と共に新竹街の初代街長となり十一年辭職し同十二年八月屏東街長となり今日に至ったのである、街役場の新築を始め街內の諸般を改革し以て今日の如き市制準備の基礎を固めて來たのである。
屏東信用組合長小野田連已氏
氏は關西法律學校の出身にして明治三十年渡臺以來、主として實業界に身を投じ、明治四十四年屏東に金融機闘少きを遺憾とし、同志糾合して阿緱信用組合を設立して初代の理事に就任、大正二年臺灣產業組合規則施行せらるるや組合長に推舉され、大正六年一時辭任したるも、大正九年再び組合長に推され、爾來一日の如く組合の為に盡瘁し、本年全島產業組合大會に際し、その功績顕著なるを以って表彰されたのである。
九塊庄長天降氏
氏は明治二十五年九塊庄後庄に生れ、明治大學卒業後商事會社を創立し、事務委員となりて活躍、大正八年區長事務取扱を命ぜられ大正九年制度改正に當り九塊庄長、爾來十餘星霜に亘って庄政の為に貢献しつつあり、尚高雄州協議員として多年州治に力を致し優良長として郡守及州知事より表彰を受く、(寫真は席庄長)
九塊信用組合長陳總鎮氏
氏は幼時漢學を修め長じて製糖會社原料委員學務委員となり公共事業の為盡瘁する所多く大正九年制度改正と共に會計役助役となりて庄長を補佐し、大正十二年現組合創立するに、及び組合長に選ばれ勤續今日に至る。昭和七年優良助役として郡守より表彰を受く。
長興庄長馮安德氏
麟格の名家馮家に生る、漢學の素養の士にして公共事業に私財を投すること一再に止らず、昭和二年庄長就任以來庄治に專心し治續尠からず優良庄長として屏東郡守より表彰を受く、父親より讓受けたる土地十餘甲餘を以て財團法人を組織し社會教化及社會事業の資に充てつつあり(寫真は馮庄長)
長興信用組合長邱潤寬氏
故長興庄長邱玉梅氏の長男本年二十六歲の青年にして、信用組合書記屏東郡役所雇を經て現職に就任、青年團長として令名高し、庄協議會員水利組合評議會員青果同業組合代議員等の要職に在り、(寫真は邱氏)
里港庄長立野圓治氏
氏は福島の產にして中學校卒業後渡臺、澎湖廳巡查を振り出しに累進して鳳山、屏東潮州各郡警察課長となり昭和六年七月退官し里港長に就任、本年三月酒賣捌人に指定せられて名譽職庄長となる。
里港信用組合長張明氏
明治二十七年臺南市に生る、總督府醫學校卒業後大正六年里港にて開業し公醫として今日に至る、その間庄協議員として活動して昭和七年組合長となり庄の為に盡瘁しつつなり
鹽埔庄長葉寶山氏
氏は故鹽埔庄長葉瑞菁氏の長男にして信用組合書記專務理事を經て昭和七年十月嚴父の後を襲って致長に就任し專心庄政の為に力を政しつつなり尚氏は兼ねて鹽埔信用組合長の要職に在り。(寫真は葉庄長)
高樹庄長玉岡嚴男氏
氏は大阪の產にして中學校卒業後渡臺通信官署に職を奉じ後地方廳に轉出し多年高雄州稅務課にあり州稅主任として活躍しし昭和七年五日地方理事官に昇任の上退官して十月庄長の要職に就く、黨派の軋轢絕えざりし當庄も之より平和にし着着治續を舉げつつあり
高樹信用組合長溫慕春氏
氏は高樹庄產の人にして東振新區書記となり次で區長事務取扱を命ぜらる、大正十二年制度と共に高樹庄長に就任し十二年間、その職にあり昭和七年九月庄長を辭し專ら信用組合長として活動しつつあり、
健實なステツプで 伸びる屏東街 人口三萬八千餘人 戶稅生產四百萬圓 特輯郡下一街六庄の內、屏東街は近時異常は發展を遂げ今や人口三萬七千に近く、歲計亦二十八萬圓內外外に上り漸次都市として實質內容を備へて居るが鹽埔、高樹、六龜の三庄は位置僻陬で自然の總ての點に於て立遲れの狀態にある。殊に六龜庄は交通頗る不便、且つ富力に乏しく財政窮迫の為めに每年州より事業費の補助を受けて居る。長興、九塊、里港の三庄は交通至便灌漑に富み地味肥沃、屏東街と共に屏東米並華芭蕉の主產地であって庄勢亦自ら向上してゐる。
街長は一街五庄中屏東街長及里長は有給であって他の五庄は悉く名譽職である。又助役は屏東街(二名中一名は名譽職)長興、鹽埔(內地人)の三名を有給として他の四名は名譽職である。
農業
街庄民の四割強は農民にして商工業との兼業者を合すれば約六割に相當し耕地は田二、
二三五甲悉く雨期作にして畑二、四五六甲何れも土地肥沃各種作物に適す。
米當街農產物の首位を占め、殊に本島に於ける米種改良の先覺地にして夙に阿緱米の聲價を有し、其品質の優良なること他の追隨を許さざる所なり。
甘蔗當街は臺灣製糖株式會社の採集區域にして會社に於ての蔗苗更新、耕作の改良、早植の獎勵病害虫驅除豫防等により增收に努め逐年增進し、本島に於ける屈指の蔗作地にして殊に同社經營の崇蘭農場の如きは全鳥の模範農場として夙に其名高し。
芭蕉(バナナ)芭蕉は從來中部地方獨占の觀ありしも、近年は品質の優良と高雄港より移出開けるとにより著しく植付增加し、昭和六年には三百十六甲步に至り出荷籠樹七三九、六八〇籠を產出し、爾來年年栽培盛んとなり、一大產地として先覺地たる中部地方を凌駕するに到れり。
本爪(パパイヤ)當地の特產物にして美味遠く他地方產の及ばざる所、年年其筋より宮中に献上せらるるの光榮を有せり。
畜產
農業の進步と共に牛畜の使用益益盛んとなり、又農家の副業として豚並家禽の飼育逐年增加しつつあり、殊に街に於て「バークシャ」種豚の貸付、種鶏の無償配付を行び品種と品質の改良を圖りし結果漸向上し三年中に他に移せるもの豚二、七五〇頭、鶏一、四七〇羽に達せり。
工業
工場としては官營の總督府專賣局製酒工場、私營の臺灣製糖株式會社阿緱工場、同社酒精工場を優なるものとし、製氷工場、籾摺精米工場等之に亞ぎ其他は何れも其規模大ならず。
專賣局製酒工場碎白米を原料として米酒を製造す。
臺灣製糖阿緱工場能力三十噸の新式工場にして、其規模東洋に冠たり。昭和六年期の產糖高分蜜糖七五四、八八三擔を算せり。
臺灣製糖酒精工場糖蜜を原料として酒精を製造す。昭和六年の產額四、二四五、一〇〇立にして、副產物として「フーゼル」油五、七七二立、燃料用變性「アルコール」九八一、七一八立を產す。
製氷工場能力六十噸の日東製氷會社第一二二工場及能力五順の高雄自動車合資會社製氷工場の二工場あり。昭和六年中の產額四三五四八八貫なり。
鳳梨罐詰工場大和興業株式會社屏東工場あり。昭和六年中製造高四六六、七二五罐なり。
籾摺精米、米の產地として籾摺及精米盛んにして高雄州農會經營の農業倉庫の外、街內三十一ヶ所の小工場あり。六年中取扱高左の如し。
籾六、八七五、一六一石
玄米一二六、六三四石
白米三六、二八四石
其他醬油製造、製粉、製麵、製油、製靴、金銀細工、煉瓦製造、牛車製造、鐵工、製革、竹細工等の諸工業を合すれば街內產額百七十餘萬圓を算す。
商業
移出品の主なるものは砂糖、米、芭蕉實等にして、昭和六年中米穀檢查所の檢米高二九六、二四一袋、金額一、六七九、八五四圓に上り、芭蕉實一〇、五七三、五九四斤、金額二二九、三四二圓の輸出を見るに至りたるも一面街內の商業は米價並に農產物暴落に因り農業部落の購買力減退を來し不振の域にあり。
工事を急ぐ 水利事業 特輯產業上灌漑事業の必要なる事は夙に島民間に認められ既に清朝□代から相當發達して來た、の効果を一層大にしようとせば勢ひ其の規模を大きくする必要がある。これは民間に委する而已では不可能であるとし、明治三十四年に公共圳規則を定め田畑灌溉排水の為めに設けた水路、溜池及其の附屬等公共の利害に係る埤圳に對して特に管理上の監督をなすことにした。爾來本事業は大體圓滑に行はれて來たが尚一層其の利益を增進せしむる必要を認め大正十年十二月律令第十號を以て臺灣水利組合令を發布し更に翌十一年五月府令第百二十三號で同施行規則を設け今日に至ったのである。殊に本郡は地形の関係から著著積極的施設を講じつつあるが完全を期するには尚相當の軒輊がある。殊に治水工事完成の曉には蓋し緊急事業の一つであらう。
退官した武田 前郡守の足跡 特輯◇第六代の屏東郡守として臺灣官場の生活三十餘三年、屏東郡守だけで滿五年といふ稀に見る長命者前郡守武田駒吉氏は這回の恩給法改正をチャンスとして勇退された。屏東に於ける任期が長いだけにその足跡の見るべきものが多多ある、同氏が屏東郡民のため盡瘁された數數の成果は又同氏を偲ぶによき大きな記念塔である。
◇氏が東勢郡より轉じて屏東郡守となったのは昭和三年九月で爾來郡政を掌握し幾多の懸案を解決した。理蕃警察に非凡なる眼識を有する氏は屏東在任中屏東から臺東に通ずる關山越道路の開鑿や六龜大鐵橋線の完成から全島唯一の未歸順番タマホ社の梟雄ラホアレー族の歸順を懷柔し且つ昨昭和七年突發された大關山事件を處理して遺憾なからしめた氏は、以前深坑、苗栗、新竹廳時代は所謂理蕃事業の創始期で佐久間總督の五箇年事業に縱橫無盡に活躍されたのであった。
◇而かも氏の晩年は理藩から產業へ、その中でも農業思想の啓蒙に全力を注がれ屏東郡下聯合青年團長として自ら陣頭に立ち、國語普及から郡民の教化に身心を賭され、それに伴ふ道路、、交通、產業、小作改善事業、下探水溪の治水工事は郡下否高雄州下の重大なる懸案にして歷代の郡守が解決に惱まされた處であるが、氏はよく民眾を說服して負擔金の納入と土地の買取授產其他の施設に奔走し、殊に郡下の信用組合の紛糾と製糖會社對農名の仲を圓滿に斡懸された功績は甚大である。
◇今や氏は功なり名遂げて臺北市文化村六條に悠悠閑日月の生活を送ってゐるが、人情味に富み終始一貫の人格と圓熟した老練多彩なる氏の手腕は今尚燦として輝き地方民から仰がれてゐる(劉捷記)
因陸軍資材費 內閣將復乘暗礁 國際協調對國防第一義 其能否調和集全國視聽 頭條新聞【東京九日發電通】依高橋藏相、廣田外相所力說之藉國際協調之平和主義、與荒木大角兩軍部大臣所堅持之國防第一主義之對立、今後如何進展、不僅為內閣運命之所係、且為我國值茲非常時為決意帝國應執方途之第一步、今立于岐路、而集全國民之視聽、然問題之中心、不論如何、在九年度豫算、是對于陸軍省所提起之資材整備費之巨額要求五相會議在將此取下時、不難豫想其將更捲起一層之議論即在五相會議、國際協調與國防第一主義之對立、能善為調和、至少既係來年度豫算之基調、縱能發見一致之結論然在藏相常懷抱之財政與國防費之調和範圍內、是否容納軍部之要求、甚屬疑問、在荒木陸相、如計上於來年度豫算之資材整備費、是以維持遠東平和為主眼、依蘇俄之軍備擴張、當然所要求者、為最小限度之國防充實費、因此見解、故在此點、第恐又復再坐上意外之暗礁、高橋藏相以為應以一九三六年為目標之世界情勢、根據我國之外交、國防方針、海軍第二次補充計畫之遂行、業已為不可避、故海軍豫算、傳至某程度、業經予以諒解、然一方對陸軍豫算在其重要性、實不減於海軍費、但其間有多少優劣之差、至某程度、似欲有意加以斧鉞、當無全吞陸軍之新規要求對此荒木、大角兩相、以為陸海兩省之豫算、為不可分的、似將強硬迫藏相、故益為一般所注目云。
社說 本末顛倒之民行造林獎勵 社說一
為國家事業造林之必要,已無庸喋喋,就中民行造林之獎勵,還不可須臾忽略,固不須多贅。西哲云「欲察其政治之善惡,觀其國之林相便知其梗概」。管仲云「十年之計莫如樹木」,皆言造林之須尊重者。是故歷代總督對於官行造林不惜巨資力行,乃是理所當然。然而對於民行造林之獎勵,當局雖有致意,成績仍是遲遲不進者,其原因何在?實有講究之餘地。以吾人之觀察,一般民間對於造林之思想仍是幼稚,為其原因之一固不待言,然當局對於獎勵之方法,能無有不徹底之嫌?對此點欲略陳管見。
二
據查臺灣當局現行之民行造林獎勵,分為樟樹造林與一般造林。樟樹造林於明治四十年以律令第二號制定臺灣樟樹造林獎勵規則,以無償下附樟苗或行土地之貨付,待成功後無償附與其土地之所有權等,極力保護獎勵之結果,雖極一時之盛,然近來寂而無聞。昭和六年度末此造林面積累計雖稱二萬五千餘甲,然確實成功者,能有幾許?難無抱絕大疑問。又對于一般造林在地方州廳行種苗配付,苗圃造林之實地指導獎勵之外,對民間之樹苗養成,交付補助金等,規則之制定却盡善盡美,然對其實行實有隔靴搔痒之感。據查昭和六年度地方州廳對此事業補助之金額只六萬九千餘圓,國庫補助金約二萬圓而已,實有過於小額之嫌。
三
最缺陷者如立木法尚未施行於臺灣農業保險法又未制定一事。立木法尚未實施,故立木未能為不動產登記,是以不能以立木為抵當融通資金,換言之以立木不能資金化。由來造林乃悠久的事業,非一朝一夕能得收成,是故要莫大之資本。此乃造林家最苦痛之事。試觀島內造林家為窮於資金,將現出功虧一簣者,不一而足。若能急將施行於內地之立木法施行於臺灣,使臺灣造林家能打開此經濟難局,則涸轍之鮒,庶幾得一生於九死乎?又農業保險法於內地亦尚未實施,昨年雖有成案因遭非常時局尚未提出於議會。此案若得實現,對於立木之價格能得附之物件保險,以匡救價格之暴落。又能附之災害保險,以防天災地變之損害。此兩法均為造林上必要不可缺之重要法案。此根本法案未能確立,任如何獎勵終恐歸於徒勞,故在來獎勵法謂之本末顛倒亦無不可。
四.
其他如工藝之振興,亦直接間接予以造林之影響甚大。例如以竹材為竹細工,或是以諸種用材而製造家具等之工藝,若能發達,造林之價值自能膨脹,固不待言。最近臺中州計畫於九年度設立工藝指導所,其內容却未能詳知,然若能置重點於諸用材之加工,則直接間接予以造林之影響,定當不尠。深望當局對根本立法先行解決,一方面對其補助之金額若能增加而且徹底實行,同時對於諸用材等之加工若能合理化,則臺灣造林業之前途,實未可限量。
福州から廈門へ 聞きに優る市街美 本社主催對岸視察團 視察の跡を顧みて(4) 海外遊記走馬燈式に福州の見學を濟ましたわれら視察團は二十三日廈門への旅を急ぐのであつた。午前八時商船埠頭からランチに乘込んだのであるが埠頭には臺灣公會、居留民會、青年團員その他多數の同胞に送られて馬尾に向つたのであるが豆を煎るような盛んな爆竹のお別れは雄壯ではあつたがセンチメンタルな旅愁をさえ催さしむるものがあった。福州滞在二日間在留同胞の熱烈歓迎と心からなる待真にに堪えぬものがあつた。
◇────◇
かくて十時頃馬尾から大球丸に便乘し船は一路廈門に向つて南下したのであるが團員は意氣頗る軒昂、晝食後から元老格の蔡受三、郭雲漢兩氏を始め若手組の商霖、許學、駱萬得、曾木星その他の諸氏から次ぎ次ぎと門外不出の傑作Y談が續けられ一同船の醉からスツカリさめて腹を抱えて爆笑の一日を過したのである、心置きなく語られた數々の物語りは今でも團員の思出の種子となつてゐるのであらうと思はれる。
◇────◇
船は二十四日八時頃廈門に入港するはずであつたが潮流その他の關係で二時間も遲れて午前十時廈門に着く、廈門は流石に二萬餘の臺僑の發展しつつある地、臺灣公會、民留民會その他多數ランチを仕立て、歡迎臺灣新民報社視察團の旗を掲げての歡迎振りはまた非常に盛んなものがあつた。廈門における荷物はウツカリしてゐると取られるといふので團員の警戒が頗る嚴重であつたのと旅館の振當てに案外時間をとつたのとで一同が大千、天仙の兩旅舍に落ちついたのは正午近くであつた。
◇────◇
廈門は世界的にきたない都市であり、大陸續きの地であると考へた團員もあるが來て見れば全くの島嶼、而して近代的都市の市街美を備へてゐるのだ、これが廈門であるといふことを知らしてやらなければ一寸見たところ歐米の何處かの大都市とさえ感ずるかも知れない。だが街衢の中を走るきたな人力車でスツカリこの近代的都市の景観を破したような感さえずるのであつた。
◇────◇
荷物をそれぞれ旅館に屆けて直ちにランチに分乘、皷浪嶼に渡り領事館、居留民會を訪問、それから皷浪でも有名な菽莊を訪れその絕景を賞したのであるが同庭園は林本源家の林爾嘉氏の建設にかかり徐世昌氏の題せる扁額菽莊主人の自記せる詩文真に枚擧に暇なき有樣であり、山あり、海あり、紹景に必要な要素を全部備へてゐるので團員しばしその絕景に醉ふ
◇────◇
それから本社監查役林木十氏邸を訪れ、ここで林氏心盡しの御馳走になり、午後三時頃皷浪嶼の名所たる日光嚴に登り、こゝで皷浪嶼、廈門の市街を眼下に見おろし凉味を滿喫して旅館に落ちついたのは午後六時すぎであつた、かくてわれらは愈快な廈門の第一日を過したわけであ。【寫真は福州商船埠頭における視察團の記念撮影(上)は廈門鼓浪嶼全景】(延陵子記)
俄國的背信行為 外務軍部極度憤慨 因此日俄國交漸重大化 頭條新聞【東京十日本社特電】既報俄政府、將菱刈大使致外務大臣之公文書、至十月八日、突如公表於中外、對其報載日本政府使嗾滿洲國、而計畫東鐵占領陰謀、帝國外務並軍部、以為此係俄方之背信行為、而極度憤慨、九日乃協議對策、決使帝國之在外官憲調查、目下持左記強硬態度、沿今次俄方之外交文書偽造事件、而日俄國交、漸形重大化
一、俄政府今次偽造發表日本之外交文書、於國際信義上、實為俄政府之背信行為、
一、俄方如今回平地起風波、故意出陷日本立場於不利之露骨方策、既如是日本為國家之權威、不能不講所要之對抗手段。
社說 學級增加要求絕無拒絕之理 社說一
當此全島各州市街庄之豫算編制時期,各州管下小公學校,因豫想明九年度就學希望兒童必大增加,故對學級增設之要求,都已各提出於州教育課,如臺北州竟達一百五十學級,高雄州亦達一百二十餘學級之多,其他各州下應當要求亦在一百學級以上之多數,對此要求,雖無拒絕之理,但因政上關係,各州教育課均不得不大行削減至一百學級以下之形勢,此乃我島教育界目前之一大恨事。
二
三十餘年間的臺灣初等教育,學齡兒童的就學比例,尚在百分之三十五,如此遲遲不進之狀態,實因消極的教育政策之所致,在民眾未覺醒而向學心未萌之時代,固不成和等問題,然而在渴望義務教育而熱心欲就學的今日,仍不謀教育普及,甚至對希望就學的兒童不能盡量收容,而欲拒絕其一部分之就學,使其終身一篇文盲,這豈不是臺灣統治上的一重大人道問題?
對此重大的教育題,這囘總督府文教局亦為時勢所迫而不能仍作漫然無關心,故為義務教育之前提,於昭和九年度豫算計上六萬圓的普通教育補助費,今後亦擬逐年增加,以圖促進初等教育之普及。試看現在內地國庫對市町村教育費補助,每年將近一億圓,才能收義務教育之完全的効果,故我臺灣欲施行義務教育,亦不得不仰國庫之補助,固屬當然之理。這囘文教局計上的補助費,其豫算雖甚少額,但創此項目之新例,已可見當局之對消極的教育政策,意欲促進一步之表示,大有可期待之意義。
三
据上所述,在總督府文教局既有表示促進義務教育之方針,則各州當局亦須守此精神,對就學希望者,須盡量收容,不使有一失就學機會之兒童。倘財政之所能容,更須新設學校及大增學級,以獎勵兒童之就學,即由消極政策進於積極政策,才合統治之根本方針。
古人有言,人而無教則近禽獸,要求教育即要求為文明國民之重要事。決非過份又非無謀之要望,故在此豫算編成時期,為人父兄者,應該對學校要求增加學級,在學校又該要對州當局要求編入豫算,又州當局亦應該認容此等緊要而且正當之要求,斷無拒絕或削減之理由。
宏壯華麗な南普陀 中山公園の幽雅さ 本社主催對岸視察團 視察の跡を顧みて(5) 海外遊記明くれば二十五日、朝の內からジリジリ暑い、廈門は臺中と大體同じ緯度だが今年は格別に暑いと案內者の話を聞きつつ大千旅社前に勢揃ひして六臺の自動車を連ね南郊の名刹南普陀に向ふ、宏狀華麗、立派な寺廟だが、鼓山の湧泉寺を見て來た眼には何だか俗で、幽玄、崇嚴の感に乏しい。
◇──◇
時間の都合上向側の廈門大學の參觀を割愛して本社旗を先頭に飜し延々長蛇の列を作りて市民を驚かし臺灣公會に會長陳長福氏以下の有志を訪問して叙禮の辭を述ぺ次で旭瀛書院に至り庄司院長の說明にて教室を一巡、教職員及兒童と記念撮影(三十日の紙上)の上、虎溪巖の奇を賞す。總じて廈門の地勢は各所に丘陵起伏して突兀、怪奇たる巨巖が多い、此所も又其の一例で色々の由緒ある岩や、洞門がある、三五の夜、月景特に清絕だとて廈門八景の一と稱せられてゐる。附近には、住宅地施設の土木工事が着々として進められてゐる。將來郊外文化村として繁榮するのも遠くはあるまい。
◇──◇
次で中山公園を見たが、本公園は面積百四十三萬六千餘方呎、巧に天然の景を取り入れて古松、名剎其の間に點綴し、山ありて閣を建て、川ありて水榭を設け、音樂堂あり、運動塲あり、幽雅と快適の布置は近代公園として恥かしくない。
◇──◇
臺灣公會の厚意で旭瀛書院三階にて晝食を認めつゝ今後の團體行動を協議した結果、香港廣東方面視察は未だ當局の許可指令が來ない為め當日の船に間に合はず、遺憾ながら之を見合すこととしたるも、二十六日の廣東丸にて歸臺し度いと言ふ者と、最初よりの豫定の通り本月三日迄滯在し度いとする者あり。議容易に決せず、最後に團長の意見に依り後說に決めて午後は自由行動、晩は臺灣公會の歡迎招待宴に列した。
◇──◇
序に臺灣公會の事を紹介して置き度い、本公會は臺灣籍民を以て組織され領事館の懇切なる指導の下に着々自治の實績を擧げて居るのは喜ばしい。現會長は陳長福氏であるが內部の事務を刷新するの外色々の重要事項に手を染めてゐる主なる事業は教育──卽ち旭瀛書院の經營で、庄司院長の熱心な教導に依り島內に比し決して遜色な成績を收めてゐる。特に中國人子弟が共學を願ひ出て嬉々として勉強してゐるのは一特色だ。
◇──◇
此の外衛生事業とか、民事調停とかを初めとし最近では籍民の嚴密なる戶口調查を行つて略々完了に近つき、又不動產の申告をやらせて財產保護の基礎調查を明にし更にカード階級の細民に對し授產事業の案を樹て寄附金も旣に二萬餘圓集つたと聞く、選擧に依つて選出せられた公會議員が多忙なる本職の傍每月一回議員會を開いて籍民の福利增進に力めて居ること塚本領事が又萬障を排して此の議員會に每回臨席せられ諸種の指導と激勵とに當つて居られる事は洵に多とするに足る。
【寫真は廈門中山公園】
在五相會議 絕對貫徹陸軍主張 陸軍急在準備應付諸般 頭條新聞【東京十一日發電通】在五相會議、對國防外交問題、有兩派的對立、毫無解消之模樣、此將進而增大重大影響於政局上、然本問題性質上又非可以姑息的妥協者又不能委諸齋藤首相之裁斷、故在現情續行對立之情勢下、欲為阻止政局之危機時、其唯一方法、惟有以不得何等結論、從此截止會議之一途而已、然出此方途或可安一時、然因豫算決定期在即之關係上、軍部兩相在豫算閣議、定固守不讓前轉致於大藏省之概算額、果如此時、結局還元於五相合會議之情勢、所以在五相會議無論如何、似非得所論議之問題之結論不可、因處此形勢、軍部尤其陸軍以為與政府之間、似難免一紛糾、故予為備此、決支持荒木陸軍陸相、以絕對貫徹陸軍之主張、為基調、在急準備研究、務使得以應付各方面云。
廈門は歡樂の街 福州は水の都だ 本社主催對岸視察團 視察の跡を顧みて(6) 海外遊記○……福州……○
福州は水の都だ、歷史の街だ、漾々たる閩江の流れに沿ふて悠々千年の史實を抱いてゐる。人口六十萬といひ又八十萬とも言ふが、近時共產軍の為め奧地の不安と疲弊とは福州の經濟戰線に致命的打撃を與へた。貿易の大宗たる福州材が上流から出廻らない、古來著名であつた茶がセーロン茶。臺灣茶に壓迫される、特殊の生產工業がない、名產筍や椎茸では何ぼ出ても知れたものだ、閩菜の王座をほこる珍味蚌があると威張つても滔々たる頹勢を如何ともし難いといふのが現狀であらう。
◇────◇
港灣の狀況を見ても大形汽船が閩江下流馬尾までしか入らない、それからランチで九浬も遡航せねばならぬ有樣では對外の發展は望めないことだ、それに福州の生命線、培養線たる奧地は山岳重疊、交通の便惡く、おまけに赤色に塗りつぶされる、卽ち福州は經濟的には行詰れる存在で、所謂御城下町としての地方的消費都市たるに過ぎぬ。省政府も將來廈門に移轉するやの噂も聞くが全く考へさせられることだ。
◇────◇
澁色の帆に風を孕んだ山東船が動くともなく無數に閩江を去來してゐるのは狀觀だ。女房も子供も犬も豚も一隻の船に同居する水上生活者──蛋民が舷に相並べて無慮二、三萬もあるのは特異なる地方色だ。フラワー。ボートといつて水上に脂粉の花を咲せてゐるのも福州話題の一であらねばならぬ
◇────◇
山下商船は前垂かけの政治家タイプ、福州の過去を說き將來を論じて剩すところなし。小林醫院長もメス揮ふより民會長として恰好の活動家松永閩報の痛快なる、石井校長の嚴謹真摯なる、熟れも烈々の祖國愛に燃えてゐるのを見るは賴もしい限りだ。又臺灣公會役員諸君が視察團の日程編成やら、東道やら、不統一極まる通貨の勘定に難澁する一行の為めに會計までも引受けて下さつたのは感謝の辭がない、特に會長不在中周錫堯君がかゆい所に手のとどく至れり盡せりの御世話や、臺橋青年團員諸君が荷物の積卸しから鼓山登りの警衞やらをやつて下さつたとに對し滿腔の謝意を表して置きたい
○……廈門……○
廈門は夜の街だ、歡樂の街だ。奧地の荒せる點も何等生產工業の見るべきものなき點も福州と相似てゐるが、只南洋各地に出稼せる移民よりの巨額の送金で入超のバランスがとれる特異の町柄だ、そして華僑成金や富豪の懐を覗つて享樂の設備が備はつてゐる點が廈門の生命であらう。
◇────◇
太生里の妓樓數百、曲眉豐頰の女菩薩幾千、清聲便體の妍を競つてゐるのも盛んなものだが、臺灣藝妲諸裙が最もモダーンだとして又サービスが洗練されてゐるとして大にチヤホヤされてゐるのは褒めてよいことかどうかは別とし、彼女等の臺灣への送金額は本島に出稼せる中國人車夫の送金と相殺して優にお釣りが來ると聞いては中々馬鹿にならない。
◇────◇
最近公安局の發表に依れば廈門は人口十七萬九千餘とあるも街路に右往左往する群集を見ればモツトツト多いのではないなと思はる。內、臺灣籍民が少くも一萬五六千約一割はあるだらうと言はれるのは賴もしいことだ。加之、わが臺灣島民の大部分がこの廈門及附近よりの移住民であるため親戚故舊の血緣につながる者が多く、言語を初め風俗習慣が全然同一であつて媽祖や城隍廟や、天后宮などもあり其の祭典もそつくりそのままであることはまるで異域とは思はれない。
◇────◇
通貨の統一なきにはホトホト弱らせられた、中國銀行又は中華銀行の兌換券が主として流通してゐるが、福州の銀貨は廈門では通らない。一圓のデツカイ銀貨(圓銀)が幅を利かしてゐるのはよいとして、之に對し二十錢と銘のある銀貨が六枚で引替へられるのはどうしたことか、又一錢銅貨三十枚で十錢に當るのも一大發見だつた。札にも銀貨にも受取つた店の判やらサインやらベタベタで穢いこと夥しい。銀貨に判を押したところ勿論判らう筈はないがスタンプインキで模樣のあたりか紫色にないてゐるのは一寸微苦笑ものだ。
◇────◇
陳公會長のことは前に書いたが居留民會長曾田さんは三井の店の旁ら民會の仕事に鞅掌して居られ謙讓篤實の士、阿部商船や田中全閩は痛烈にメートルを上げて元氣一杯だ。澤督府駐在員は得意の本島語で臺僑の世話に日も足らず何れも第一線の任務に奮闘して居られる。俊敏そのもの如き林木土氏は豐南信託其他で堅實なる地步を築き上げ何といつてもズバ拔けた一流の實業家、施範其、王海生林滾、陳春木、柯濶嘴、陳學海、王昌盛氏等は何れも廈門の成功者で是等の人々から心からなる御招待を受けて一行は連夜御馳走攻めにあつた。
吳萬來、何金塗、蘇麗亭、李慶紅、柯朝根氏等の若手の面々もクツワを並べて臺灣の為に萬丈の氣を吐いてゐる。
終りに當つて督府當局、州保安課、稅關、水上の諸官を初めとし對岸の官憲、民間等本視察團に對し絕大なる御後援と御指導とを賜はつた各位に對し深甚の謝意を表して本稿を終る。
外交問題、政治問題に付ては一切觸れないことにした為め食ひ足らぬ感があるが讀者諒之焉。(寫真は水上生活者の群)(終り)
遠東暗雲低迷 在滿洲或起戰爭 美國政府的觀測 頭條新聞【華盛頓十一日發電通】就日俄間暗雲低迷、美政府之觀測如左:
蘇俄與歐洲諸隣邦締結不侵略條約之結果在西方國境、其地步已堅固、對日本亦已得執強硬態度、然日俄兩國、於冬期前、是不欲構事、其遠東陸軍之情勢、依然不許為廣範圍之戰鬪、俄之態度如斯尖銳化者、其原因或者是日本次第減少東鐵之價值、或如俄軍之侵入為其原因、故在滿洲或勃發戰爭亦未可知而深為憂慮云云。
社說 島內金利非再降下不可 社說一
自昨年以來,於內地之金融狀態漸趨緩漫,例如本年六月末全國組合銀行預金總額合計十四億二千四百四十四萬一千圓,比較前年同期激增八億一千九十九萬圓,同月末貨出總額合計五十一億八千六十八萬九千圓,比較前年同期倒減少四千八百六十三萬圓,故預金超過其貨出金達十二億四千三百七十五萬二千圓之多。因此,於內地不僅貨出金利輙加低下,而預金利息亦一律降下,竟現出四分利公債可得發行之稀有低金利時代。
二
最近島內之金融亦脫不出此軌,銀行預金增加之勢甚速,例如昭和六年末預金總額一億一千一百萬圓,至昭和七年末,增至一億三千二百餘萬圓,爾來預金增加之趨勢不變,反而昭和六年島內銀行貸出總額二億六千壹百餘萬圓,至昭和七年末減至二億五千二百餘萬圓,爾來貨出收縮之趨勢亦不變。島內銀行不僅對其貨出利息漸有降下,於去七月一日竟對其預金利息亦決行高率之降下,以追隨低金利之潮流。
三
昨年來,為島內中央銀行之臺銀,雖於貨出金利行數次之降下,然僅適用於商業手形,移出貨物為替,國債及有價證券擔保等之利息而對於構成島民最大之財產之土地擔保利息,降下之程度不多。幸得勸銀對於島內田園之抵當利息,最近降至年七分三厘,以誘導島內金利低落之勢,甚有奏効。然勸銀在內地對於田園之抵當利息僅六厘五分,彼此之著有八厘之多。本年六月末勸銀於島內之貸出金額七千八百餘萬圓,雖一部份乃為大藏省之低利資金,因其年利差八厘,每年於島內之負擔,約加重有三四十萬圓之多。
四
至於地方銀行之金利依然極為高率,聞最近之貸出利息,最低日步二錢二厘,最高日步二錢七八厘,平均不下二錢五厘,若換算年利為九分二厘之高率。一面地方銀行之預金利率,對於小口當座預金已降至年九厘,換算年利為三分三厘而已。如上預金利率與貸出利率之差約五分九厘,若以定期預金利率年五分二厘比較之,其差尚有四厘,地方銀行之貪利未免太甚。如本年上半期各地方銀行之成績大加向上,商銀之利益率四成,華銀三成,彰銀亦一成一分以上,不外其貨出利率太高之結果。
五
如上記島內銀行利息大有降下之餘地,就中地方銀行與信用組合非再徹底的降下,以減輕島民之負擔,藉以潤澤於島內經濟界不可。而勸銀當鑑及於島內之放欸然甚為安固,急宜縮少內臺間金利之差率,亦不失為目下之急務。
獎用國產品 須確立草袋單一制 拓務省方面之意向 頭條新聞【東京十三日發電通】關于臺灣米穀包裝用之草袋使用問題、拓務省為監督官廳之立場、實有決何等對策之必要、就藉麻袋與草袋之併用制度、或應為草袋之單一制度、進行調查研究、然永井拓相以下、首腦部間意向、似容臺灣總督府意向、故中川總督、將執如何態度、已為一般所注目、然拓務省方面意向如左:
本問題是總督府自體之問題、拓務省指示積極的方針、因有關總督威信、所以非避不可、然國產品之使用獎勵、國際貸借之關係、臺灣、朝鮮固勿論、且進而增進內地農民之福利必甚大、停止使用麻袋、而代以草袋之單一制度、是絕對必要、總督府對此問題、亦有一考之要云。
社說 五相會議與內閣之運命 社說直面豫算編成期之現內閣,過日以來,經見閣議散會後,連續三囘,以首相為中心招集外藏陸海等所謂五相會議,此種會合今後定必依然繼續無疑,五相會議之目的在乎奈邊?雖不得其詳,但可得窺知者即明年度豫算編成具有重大性,可卜非常時內閣齋藤內閣之運命,五相會議之成敗與齋藤內閣之更生有至大之關係,乃儼然之事實,併不失為國民之一大關心事,過去之荒木高橋兩相之會見及五相會議皆不外乎應附一九三六年國際情勢之基礎的工作,而最堪注目者,乃對付國際危機之根本方針,將如何決定,尚立在重大岐路之一事,
二
該會議經過三囘之討議,尚未得何等之結論者,乃對會議之目標,則以一九三六年為楔機,在對諸外國之國際關係,國防工作與和平工作,將如何使之調和之點,軍部主唱軍備充實一元論,而高橋藏相與廣田外相却主張軍備平和併立二元論,兩者互相對立,未見達至安協點,然則兩者互相爭執不下之軍部軍備充實一元論及外藏兩相之平和軍備二元論之根據,存於何處呢?
現下日本之軍備,不論陸海,較之美露尚屬劣勢,殊以海軍因被倫敦條約禍及,至該條約之改訂期三六年,較之五,五,三之比率,更陷於劣勢,故於將來之海軍軍縮會議,對英美之比率,當力主擴大,然由目下情勢觀之,此種要求,諒無受承認之理,為此會議當見決裂,日本必孤立於世界,此則為三六年之國際的危機,外交既陷入孤立,其結果不得不使軍備充實為之背景,軍備無充實,那裡有自主外交,何日能脫英美之羈絆,孤立之日本,何能自衛乎,能突破國際危機者,決非机上之議論所能企及,唯有武力而已,若無實力,何有外交,國家亦危矣,舉日本之全力,以謀軍備之充實,故於來年之算編成,排除萬難,務須以國防第一主義,承認軍備充實費為要,此乃軍部所主張之軍事費先議論,併為軍備一元論之根據,對此,外藏兩相各為其立場,均不表賛意,即於對美對露關係,若依外交的技術,尚有施平和工作之餘地,欲補軍備充實不足,須以平和工作充之,又放棄國內諸施設,過度傾注軍費時,其結果徒見刺激外國之軍備擴張熱,且現在之財政年發十億以上之國債,綫能彌縫局面,若再承認軍部所要求之尨大軍事費,唯有使國家之財政終歸破綻,亦未可料,因考慮國防及財政之調和,兩相力主軍備平和併行之二元論,而一步亦不退讓的。
三
在上述之五相會議上之一元,二元兩論,一傳世上,支持藏外相二元論之聲繼起於各方面,發揮平和外交之全機能而突破三六年危機之論逐見盛行,然在五相會議,兩論之對立,依然未見解消,故對政局恐有波及重大之影響,若不到達結論,截止會議時,豫算閣議勢必還元五相會議,故其結論,不能不為決定之,在此情勢之下,軍部與政府間之紛糾,自不能免,有傳軍部急行準備各種對策以備萬一,藉以貫徹其主張,又政府因豫算編成期日迫,意欲以第四第五會議,截止此和論議,果能以二囘之會議,而到達結論與否,或再轉過豫算會議,乃不容豫測之問題,然則齋藤非常時內閣,能得決定非常時國策而更生,或被强硬之軍部壓倒而偕非常時國策同時死於非命,固屬未知之數,只可看取者,乃每逢問題,齋藤內閣之金泊日見剝落之事實,故其倒壞之日子,恐在不遠之將來,此乃萬人一致之見解。
就俄之認識錯誤 外務發非公式聲明 俄滿間有事責盡在俄方 頭條新聞【東京十四日發電通】關于怪文書、外務省十四日發表左記非公式聲明書、徹底的批判蘇俄政府之認識誤謬、
尚當局待近調查完了後對蘇俄政府、決為嚴重抗議。
一、蘇俄政府將以為滿洲國之背後、有日本之存在、常使嗾滿洲國、而欲導東鐵買收於有利、又謂欲以強力奪取等事、欲使世界知悉、而暴露日本之武斷的行為、並欲表示日本之不信行為
一、俄方以為日本國內對蘇俄、分為主張強硬措置者與保持友好關係者之二派、而欲驅其平和分子以牽制強硬派、更根據一九三五年帝國之危機在即、以為帝國在不能盡全力之立場為理由方敢刺戟日本、然俄方之意圖、全屬錯誤
一、世界以今次之怪文書為蘇俄之常套手段而加以嘲笑、且日本國內之反響、遂為暴露俄方認識不足之結果、即國內之對俄輿論、反招徠為彼等所想不到之反對結果
一、俄方將東鐵問題紛爭結聯於在東京之交涉、以此為理由、使遷延東鐵交涉、俄方既無此誠意、東鐵交涉或至解消亦未可知
一、在遠東之日本地位全然不如俄方所為之觀測、律以空疎且抽象的外交机上理論、故以一九三五年為境界、以為日本必立於政治的窮境、是俄之認識太不足。
一、為今回怪文書事件之發端、俄方如不改其認識、俄滿間招徠重大結果時、于茲言明其責全在俄方。
社說 獨裁政治下無思想發表自由 社說一
民意之暢達,乃是為政者最要考慮的事。然而欲民意之暢達,除非予以思想發表之自由以外,別無良法。換言之予以言論報道之自由,方得知民生之疾苦,與民生之要求在何處?始得施行合與論之政治。然而言論之自由,於獨裁政治下無有存在之權利。元來獨裁政治有一不受任何方面制肘之「權威者」存在,權威者之一言一句任如何皆是正義或可為法律,故者反對「權威者」之言論,任如何就是錯誤之言論,是以違背權威者所言的言論,一切不為所許。如宣揚「權威者」之權威之言論,或不害「權威者」之權威之範圍內的言論得自由而已。換言之,在獨裁政治下,治者所做的事,不許被治者或報道機關言長論短,此乃獨裁政治之特色,同時就是獨裁政治之有弊害之處。
二
例如最近德國那幾斯政府,即希忒拉德國首相在來所懷抱的新聞統制計畫,經已就緒,於去四日新聞紙法改正案,經已提出于閣議,其第一部業已通過確定。據此改正案之要綱,乃禁止記者混入異分子,即,一,編輯者必要亞里阿人種,且要以亞里爾人種為妻者。二,編輯者就德國之現狀,要表明無留保之賛意者。據此明是抑壓言論之自由,與自由主義的言論不拘束之概念完全對立。驅逐猶太人解散反對黨而完成那幾斯化之工作的希忒拉,今又要對於言論報道加以拘束,也許是獨裁政治應經過的過程。然而詳加考察之時。禁止思想發表之自由,決不利於國家,徵於過去史實,乃明如觀火,不席庸在此多贅。
三
元來民眾之思想,宛如川流不息,若築造堰堤截止則勢必氾濫,或席捲家屋,或流壞田園,其貽害定為不尠。禁止思想發表之自由,宛如築堰堤截止川流一樣,流言蜚語必繼之而生,甚至蠱惑民眾,導民眾之生活於不安,竟至妨害治安不少。語云「防民之口,甚於防川,」誠哉是言!反之言論報道若得自由,得淘汰偏狹矯激之議論,同時得匡救歪曲失真之報道。故賢明之政治家,於法律所許的範圍內必極力予以思想發表之自由,藉以得知民瘼,藉以得知民情,以資施政之參考,是故民無怨言,謳歌載道。陸游詩云「近聞下詔通言路,己卜餘年見太平」,就是稱頌「得言論自由」之盛德者。
四
德國與我臺灣乃是風馬牛不相及,任他如何壓抑,於我臺灣毫不關痛癢。然而最近於本邦內閣所立案中的思想締法案之內,特對出物似決定欲行嚴重取之模樣,前番在本欄經已論過。故此法案若施行當然臺灣必受其波及已無容疑之餘地。現在臺灣當局之取締,言幾將室息,若再施行此法案,實不堪設想。吾人為此深抱杞憂。對危險思想嚴重其取締,固為必要,然就發賣頒布禁止及差押等之處分,欲擴張地方長官之權限,或新聞,雜誌之發行停止等,欲規定在來以上之嚴重取締制度,固要十分期其適用之正鵠,否即不獨失却法之威信,傷害國家之權威,甚至能阻害國運之自然發達,定非淺尠。深望當局,須以憲法上思想發表之自由與明治大帝五個條御誓文之內「萬機決於公論」為念,切不可規定失於苛酷之法律,或誤其適用為是。
希忒拉德首相 發脫退國聯宣言 不承認軍備平等權 於德之面目上難堪 頭條新聞【柏林十四日發電通】關于德之脫退國聯及軍縮會議、希忒拉德首相發表左記宣告、
歷代之德國內閣、信軍隊平等權、當然要許容、故加入聯盟、參加軍縮會議、然今其期待完全相反、感非常失望、德較從來以上有軍縮之用意、然他國却無意向履行凡爾賽媾和條約所規定之約束、在一九三二年十二月之軍縮會議、對德誓約認軍備平等權、所以德參加此次之軍縮會議、然時至今日他國之代表對現在之德國、意對我諾伊拉托男通告、不承認軍備平等權、德國政府以此為對德國民之不當、且極不名譽之差別待遇、降為二等國而參加此會議、於德之國家面目上、殊難辦到、興登保大統領關于此問題為使選出支持政府政策之代議員、為行總選擧而解散國會、為德宰相、為那幾斯首領確信世界平和於解消征服者、被征服者之觀念後、方能達到、特此宣言。
對德脫聯盟軍縮 帝國政府之態度 十六日由外務省聲明 頭條新聞【東京十六日發電通】廣田外相關於此回之德國政府之聯盟及軍縮會議脫退、十六日在五相會議、基于至同正午入手的諸情報、說明報告其經緯、就關於同問題之帝國政府之態度、求政府之諒解。先此、外務當局、十六日正午聲明帝國政府態度如左:
德國之聯盟及軍縮脫退、鑑於最近軍縮會議、德國與法國及支持法國之英美等之關係咸觀測德國將出于何等決斷的行動。而日本之對外根本政策於三月之御詔勅已有指示其指針、又只有遵守其後的帝國政府及外務大臣之屢次所聲明者而已、依歐洲諸國間之抗爭、無有受何等根本的變更。聯明曩有日本之脫退這次歐洲之重要國於聯盟之使命最有關係之德國亦脫退、可謂受非常重大打擊。然為此日本對聯盟及軍縮會議之態度方針、毫無直接要變更之理由、現在帝國政府之態度、在監視德國脫退之推移耳。
社說 德之脫退國聯與其影響 歐洲今後必多事 社說一
直面於戰爭呢?平和呢?的重大岐路而將至梗塞走不開的歐洲全局於萬目睽睽中,九日日內瓦,竟再開自六以來休會中的國際一般軍縮會議幹部會,英美法三國張起聯合戰線,決定絕對不承認德國之軍備擴充要求,因與德之根本主義不相容,結果遂使德首席代表藍都爾尼氏,生出有與本國府磋商之必要,乃急遽離日內瓦,於十三日歸抵伯林,面見希忒拉首相,而詳細報告豫備商議的經過,並為種種協議,結果德國遂至重大決定,軍縮問題,已再不能讓步,英美法三國,如無何等的讓步,則德國必然的惟有脫退軍縮會議,然十四日德外相諾伊拉都男對顯達遜軍縮會議議長,正式通告德國脫退軍縮會議事,至是各國代表驚愕固勿論,此突然的脫退通告,實使世界喫驚震動,是足使歐洲陷於大混亂,
二
如何使水炭不相容的法德握手,而使脫此重大危機,就是大英國亦苦無名案,如果英國至認無從努力時,則歐洲的是要化成大動亂的場面罷了,英國縱然拚命努力以打開局面,然已是無効了,遂使德國動怒,而至爆發德之所以怒者,是因為英國離棄德法間之斡旋,完全與美法張起共同戰線,竟然踢開德國之軍備平等權(軍備擴充要求)即據德首相希忒拉氏所言,因在一九三二十二月軍縮會議,對德曾為決認軍備平等權之誓約,所以德才參加今次的軍縮會議,然時至今日,他國之代表對現在之德國,何以為不承認軍備平等權之通告?德政府視此為對德國之不當且極不名譽之差別待遇,願降至二等國,而參加□之國家的□辦到,然□為德之,□法國,且進而脅威歐洲,德之擡頭,希忒拉之傍若無人的態度,是足使法國感不安,歐州感不安,故非絕對反對德之軍備擴充要求不可,若能抑壓德的擡頭,與其說為歐洲,不如說是為圖自國的安全,此正是法國肚裏的籌算。
三
德之通告脫退國聯同時立為影響於歐洲之政局,傳意國亦將傚德出脫退國聯之行動,而為那幾斯所苦惱的墺國亦大起恐慌,嚴重防備德墺國境,於要路裝張鐵條網,在各道路配備軍隊。通行人一律須身體檢查等,殆呈準戰時情態,在英國則刺戟絕糾軍擴主義的保守黨,而決改良空軍的防禦設備,一方在多數之造兵廠,則增加勞働者將有行本格的軍擴之形勢,
法國則以為是一九一四年歐洲大戰開始以來之最大危機而驚愕,咸驚將起軍備擴張競爭,
德國今後或不能立即為大規模之軍備擴充計畫,然如抵觸平和條約之武器配給,于此數星期內,或將實行於德國,然對此,雖由法及其他出為抗議,但希忒拉首相或許堅決豫以對抗,歐洲今後之推移,實堪注目,將如何展開,殊有不許豫測者。
四
歐洲現在之國際關係是以和平條約為基礎,而構成的,故戰勝國雖能滿足,但戰敗國,尤其德國常抱非常之不平與不滿,致而刺戟其國民性,由其旺盛的活動力,而成那幾斯運動而為今日的爆發,是以決非偶然的突發的事件,或且是當然的推移,然為世界和平,而所設的國際聯盟,既不能保障歐洲的和平,又不能防止此爆發於未然,其醜態極了其無能今已完全暴露,其存在價值告危,亦屬當然,今日之國際聯盟,除為一大國際的社交俱樂部,瑞西國之國際的救濟機關外,其實是為無何等權威之廢物,國聯往何處去呢?惟尋慕穴。
然則和平已破,為不安的空氣所蔽的歐洲,將往那裏走?歐洲的非常時,如何才能解消,再惹第二次大戰嗎?德壓迫英法,而君臨於歐洲嗎?英美法再聯盟來破德嗎?等等,非看今後的推移如何,從而知,然今後可謂苟誤一步,不特歐洲,而全世界,實有陷入較前次大戰以上之大混亂之可能。
廿一、二日可望公布 米穀統制法施行令 同時擬開米穀統制委會 以便進行決定公定價格 頭條新聞【東京十七日發電通】為懸案之米穀統制法施行令及其他關係勅令之原案、近日漸見成就。農林省將其迴送於法制局現方審議中。兩三日中必得完結。因之農林省擬待法制局審議完結、直即於來二十日之閣議上程此等勅令、仰御裁可、而於二十一、二日公布。與此同時、擬開米穀統制委員會、進行決定公定價格、以便完結十一月一日起將實施之米穀統制法之準備。然十一月一日之實施與同時決定之公定價格、其為算定基礎之八年度生產費、若非於十二月調查、必不見完畢。故暫定的流用去年度之生費廿圓國八十六錢。加之以運費而斟酌物價及其他之經濟事情者。至於其斟酌、係勅令規定中、農林省最感苦心之點。結局、唯有使去年在臨時議會惹起問題之率勢米價復活。唯考慮制度的情勢、雖山勅令上抹殺率勢米價之文字然其根本精神、與問題之奉勢米價無何等相異關於此點、將來或必相當討議歟。然去年成問題之點非率勢米價自身、固在乎其減價二成也。關於斟酌經濟事情方法、目下除率勢米價以外、農林省別無妥當方法。且由提高米價之見地觀之、此係最有可能性者、故以自信而決定也。夫今日之農村、完全被捲入於商品經濟之內、由「米價隨物價之變動而上下為妥當」之見地、公定價格、與其以生產費為基礎而決定毋寧以率勢米價為中心較為良策。此說亦有力此後為統制法運用上成為問題之最低公定價格其決定將以生產費為中心乎、將以率勢米價為中心乎、頗有興味之問題也。
為確立日華關係 國府新方策頗值注目 華方漸明暸日本的存意 頭條新聞【上海十七日發電通】據當地中國方面之消息。關於日華親善關係之積極的展開、國民政府就具體的方針、續行討議。而廣田外相與蔣作賓公使會談結果、日本之存意、已漸次明瞭。故關於確立日華關係、由國內關係或由對外關係觀之、皆以為積極的努力之時期已來。茲一個月後、必能捨棄從來之曖昧態度、而關於確立對日關係、必見積極敢行或種新發展。汪精衛氏十五日突然赴廬山會見蔣介石氏者、盛傳亦是以此問題為中心也、國民政府將為如何新方策此後之舉動、大堪注目。
社說 臺灣農會之根本確立 社說一
臺灣農村之疲弊,自昭和四年農產物價格之暴落以來,因農家之收入不供所出,以致負債日積月累,現在不獨收支不能相償,又且負重壓在身上,故生活日趨於困難,這是現在臺灣農村的實況,到處都能看見其慘狀了。如此臺灣的農村,雖是處在非常的苦境,因沒有代表農民的團體,可得調查研究介紹於世上,是故一般都誤解以為臺灣的農村,比較於內地農村更是富裕,無須講求救濟之必要,其實臺灣的農村,是較內地更加慘憺,其自作農之少,負債之多,雖無確實之統計,然由各地方之實情來,其困窮當不減於內地,由其日常生活的苦境,亦可知道其一班了。只因沒有擁護農民的團體,對於農村各的調查,尚缺乏其統計的材料,故不能介紹其窮狀於世上的。
二
為欲打開臺灣農村的窮狀,第一要整理臺灣的農業團體,其中最感其必要的就是農會法之確立,因為臺灣現行的農會規則,是二十餘年前所立,與現在的社事情迴異,在當時民間團體微微不振,大多依官權方能存立,然現民智進步,各種團體林立,自治之主張已瀰漫於全臺,故為農業團體中最感其缺陷者,就是臺灣的農會,不獨其組織之不合時勢,其農會自身亦無主體,全憑官廳之指揮□,故農會不能自主作事,在州廳的農會,是依州知事廳長之意願行動的。又且農會的職員中,不是官更兼職,便是收容退官者居多。於是農會只在消極的方面作事,不敢以積極的為農民謀福,或向政府呼救,如農村之困窮,負債之重壓等,在待當局施設救濟。而對於農村自力更生之方面,亦不出為指導,似乎與農民無關痛痒,非受督府之命,殆乎不敢自主作事的。
三
聞最近督府亦感有改革農會之必要,現正在徵各地州廳農會之意見,以供立案之參考,或改為內地之四級制,抑或改如朝鮮之三級制,或出於獨自的立案,正在研究之中,若以臺灣的實情而論,似乎改為三級制較為適當,然朝鮮之三級制,是以朝鮮農會,道農會,郡府農會。而臺灣之三級制,應以臺灣農會,州廳農會,市街庄農會,郡無設農會之必要,以節省中間的階級,使州廳農會直接可與市街庄農會聯絡,置重點於州廳,以為研究指導的中心。而市街庄農會為直接指導的機關,彼此聯絡便能在實際上促進農事之發達,如現在之農業組合,業佃會等之團體可以合併於農會,無須另設機關多耗費用,而現在農會所經營的農倉,肥料購買,應廢止歸於產組經營,而多發揮農會本來的目的,如農業之指導獎勵,農事改良之諸研究,關於農業之爭議調停,農業基本之調查等。而以臺灣農會為全體統一的機關,代表農民主張權益,聯絡各州廳農會,促進共同利益,至於費用可由農會費,按各級農會事業之輕重分攤其費用。如此可以統一臺灣之農業團體,節省其費用,並可在各級農會發揮其機能,如現在農村之不振,在乎市街庄沒有强力的農業指導團體所使然的。當此立案農會改革之時,須斟酌以上的實情,速為斷行是所切望的。
在五相會議意見在對立時 陸相定表最後決意 內閣陷危境或至崩潰 首相招陸相議善後策 頭條新聞【東京十九日發電通】陸軍對五相會議突然發出聲明。故政府決於二十日、暫時停止該會議。僅就意見一致之問題、報告於閣議、以國是、國策處置之。至於意見不一致之問題、即放置之、更講適當方案。以極輕快辦理之方針、進行會議、故非常狼狽。萬一二十日之會議、如從來對於國防、外交之根本方針、始終抱對立的意見、則荒木陸相既得軍事參議官會議之支持承認、故必表明最後的決意也審矣。如是現內閣誠恐陷於危境、而至於不得不崩潰。故齋藤首相十九日邀荒木陸相於官邸、質其所信、而講究其善後策。又二三閣僚亦知五相會議因陸軍之聲明、關於其根本問題、重大意見、有所出入。以此推移之、必產生關於內閣運命之重大結果。故在二十日五相會議前之閣議、為閣僚之責任決質問首相以五相會議之經緯。會議之推移無不視為重大
社說 宜涵養自治生活的協同精神 社說一
我臺灣住民之對於地方自治的要求,已經日久而且甚熾烈,目下臺灣當局亦已有成案而聲明在此一二年之中,對現行州市街庄制,必可實行更進一步的改革。但此囘將改革之程度,吾人固不能期待其能滿足島民所要求的完全自治之希望,惟當此自治制將進一步改革的時機,吾人不得不切望我島同胞,須各自猛省而更加涵養自治生活的協同精神。
二
自治的本義,即在乎自己處理自己之一切事務,反言之,即對自己之事務,皆由自己負一切之責任,此乃徹底的自治之根本精神,於一個人然,於一地方自治團體亦然,至於一國家亦莫不然,倘或個人之心身不能調和作用,自治團體分子不能協同活動,一國國民不能統一行政,則其一個人,其一自治團體,其一國家,雖不即自滅,亦必日趨於崩壞之悲境,乃勢所必然之事。
由是觀之,凡無論團體與國家欲望自治生活之發達,其為分子的個人,須要持有責任觀念與協同精神,若無此觀一念與精神,則不但無要求自治之資格,而且有妨害自治生活之發達。故我島當此將改革自治制之時機,凡我同胞須放棄向來之利己心與派心而涵養責任心與協同心,才不違背要求自治生活之希望,又不致阻碍地方自治之發達。
三
試看現在我臺灣地方假自治制之實狀,如自己街庄內因不便舉出名譽職的街庄長,外人入來為有俸給的街庄長之例不少,此若非表示該街庄民尚幼稚而無自治能力,即是表明該街庄民惟徒事黨爭而無共同協力奉仕的精神,二者均為缺乏自治生活的自覺之表現,深可慨嘆之一現象。就中亦有受街庄民所推薦之名譽職街庄長,並無正當的理由,惟固執便宜的已見,而强欲辭職者,此亦是缺乏自治份子之責任心,違背協力共同奉仕之任務,若在內地町村制度之下,則應受一年以上四年以下的公民權停止之制裁,此亦為阻碍自治發達之一根事。
要之,凡此或自己街庄內因分黨派相爭而甘招外人來掌握自治權,或因自己便宜而棄奉公職之義務,此皆無異棄自治望他治,可謂兄鬩於牆而不外禦其侮之愚舉。如此現象,大有阻碍臺灣地方自治之發達,凡有心人當不可不深為戒慎之事,吾人甚望要求自治的全島同胞,須知自已為市街庄民的一份子,對市街庄公務宜抱協同的精神,以自行協力處理,宜懷犧牲的精神,以献身共同奉仕,則地方自治之前途,庶乎有可厚望。
就外交國防策 閣僚意見略一致 在第五次五相會議 頭條新聞【東京二十日發電通】第五次五相會議、乃為樹立以外交國防為中心之國策者、二十日午後二時開於首相官邸。齋藤首相及政府首腦部之意向、欲以二十日之會合結束一切。而以至今歷四次所討議者為基本、依此日大體結束者、作製覺書、以便向二十一日之臨時閣議報告。本日午前八時四十分、首相邀堀切書記官長於官邸、詳細接洽。故會議將入於最後段階、愈見緊張。盖軍部兩相、為確立國防第一主義之方針、俱試行最後的主張會議劈頭即被高壓之空氣所包圍。至於除去部分的對立而由大局立論之外交國防策、各閣僚之意見、既略見一致。故此後留下外、陸、海三相間進行審議具體的細目之餘地、其於案出外交國防工作之綱領、可謂略告成功。首相擬在二十一日之閣議、報告從來之經過與結束、而求諒解。擬午後五時散會。
社說 單一使用草袋之機已熟 社說一
為臺灣米之包裝,須用草袋乎?抑或麻袋乎?此種議論之時期已過了。尤其蓬萊米之稻藁作為强紉之草袋業已成功,當局急宜改正米穀檢查規則,以實施單一使用草袋之一路而已。換言之,當局只欠勇斷二字,別無再加以考慮之餘地。
況近年來處在各國形成經濟領域之時代,加上為麻袋之原料黃麻,多由印度輸入,因米袋使用麻袋,每年對於印度要購買二百萬圓之麻系,然印度之英政府正在提高其關稅,以排斥日貨之今日,何苦再由印度買其麻系之必要?
二
最近一部人士主唱在島內獎勵種黃麻,以供為麻袋之原料,如果種黃麻變成有利,即對於糖袋便可自給,吾人却大表賛成,若因此而阻止使用草袋,吾人却大不賛成。原來麻袋之用途甚廣,為糖袋以外亦可充分大豆等包裝,故於島內獎勵黃麻與單一使用草袋兩事,固可並行,斷無互為排斥之理。督府須田商工課長最近對於改正規則一事,亦已認有斷行之要,此際若不速施此舉,一般民眾之失望至大,甚至竟誤解當局被製麻會社運動,故尚優柔不决,結局對於統治上之影響不為不多。
社說 鳳梨共販之特例何不取消? 社說一
鳳梨罐詰共販會社之特例制度,嘗試一年有半之成績,已暴露其矛盾百出,竟使非特例組之製品銷售落後,其理甚明,毋庸再贅。然共版會社能採取如何不當之制度,不外因鳳梨罐詰同業組合總會予以承認之結果。蓋同業組合員乃非特例組占其大半,當此之時,苦於特例組之重壓之組合員何不取消特例之制度,以清其作弊之本源。
二
日前非特例組之組合員連署全組合員之過半數三十六名,曾向督府殖產局陳情特例非急廢止不可。然特例之廢不廢,原非官廳出為干與之事,此乃大多數組合員之結束與否之問題,若大多數之組合員為完全其販賣統制之目的,以請求召集臨時總會,當局已無再拒絕之口實。由此觀之,特例問題斷非不易解決之事,若特例組被廢止其特權,無端而破壞販賣統制,其責任在彼,吾人且看大多數之組合員到底能覺悟如何?
美俄恢復邦交 結局無何等期待 帝國官邊的觀測 頭條新聞【東京廿一日本社特電】因美大統領羅斯福氏招請蘇聯邦外務人民委員長李多維諾夫氏渡美、美俄之接近、急速濃厚。關於此事、我官邊觀測如次。
一、美國承認蘇聯邦之前提、乃以解決對俄債權為先決條件。此賬一旦消除、則美國在中南美之投資、因革命騷擾、必歸無动、故不得簡單進行之。
一、因美國承認蘇俄、貿易難期比現在更加發展。盖俄國之購買力、無比現在較大者。
一、由以上所述觀之、美俄雖恢復國交、其效果、難以期待。兩國諒必俱歎幻滅之悲哀。
一、日本在極東之態度不但不因美俄之接近而有何等變更、且必益向自主的方面邁進。故關於此點、美俄諒亦必認識結局無牽制日本之事。
社說 國民政府對共軍之態度 社說一
中國共產黨自民國八年組成以來,僅十四年間,於理論,於實際運動,實有長足之進步,乃世人之所共認的事實。綜合各方面之報道,其總軍數雖號稱二十萬,其實則在十萬左右之譜。旦於江西,福建,廣東,湖南,湖北,河南,安徽七省,神出鬼沒,為中國政府統治之癌,乃盡人而知。一方國民軍即動員許多兵力,蔣介石氏自出陣於南昌,前後旦於數年極力討伐,然為共軍之奇襲戰法─尤其諜報機關之完備─屢次不能奏効。最近又擾閩省一帶,幾令該地住民眠食不安,乃於吾人腦裏印象尚新之事。
二
據查中國共產主義運動之開拓者乃陳獨秀氏,於民國六七年氏為北京大學之文科部長之時,以彼為中心組成約卅名之馬克斯主義研究之小學術團體為濫觴。然氏之北大在職期間甚短,未幾為筆禍繫於縲絏之中。然而此學術團體可謂中國共產黨之坩堝。為近代中國流行語的「打倒帝國主義」之標語,自此時就盛用於新聞或散見於宣傳單。陳獨秀氏出獄後在上海經營雜誌「新青年」以共產主義指導青年之時,憂林带中國赤化政策之使命訪中國勸告其創造有組織之中心機關。於是民國十年(一九二二一年)陳獨秀與李大釗
─陳李俱為中國二大馬克斯主義者,李於民國十六年在北京被張作霖刑死(一說陳亦已死)─為中心遂創立中國共產黨。其後越飛,加拉罕等蘇俄之巨頭相繼來中國予以指導訓練,故共產黨之勢力漸為擴大。
三
此時孫文氏受陳炯明之陰謀,亡命於上海,氏為鞏固黨勢窃希望蘇俄之援助。彼之取親俄政策者,同是反對帝國主義之國家之外,列寧之新經濟政策之採用乃近於其所主張的民生主義故也。故孫文氏乘越飛來日本熱海靜養之時,以廖仲愷為代表進行關於聯絡與援助之交涉。恰好此時共產黨亦以為單獨戰線不能達其目的,故暗中運動欲與國民黨合作。於是越飛乘此機運致力於國共兩黨之結合,民國十二年之夏月一切之準備經已完成。民國十三年一月開於廣東之國民黨第一次全國代表大會,乃表示欲實行「國民黨之此轉向與聯俄容共之二大政策」者。即先可決中國共產黨與中國共產主義青年黨之入黨容認案,同時改其內部之組織為委員制。於是乎,執共產黨牛耳之李大釗與譚平山竟為國民黨中央執行委員,遂占黨最高幹部之地位,故秘密結社之共產黨於茲公然躍出於表面。爾來共黨在國民黨中巧扶殖其勢力,其勢力與專橫漸有凌駕國民黨之勢。是以蔣介石氏一派之中間派與右派,和共產派之反目軋轢,漸加劇烈。北伐軍占領漢口之時,共產系與國民黨之左派結合,無視蔣介石氏一派之意志有傍若無人之行為而排斥蔣介石氏一派。故共產非共產之抗爭頓為險惡,武漢政府對南京政府繼續其劇烈的反抗態度。於湖南地方之赤色恐怖的暴舉與打倒南京政府之軍事動等之結果遂為唐世智之共產派彈壓,繼而武漢政府遂成壞滅,於是中國共產黨不得不由表面滅其踪跡。民國十六年冬,雖有樹立蘇維政體於廣東。然未幾歸於失敗,爾來以潜行運動,漸侵入各地之勞農階級。
四
由是觀之,共產黨對國民黨之功罪,未必只是罪過,依兩黨之合體,國民黨之黨勢一躍而為擴大,乃難否定之事實。然而近來共軍之行動,實有不能感心者在,例如在閩省徵收什麼人頭稅,自由捐,幾類於苛歛誅求與掠奪之行為,實令有心人顰蹙。早害,水災相繼民不聊生的中國,那堪此等共禍紛擾?是以為大局計,若能合作,是為最理想,既不能合作,事事以國民政府為仇敵,有擾亂治安之行為,即國民政府加以彈壓,為國家大局計,蓋出於不得已的。
對粟貯藏擴大案 拓務方面表明態度 臺灣方面決定不能應承 頭條新聞【東京廿一日本社特電】二十一日臨時閣議後、後藤農相重新提起粟貯藏擴大案。永井拓相為決定臺灣朝鮮及拓務方面對該案之態度、午後二時、邀堤河田兩次官北島殖產局長於官邸。協議種種事宜、結果。決定大體方針如左、午後三時散會。
一、朝鮮貯藏按配三百萬石、雖無異議、但貯藏方法、須徹底準據自治的獎勵及買收之並用主義。而尤應置重於買收貯藏。
二、關於臺灣、徵諸氣候風土等之實情、粟之貯藏、在經濟的或在事務的方面、絕對不可能。縱使按配百萬石、其實際問題、不能應付之。
三、故臺灣除採用粟之貯藏以外方法、如適當之種米減段及甘蔗或種棉等之改植獎勵別無良圖。
四、因之、其在外地方面、此後應以右記方針、與農林省進行事務的及政治的折衝、期有以達成救濟農民及增進其福利之目的
發展の道程を辿る彰化 彰化郡大觀 沃野遠く開けて 中部平野の中心地 產業總生產二千四十餘萬圓 州下有數の富源 特輯彰化郡は本島中部に位し北は大肚溪を以て大甲大屯の兩郡に、東は貓羅溪により南投郡に界し、南は員林北斗の二郡に隣接し、西は支那海に面して中華民國と對峠する臺中州下第一の大郡にして二街八庄より成り東西七里六町南北五里二十三町面積二十一方里五八に及ぶ
東に八卦山脈あり大竹庄の一部及芬園庄は其東面に位し其他は西側にあり、東より西へ緩傾斜をなし土地平坦地味膏腴加えるに水利の便に富み夙に田園拓け耕地面積二萬一千有餘甲人口十七萬餘に及び產業生產額二千四十有餘萬圓、農產七百五十五萬七千七百四十二圓、畜產二百二十五萬五千八百九十圓、林產七萬三千六百五十七圓、水產十四萬六千四百九十七圓、工產一千三十七萬六千九百七十四圓に達す、
農業
彰化郡は地勢上之を山手平地海岸の三部に分つも□して地味肥之しすて氣候適順加ふるに水利交通の便完備し各種農作物の栽培に好適す尚米種改良す牛豚改良豚舍の改良肥料共同購買事業の實施により一面耕地防風林の設置獎勵と小作慣行の改善により逐年之れが實績を舉げ本島中部產業の中心地として着着面目を改めつつあり、耕地面積は二一、二九六甲七〇、農家總戶數二七四〇二戶で一戶當り面積一甲二二、南濁水溪より取入れたる八堡圳は員林郡を經て本郡へ入り北大肚貓羅兩溪より取入れたる東西圳他各埤圳は郡下の水派をな縱橫に灌流し水利便なり、斯くて農業生產額は比較良好のを成績そ示しその農作物は米、甘藷、豆類、雜穀の普通作物、甘蔗、落花生、黃麻其他の特用作物、蔬菜鳳梨、掽柑、李、龍眼其他の園藝作物あり
林業
八卦山脈一帶は往昔鬱蒼たる原□林なりしが濫伐の結果暴風雨の為山岳崩壞股谿谷埋沒し到處幾多の死溪禿山頻出し林野は全く荒廢に歸し昔日の悌を失ふに至りしが領臺後當局の改善施設により漸次復舊しつつありと雖尚放任するもの大部分を占め居るを以て郡に於ては大正十一年以降造林業事業獎勵策として州より相思樹種子其他種苗の無償配付を受け一般希望者に配付し來れるも之が發達を期せんには造林各自に於て所要苗木を養成するにあらざれば其目的を達すると能はさるものとし昭和六年以降は養成苗木の配付は之を廢止し樹苗養成費補助及實指導獎勵に依り目的の達成に努め居れり、現在の林野面積は森林の總面積三、八八一甲原野二、七七七甲、合計六、六五八甲尚林木の公布狀態は左の如し
八卦山脈は最高一千尺に足らざるを以て垂直的森林帶の區別なく只所謂亞熱帶の□葉樹繁茂せる疎成林あるのみで稍林相を呈せるは相思樹あるのみにして其分布狀態を見るに山手方面には相思樹を主とし樟、龍眼、苦棟、楓文に亞き尚往往茄苳、㦨心木等の貴重木散在せり又海岸地方にありては榕樹赤榕、黃槿、林投、埔姜等繁茂せり、竹類は何れの地方にもよく生育し其主なるもの薊竹にして桂竹、長枝竹、綠竹、麻竹之に吹く
工業
主なる工業は製糖、籾摺、精米、酒精製帽、靴、醬油等にして製麵、製油之に亞ぐ。然るに製糖業を除く外概ね規模小にして家內工業の域を脫せず、從て其改良發達遲遲として見るべきもの少なしと雖特產物として、線香、爆竹、煙火等あり
製糖業は昭和二年には迄には年年蔗園擴大の氣運に向ひつつありしも近□蓬萊種栽培の關係上作付面積年次縮少せり、今管內に採取區域を有する會社は新高製糖彰化工場大日本製糖鳥日工場、明治製糖溪湖工場なり
籾摺精米業者は米產額の增加に伴ひ增加しつつあるも財界不況の影響を受け昭和六年に前年に比して減少し籾摺工場百五十一、精米工場二八工場となれり
鳳梨罐詰製造工場は義泉、東華太和、大新、南華等十三丁場あり近時工場の擴張充實及製品の改良等其發達稍見るべきものあり
製帽は紙帽を主とし「ビスユース」「マニラ」麻帽之に亞く當初は彰化、鹿港街の一部婦女子の家庭副業として共產額も極めて微微たるも斯界の活況と共に之に從事する者漸次多きを加へ益益隆盛を極め其產額七十萬の多額にに達し累次旺盛の氣運に向ひつつあり
水產
彰化郡下に於ける海岸線は延長四里十一町に亘り沿岸に有望なる漁場あり、養殖場所五七〇甲を有するも漁撈の方法幼稚にして漁業は微微として振はす、其施設規模共に改善を要するもの多多あり州に於ては此點に着眼せられ昭和五年鹿港街に水產試験場を設立せられ養殖法の改良と水產試験船に依る漁場發見並に漁撈指導に努められつつあり
郡下の水產業は鹿港を中心として今や漸く振興の氣運に向ひつつあり、沿岸漁業の將來期して俟つへきものあるも將來尚開發を期せんには漁港築港と幾多の施設經營を要するものあり、郡に於ては之が振興發展に留意し昭和六年より鹿港街豫算に船溜設置調查費を計上せしめ之れが調查を開始したる外關係民五千六百四戶の關係民を鞭韃し極力水產の發達に努力しつつあり、尚有志が築港期成同盟會を組織して奔走中で該地水產界の喜ぶべき所あり。
商業
彰化郡商業中心地は彰化にして鹿港街に亞ぐ、彰化街は古來中部の文化及商業上の中心地たる關係上商業殷賑を極め對內支取引の中繼地として主に臺灣人向の物貨の集散地なり、加之近時交通機關の完備發達に伴ひ物資運輸の圓滑を來たー隣接市街地との取引盛なり
鹿港街は對岸中華民國と臺灣海峽を隔つること僅かに九十海里に過ぎず往時中部唯一の取引港として相當殷賑を極めたると船溜りの便乏しきと縱貫鐵道の開通により集貨物の大部分は基隆、高雄の兩港に移り從て昔日の觀なきに至れり、特に昭和五年來世界的財界の不況と未曾有の銀塊暴落に困り益益不振の狀態にあり
金融
金融機關は彰化銀行支店と明年匆匆開業に決定した臺灣銀行支店、信用組合十一にして夫夫其の使命に向って金融の便を計りつつありと雖も最近數ヶ年間に亘りて打ち續く世界經濟不況に加ふるに一昨年金輸出解禁以來は諸物質の低落を來し、殊に米價の慘落は一時其の落ち付く所を知らさる狀態なりし為め米作を唯一の產業とする同郡の如きは之が影響を蒙りし所極めて甚大にして農家經濟の窮迫は直ちに購買力を削減し市況頗る不振閑散の狀態を呈せり一昨年來金輸出再禁止と共に順次回復し經濟界も漸く愁眉を開き幾分活氣を呈せんとしつつある情勢に在る
八卦山麓の古都 大彰化の全貌 臺中州下商業の中心地 市況頓に活氣を呈す 特輯彰化街は臺中州廳の所在地臺中市を距る南方十哩九分本島縱貫鐵道の略中央に在り起點基隆より百三十四哩八分終點高雄を距ること百十七哩四分にして北緯二十四度三一三四より二十四度七十三〇〇東經百二十度二九七七より百二十度三七二三に至り海拔十三米乃至二二〇米にして東方には八卦山脈橫はり西南北の三面は地勢概ね平坦なり
舊彰化街は東西北町南北十町餘面積〇、〇九一方里にして共の全部は街□を形成し人家相櫛比し店鋪軒を連ね僅かに一部を蔬菜園に利用するが如き極めて狹隘なる地域なりしが昭和七年十月隣接南郭、大竹庄の合併に依り東四三里六町南北一里三十四町面積三、七〇六方里に擴大せられ全島無比の大街と成れり、市街の背後には北白川宮殿下の遺跡地たる八卦山の翠嶂高く聳え其の支脈は東に走りて遠く中央山脈の峰巒に連り天然の障壁を為せり、東北は大肚溪の清流に面し西南北の三面は沃野遠く□けて斷然中部平野の中心地たり、加ふるに地方農產業の開發は郡下五十餘里に及べる農產業道路の完成に伴ひ近時異當の進展を來し交通の利便は山線海岸線の幹線鐵道の外新高製糖會社線あり乘合自動車亦四通八達し真に物資集散の中心市場たるに□ぢざるの觀あり且つ氣候風土の天惠に富み中部交通の要衝と郡下農村の中心地點に在るを以て將來商工業都市として長足の發展を為すべき充分なる素質を具備せるは何人も肯定する所なり、
而して昨年末市制施行の議熟し逐にその決定となり、愈愈來る二月二十日に市制の實施を見ることに至れり、現在彰化街民は將來大彰化市を豫想し各方面諸般の準備に忙殺れ着着進捗中で全街大彰化市建設の氣分橫溢せり。
人口及び教育
制度改正當時に於ける大正九年末就彰化街戶數三九七六人口一七、八五九人にして爾來十一箇年後昭和六年末の戶數五、〇八六戶人口二三、五四九人となり十一箇年間に於て戶數一、一一〇戶人口五、六九〇人を增加し一箇年平均戶數一〇〇戶餘人口三三七人餘の增加なりしが南郭、大竹兩庄の合併後に於ける昭和七年末戶數九、〇九四戶人口四七、六八六人にして制度改正當時に比し約三倍大の增加を見るに至れり
當街は古來本島文化の淵源地と稱せられ比較的民度高く向學心亦旺盛にして近來女子教育の進步殊に著しく、男女を通して內地及中國へ留學せる者約二百名あり、其の他補習教育機闘として大正十四年十月彰化商工會に於て創設したる私立商工補助學校を昭和二年度より公立街營とし彰化商工補習學校と修業年限三年の乙種中等程度とし實業に從事すべき徒弟養成の目的を以て經營しつつあり既に第四回卒業生を出せり
尚州立彰化高等女學校あり年年入學志望者激加するもこれ以上の收容能力なきため每年入學志望者の約三分の一を收容するに過ぎず本年六月有志が增學級を當局に陳情し、且つ中學校設置期成同盟會を組織し積極的に奔走中で彰化街民の向學心は推して知るべきなり
農產業の發達は 實に祝福に堪へぬ/佐藤房吉 特輯本郡は概して地味肥沃にして氣候適順加ふるに水利の便に富み夙に田園拓け八卦山脈に屬する林野六千餘甲を除き二萬一千有餘甲は農耕地にして其內畑は僅かに四千有餘甲他は全部二期作良田である、故に米は郡下產業の大宗であって年產五十餘萬石に達し州下產米の五分の一を占め全島產米の六%に相當し殊に八割以上が蓬萊米で州下第一の米產地であり且つ全島各郡中の首位を占めて居る、
然しながら現今減段移出制限等の大問題を控へて居る秋に際し米作可能は社會的に將又農業經濟的見地から相當考慮を要するものと思料せらるるが故に今後に於ては甘蔗甘藷其他特用作物又は園藝作物等を栽培し多角的耕作方法に依り農業生產の增大に研究努力せなければならぬと思ふ、又本郡の海岸地帶なる線西鹿港福興庄と和美秀水庄の一部は秋冬季節風が強烈である為め第二期作水稻の被害が激甚で其の收量は第一期作に比し減收著しく年によっては殆ど收穫を得さる所へある狀態に鑑み之が對策として防風施設は喫緊の要務と認め先年來計畫を樹て木麻黃除風林造成に全幅の努力を拂って居るが植樹後五年に五六米突に成長繁茂する狀況で其の効果も亦實に大なるものがある、元來八卦山一帶の地は往古鬱蒼たるを林相を呈して居たと稱せられ中世代より濫墾濫伐型はれ現今では山根露出各所に山綾崩壞し沃土を流出し水源涵養を不能ならしめ住民薪炭の供給にさへ窮するの狀態に至ったので最近保安林土砂扦止林の地域設定並に樟樹造林許可地の指定等をなし夫夫保護獎勵の施設を講しつつあるのであるが、財界不況により之れが捗しく進捗せさることは甚だ遺憾の次第である素より該山地一帶は山と云ふよりも寧ろ一小丘に過ぎないので水源涵養的造林の必要もとより忽にすべきでないが、多角形農業經營の高唱せらるる今日之れが開拓利用策を講することは農政上最も緊要事項と思料し前年來山地經營指導方針を確立し既成林の保護急傾斜地の造林の外緩傾斜地は混農林を造成し有用果樹類の植栽被覆作物の栽培等合理的經營指導に努力中である、尚一般農業の發達改善を計るには郡街庄及農事團體の指導誘液と農民の理解が最も必要である所から本郡では各街庄に一箇所宛特定指導部落を設置し農村部落を對照としたる濃厚施設をなし農業の改良發達と公民的訓練に全力を注いて居る次第であるが部落民も亦自發的に優良部落建設に邁進し範を一般の部落に示す狀況で郡下の農產業は實に目覺しい向上發達の過程にあることは祝福に堪へない
本島に於ける バスの先驅 新興潑溂の彰化街 特輯彰化驛に下り立って□直前の光景を一瞥すれば所所に現るる建築の四角い山嶽、群がる自動車、駛るオートバイ、自轉車に人力車、この物狂はしい情景をよそに見て悠悠と行く牛車、之が即ちスピードの展觀とも云ふべき驛頭の光景で維新と昭和時代の交錯である、
この目まぐるしい光景は全島何れの地に求め得べきか?
臺灣では一足飛びにバスの時代となったが、而して彰化街はその先驅をなしてゐる、それが臺中彰化間のバスで州下は勿論全島に於ける乘合自動車のナンバーワンである。即ちそれ丈彰化街の人人は商業上の第六感が機敏に働いてゐる事が證明される。今日の彰化街を知るには先づ真先に驛頭に立って昔は豫想も出來なかったメロポリスとしての光景を仰ぎ眺め入らなければなるまい。
交通機闘の整備、それが街の殷賑を助長せしめて人の吸收も急激に增加し、空地、沼澤、耕地を埋めて昔への田野は住宅の原と化した。更に步を進めて眺めると更生そのもののやうな新興潑溂の氣運に育まれつつある街□、狹い路次古い家屋は片っ端から取り壞され擴張され、道路の兩側にはタイル張の三層樓が建て並べられて行くその豪勢さ、往昔の殷盛が再び現實化しようとし彰化の市街は愈愈發展の進程を辿って行くのである。
市制施行を前に 考へなほせ/中津德治 特輯彰化街は愈愈十二月より市制を實施するのであるが、彰化街は昨年末大竹南郭兩庄を合併し人口は五萬人近くに達して全島最大の街となった。舊彰化街は文化發達してゐるけれども大竹南郭の部落民は尚文化程度が低いだ今後兩方を接近せしめて文化の低い部落民を指導する樣にしなければならぬ原來彰化街の市制實施は十年早い氣持がする。先きに屏東を見て來た、ところが屏東には飛行聯隊やその施設等が完備して居り發展して居た、彰化と比べて力の入れ方が違ふし屏東が遙かに上だ、若し屏東にして縱貫鐵道の本縣の直通になれば決して彰化と同等に待遇されることはないであらう。兔に角彰化街は明治三十八年頃は非常に活氣があったが廢聽の後は漸次衰微の一途を辿り目もあてられぬ程になった郡になって始めて元の彰化に戻った樣である。因みに彰化廳を廢して臺中へ持って行ったのは當時の兒玉總督が彰化は八卦山の麓にあり軍事上の見地より危險であると云ふ意味に於て斷行した、然るに現在は飛行機が發達して軍事上何等の危險もないのだ。又現在市制施行の傷は將來市にする何等の施設もない。愈愈市制施行を前へに控へてゐるので一般が考へなほさなくてはならぬ
彰化の一部分の人人は臺北臺南へ行ってス□ラン燈に目をつけて頻りにその建設に奔走してゐる樣であるが、私は東京大阪を視察したところ部落が市に編入するとアスフワルト道路を先に作る、市區改正をなす、次いで全般的に亘ってやるので始めてス□ラン燈の建設も必要になって來るではないか?近くは實業協會が臺灣銀行彰化支店設置の運動が効を奏したことは市民に取っては甚だ便利を得るであらう、彰銀支店もそれに伴ふて便利を得ると私が思ふ。尚三井、三菱の如き大商人も漸次彰化へ支店或は出張所を設置するのではないか?然る後に大彰化市の形成が遠くはないであらう。
市區改正が 何より急務/佐伯淺右門 特輯臺灣新民報社が市制施行を目睫の間に控へて新興の氣運橫溢せる彰化を中心として郡下の產業文化の紹介號を發刊せらるることは洵に機宜の計畫で深甚の謝意を表すると共に街庄自治の進步を圖り住みよく暮しよき地方の建設を念願とする互人は此の全畫に對し深甚の謝意を表する次第である、
彰化郡は耕地三萬餘甲人口四十八萬其の
六割が農家で米の產額五十餘萬石を始め甘蔗其の他の農產即ち農家の汗の結晶年產八百餘萬圓と云ふ巨額であって、農業は彰化郡の生命と云っても敢て過言でないのである、故に農產業の改良發達については品種の改良增殖蔬菜園藝の獎勵、肥料の自給自足、改良農具の普及、耕地防風林の設置、家畜の改良副業の生產物の共同販賣等有ゆる方面に向って不斷の努力を拂ひ、一面農業組合指定指導部落部落振興會等を通じ農業の改良進步を計りつつあるが鹿港の
漁港の新設八卦山脈六千餘甲の開拓等今後の施設計畫として大きなものが橫って居る、要するに彰化郡は野の幸、山の幸、海の幸を完全に取入れることが出來るのである、殊に農村の繁榮は都市の繁榮を招來し大に郡下の文化を向上する所以である、文化發祥地として自他共に任ずる彰化郡に於ては公學校教育に於て就學步合男五六%女二二%と云ふ
高率を示し他の地方の追從を容さぬが、それ以上の學校は僅に商工補習學校と女學校があるのみであって真の文化の源泉地とは云ひ得ないのである、地方先覺者の多くは內臺各地の學校に遊學して、謂はば餘所から文化を持歸った人である、故に近き將來地方民諸君の努力により中學校を建設し名實共に文化發祥の地となさねばならん、東洋人の人間を粗製濫造することは統計の明示する所であるが、我彰化郡は人口千人當出生四八死亡二三と云ふ數字になって目出たくもあり、目出たくもないのである、殊に死亡率は州下第一と云ふ芳しくない統計である勿論死亡率の多い關係は氣候風土にもよるが
家屋の構造等にも大なる影響を有することと思ふ、殊に市區の改正は都市の繁榮に重大なる關係があるに於ておやである、鐵道自動車が恰も三角筒の覗眼鏡を迴轉する樣に來往し、物資の集散夥多しい彰化や鹿港に於ては何を措いても此の市區改正を著著實施し、更に街路の鋪裝や街燈の建設をやって貰ひたいものである、之を要するに彰化郡は
農業を本體とする地方であるので、今後大に農業の改良發達に努力を要する、農村振興は都市の繁榮となり、文化の向上を期する所以である、具體的施設については猫は小判より鰹節を好み、豚は真珠より殘飯を愛する諺もある故に地方官民の總意によって、一層有效に一層圓滑に計畫を進め、住みよき暮しよき都市と農村の建設に邁進したいものである
潑溂たる大彰化の建設 昔日殷盛の俤なき 畫棟彩壁の舊市街 回春の策を海の幸に俟つ 更生途上の新鹿港 特輯鹿港街は彰化郡の西部に位し面積二方里五五五にして西は臺灣海峽を隔てて中國大陸と一葦帶水にあり、廣漠たる中部平野を後方に控へ領臺前は對岸との通商盛にして其の繁華は前島都臺南に亞ぐ、其の後港口の游塞と後方交通の發達に伊ひ年年歲歲衰微の一途を辿り、商業は蕭條として昔殷盛の俤なし、唯赤い磚道と畫棟彩壁の市街は本島唯一の街□として觀覽者の杖を引くのみ、然し時代の進運に伴ひ本街の更生企劃せられ、第一着に市區改正及大排水溝設備も早晩實施するの運に至るべし、殊に本街は從來港を生命線となし、回春の策も亦海の幸に俟つの他なかるべきを以て、漁港築港を本街死活問題として最重大の關心を持って當局に設置方を陳情しつつあり、實現の曉は本街西北二十哩冲合に豐富に棲息交游せる魚族を自由に漁獲して、百萬の州民に新鮮なる生魚を供給し得るは勿論、特別開港場として對岸の福州、廈門、獺窟、祥芝、東埔、深滬、蚶江と最短距離にありし位置亦好滴なれば、本島中部物質の對岸進出の根據地となるべし、最近保稅爪哇糖青果海產物化學工業製品の輸出活狀は其の好例なり、加之港灣改修の結果數千甲步干瀉を得べし、之を魚塭若は田圃に懇成せば港灣改修は本街更生の為めのみならず、土地狹隘人口稠密なる我國國土經濟上重大なる好結果を齎らし得べし、即ち本街の更生は市區改正が頭にして大排水溝設備漁港設置が兩手交通機關の完備產業の振興が兩足となりて完全なる人體を構成し新鹿港の建設となるべし
沿革
鹿港は元鹿仔港と稱し市街地を形成せしは今の北橋頭附近(崑崙頂にあり)なりと云ふ明朝末より清朝にかけ鄭國姓が臺灣占據の年間に興化人泉州人漳州人又は廣東人潮州續續到る康熙廿三年(西紀一六八四年)清國の版圖に入る順治七年(西紀一七二一年)本街地を形成す、雍正十年(西紀一七七七年)に巡檢署を置き乾隆四十九年(西紀一七八四年)福建將軍永公鹿仔港の新港を開き□化の理蕃同知をして海防を兼ねしめ鹿仔港の巡□をして盜載禁物を稽查せしむ乾隆五十一年(西紀一七八六年)林爽文の亂起り大將軍福康安舟師一萬を率ゐて鹿仔港より上陸して亂を平らげ、彰化の理蕃同知兼海防及南安にある左營水師遊撃分府を鹿仔港に移し、巡檢署を廢止す、この間寺廟續續建設せられ商業日を逐ふて盛んとなる嘉慶道光六七十年は一府二鹿と稱せられ其の全盛時代なりとす、
帝國領臺に及び民政支局法院憲兵隊守備隊を置く幾何ならずして法院を彰化に移し憲兵隊守備隊は相續いて撤廢せらる、明治三十一年七月民政支局を辨務署に改められ三十二年九月彰化辨務署鹿港支署となる、三十四年十一月支廳を置かれ大正九年制度改正と共に彰化郡警察課鹿港分室となり頂蕃婆區頂厝區鹿港區を並合して鹿港街となる
戶數人口
△戶數內地人九七戶、本島人六五六〇戶、外國人二八戶計六六八五月
△人口內地人三一四人、本島人三六七四九人、外國人二〇九人計三七二七〇人
交通
本街交通は產業道路の開鑿と共に一大進展を來したりと雖も縱貫鐵道の便に惠まれざる為め運輸上の多大なる不便を感じ延ては商工業に影響する處甚大
△私設鐵道新高線鹿港線西間、明治線鹿港員林間
△乘合自動車鹿港彰化間、鹿港彰化間、鹿港北斗間、鹿港和美間、鹿港線西間
道路四通八達し各部落問殆んど自動車の通行し得ざるはなきなり但し未ずに市區改正を為さざる市街內は自動車の運行を見る能はざる保安交通經濟乃至水震火災苦痛を嘗めしめらる
教育
本街は昔日文人學士輩出し文學の中心地として其の名全島に馳る今尚馳名の文人書家等少からず教育は他に比して進步しつつあり、公學校就步合は男六四、四八%女二七、四六%平均四六、二七%なり教育機關としては公學校六、小學校一、幼稚園一闘書館一、國語講習所一、國語普及會二
にして他に比し設備完備し年年之に投する經費約四萬圓なり
產業
△農業灌漑設備殆んど完備しつつあるも一朝旱魃に遭遇せば忽ち灌溉水の不足を招き豪雨に際會せば澤國化す更に當地方獨特の季節風ありて農業經營上非常なる不利の立場にあり蓬萊米の發見並萌株出栽培法の案出に依って長足の進步を遂げつつあり
△商工業昔時一府二鹿として船舶輻湊し商業亦全盛を極めたるも港灣の游塞と交通の不便に依り商況蕭條なり昔の供給地は消費地となり商が漸次減退の傾向あり
昭和七年中に於ける商取引高は三七四萬圓に過きず工業生產高も一四七萬圓に止む地方特產として烏沈香、石花糕、鳳眼糕、豬油粩、カラスミ、鱶鰭あり
△水產業港灣に缺くる為め充分の進展なきも昭和五年州立水產試驗場を本街に設置せられ養殖試驗乃至試驗船の繋留根據地とされるに迨で相當の刺戟を受けたり其の後漁業組合の設置發動機船の建設等本街の水產業は漸次進展し前途洋洋たるものなり
八卦山に沿ふ農村 美田を誇る芬園庄 郡下唯一の蓬萊米產地 特輯當庄は純然なる農村にして西部は八卦山脈に沿ひたる千六百甲以上の山地にして東部は縣庄、芬園社口、下茄荖一帶の平坦肥沃なる水田千甲近くあり
面積二一一方里、三千二百餘甲にして戶敷二千二百人口一萬四千を算す
東は草屯庄南は員林郡大村庄、南投郡、西は花壇庄、北は彰化街及大肚溪を隔てて大屯郡烏日庄に隣接し、概して地味肥沃氣候溫和なる所にして平地一帶は水利に富み農業大に發達し、山地は果樹の栽培最も有利にして目下開發しつつあり、主要物產は米、甘蔗にして米は年產額約二萬五千石、二十八萬圓、甘蔗は約三十萬圓あり、その他甘蔗の六萬圓、鳳梨二萬五千圓、蔬菜一萬圓あり
庄長張龍池氏は明治大學法科校外生第一學年を修業したることあり、眾望を負ふて庄長に就任して以來大に庄治に心を致し、殊に產業の開發進展に對しては特に盡瘁せられ、左の諸施設を見るも其苦心の一端を窺ひ知るべし、
一、產米改良事業當庄の東部に位する山麓の縣庄芬園社口下茄荖の一帶は平坦肥沃なる美田八四七甲餘にして米作に適し蓬萊種水稻耕作地として一時名聲を博せしが遇遇大正十五年の第一期作に於て天候不順の為蓬萊種は稻熱病に罹り殆んど全滅の慘狀を呈したり爾後此の災害を受けし為蓬萊種の有利なるを知りつつも一般の米作者は蓬萊種の栽培を躊躇するに至れり茲に於て當庄農業組合は昭和五年度第一期作より採種田を設け米作者に範を示すと共に優良種籾の成育に努め一般に配付したる結果昭和七年第一期作面積は七五四甲に對し蓬萊種は五五一甲餘にして全作付面積の七八%に達したり依って本事業の成否は第一期作の出來榮に左右せらるるを以て當路者に於ては之れが災害豫防と撫育手入の指導に全力を傾注したる結果臺中六五號は未曾有の豐作たる上結果を得て庄下一般の米作者に一大センセイションを與へたり依って此の機に乘じ蓬萊種栽培を勸誘したるに民心斯道に傾向しつつあるは誠に幸甚なり依って來年本期の蓬萊種は全面積の八割以上を占むることは容疑せざるところなり
一、山地開發八卦山脈の當庄に縱走する面積は一、六〇〇餘甲にして其の利用の如何は直接此の經濟に多大の關係を有す故に山地の利用開發に重きを置き山地の基本調查を為し其結果三十度以上四二〇甲以下三八〇甲計八〇〇甲の開墾好適地を得たり當庄は從前より之れに着眼し開墾に方針を樹て急傾斜の個所には果樹造林を為し昭和七年度より龍眼樹の苗木を養成し善良大粒種を接ぎたる後昭和十年に至り有償にて配付の計劃なり緩傾斜の部分は勉めて階段造り開墾を為し有用果樹の植栽を為すと同時に篤志の者數名を撰定し合理的栽培に指導し一般當業者の範たらしめ全般的に利用促進せんが為實行しつつあり
開墾不適の急傾斜地に對しては現立木地帶は手入徹底せしむると共に樹種の改良に重きを置き疎林に對しては優良造林樹種の苗木を庄費を以て購入斡旋に努め一層造林事業の改良に注意を拂ひ將來自產自給に容易なる樣指導し且つ遂行しつつあり【冩真は張庄長】
農作物に好適な 沃地和美庄 手編紙帽子製造も盛 特輯沿革
當月は大正九年街庄の名稱管轄區域の改正に依り從來の線西堡の內和美、頭前寮、七張犁、番雅溝、大霞田、月眉、塗厝厝の七庄及線東堡の內嘉梨、柑子井、新庄子、中寮の四庄併を併せて和美庄と改定せらる昔時和美の地名を勝狸散と呼び和美を界として以西一帶の地を線西と呼ひ以東一帶の地を線東と呼稱し清の雍正初年頃より支那泉州地方のもの始めて渡來し土地の開拓に從事し居りしか地味肥沃なると水利の便なるとを傳へ聞き乾隆嘉慶の頃に及ひては陸續として移住し來り逐に今日の如き部落を形成するに至り
位置
當庄は彰化郡の西北に位し、東北は大肚溪を隔てて大甲郡下大肚庄及龍井庄に隣し東南は彰化街南は秀水庄及鹿港街西線西庄に連る、廣袤は東西一里二十町、南北二里六町、面積二方里五四あり、庄一帶は大肚溪の水成層と認めらるる砂質土壞にして田地二千三十甲へ畑四百二十一甲步あり地味極めて肥沃にして農作物に好適す、
戶數は四千百八十二戶、人口は二萬四千四百八七あり、住民の多くは農を生業となして居り、庄內耕地は極めて沃饒にして且つ水利に富み交通路縱橫に開け農作に頗る便利なり主たる
農產
物は米、甘、甘藷、蔬菜等にして米の年產額一萬五千石ありて金額百二十六萬圓を算す、甘蔗は近年糖價の下落に伴ひ耕作縮少しつつあるも將來糖價騰貴せば大に伸びる見込あり、其他の甘藷、落花生、西瓜、蔬菜類は年に三十五萬の收益あり、副業は婦女子の手編紙帽子製造の外養豚養鶏盛なり、此等の事業獎勵に就ては農業組合が當局の指導援助を得て改良を為しつつありて目下實施中の主なる事項としては耕地防風林設置計畫及小作慣行改善事業等なり
庄長西澤時藏氏は就任以來由利助役と俱によく庄の改良進步に盡瘁せられ目下著著と振興發達に向ひつつあり、【寫真は西澤庄長】
美風良俗 平和村花壇 州下の模範農村 特輯當圧は制度改正に依り橋子頭區及茄苳腳區(秀水狹西を除く)を併合して花壇庄と改名して今日に至る、庄は彰化郡の南端彰化街を距る南方鐵道六、六粁の地點に位し員林郡大村に隣接し東は八卦山地帶にして芬園庄と境す、西は秀水庄北は彰化街に接して肥沃なる平野を包擁す、面積は、二、五二二方里あり戶數は二、五六六戶にして人口は一四、五〇〇人あり美風良俗の平和村にして益益發達する氣運に向ひつつあり、
住民は多くを生業とし就中自作農が半數以上を占め居る狀態にありて土地改良上、農事の施設改良上最も實行し易き地方として稱讚さる、將來州下の模範農村となる可能性充分にあり、【寫真は笹木花壇庄長】
季節風強烈な 農村線西庄 米、甘藷の外水產も發達 特輯當庄は彰化郡の最北端に位し西は臺灣海峽に面し北は大肚溪を隔てで大甲郡に隣接す東は和美庄に接し、南は鹿港街に連がる、人口は一萬五千餘にして住民の七割は漁業と農業とを兼業して生業となす本庄は西海岸地方の平和村にして耕地面積二千五百餘甲を有するも每年十月より翌年三月に至る間は季節風強烈にして立毛農作物は常に生育を阻害せらる多く庄當局はいたく之れに意を配し、昭和六年來州の補助を仰ぎ十箇年計畫を以て耕地防風林設置獎勵を為し、木麻黃苗圃を設け、苗木を養成して希望農家に配布せり、目下庄の綠化を圖るべく着着事業進行中なり、庄の主なる農產物は米、甘藷、落花生、蔬菜等にして年產額九十餘萬圓あり、就中米は農產物總額の九割以上を占め、生產數量五萬二千七百餘石、金額にして八十七萬一千五百餘圓、次位が甘藷にして年に三百餘萬斤を產し、金額にして二萬七千六百餘圓を算す、水產業は稍見るべきものありて年に發達の氣運に向ひつつあり漁業戶數は他業兼業者八四七戶、養魚及養蠣業戶數は兼業者千八百卅六戶を有す、養殖事業は淡水養殖及鹽水養殖ありて淡水養殖は殆ど農家の副業として營まれ、草魚、鰱魚、鯉魚等の外各種魚類を養殖し、鹽水養殖は主に牡蠣を養殖し居りて年年多額の產額を有す、庄には漁業の保護發達助成機闘として大正十四年十二月線西漁業組合を組織し專ら組合員の漁業資金の融通共同購買、販賣事業並に水產の改良發達に資し現在組合員一七一名ありて前途期待する所頗る多し、交通は彰化に通する新高製糖の社線及び和興自動車商會の和美線、鹿港自動車商會の鹿港線ありて頗る便利なり【寫真は黃庄長】
市制實施せば 急速度に發展/李崇禮 特輯彰化の市制施行は街民の年來の希望で愈愈來る十二月中に實施することになった、抑抑市制實施に就いて地方整頓より見て非常に有利である。補助金の如きは街では二萬圓の金で三萬圓の仕事丈出來るのだが、市になれば二萬圓の金で六萬圓の仕事をやることが出來る即ち補助金が多く貰へるし又街庄費では凡て節約一點張りであるのに鑑み、市制實施の曉に於ては大いに急速度を以て發展するものと思はれる、街の計書は山程あるが經費捻出雖の関係で停頓又は見合せにされ、市としての施設が一つもない貧弱さである、例へば從來計畫した公設質舗と市營店舗の如き何れも實行難であった、ところが市制實施後は當然施設すべきものとなったことより見てその間の消息を窺ふるに足る。斯くて計畫中の市區改正、排水溝の完備なる施設、南郭公學校の移轉等の諸問題も近近の間に解決するであらう。尚八卦山上の溫泉公共浴場は一時快官地方に置くであったが當街民の希望しからず八卦山上に建設したし、永年懸案の公會堂建築計畫も順調に行き現に建築中で近く竣工することになった。之は市制實施の關係より急速に運んだもので愉快に耐へない、
而して余が彰化街長在任は二年足らずの短期間であったが、多少の仕事をなすことが出來たことは嬉しい。最早余も六十歲の高齡であるし、子弟の教育も一段落を告げたので退職の後はひたすら餘命を樂ませる積りである。(寫真は李街長)
生產は米を大宗とし收穫高年に五萬石、八十萬圓を突破し、總生產額の半分を占め鳳梨甘藷蔬菜等之に次ぐ、商工業は米穀の取引、精米及煉瓦の製造のみにして餘り振はず、教育に就ては公學校三〇總學級數二一にして就學步合四一%なり
平和な農村 福興庄 季節風が名物 特輯當庄は彰化郡の最東南部に在りて北は鹿港街東は秀水庄に堺し南は濁水溪を隔てて北斗郡に隣接す、西は臺灣海峽に面し遠く中華民國と對峙す、廣袤東西三里六町、南北一里三十二町面積三方里二九に及ぶ、戶敷は二、三六二戶にして人口は一五、九七六あり、住民の八割は農業を主とし至って和平の鄉たり、主なる生產品は米、甘蔗、甘藷、蔬菜、煉瓦等にして總生額五十三萬餘圓あり、當庄は季節風強烈なるを以て農作物保護上昭和五年より十箇計畫を以て耕地三千餘甲步に對し庄費一萬三千圓、州費九千餘圓寄附金三千餘圓聞合計二萬五千餘圓を以て耕地防風林を設置し頗る好成績を擧げつつあり
庄長許媽癸氏は昭和七年十月眾望を負ふで就任せられたるものにして蒞任以來一意專心庄治の為めに盡瘁せられたり、助役許金圳氏は大正十三年嘉義農林學校卒業後更に臺南州農事試驗場の講習科に學び、大正十四年三月業を畢へて臺中州農會彰化農業倉庫に勤め、現庄長と同時に現職に抜擢せられ庄長の良輔左役として庄の進步改良に努つつあり【寫真は許庄長】
教化の風普く 秀水庄 產業も頗る躍進 特輯秀水は昔時透水と稱し嘉慶年間秀水と改めらる。本庄は彰化郡の中央南部に位し面積一、八三平方戶里、戶數二千百廿三戶、人口一萬三千三十九人、其の約八割は農業を營み比較的貧富の差大ならず、一般に質朴勤勉の美風に富んでゐる
管下一帶は廣漠たる平野にして土地面積二千八百九十一甲の中耕地田二千三百九十六甲、畑百八十三甲、地味概ね肥沃、八堡圳貫流し水利の便拓けてゐる。
庄に於ては農產力の增進を圖るを庄治の根蒂とし耕地防風林設置獎勵、米種改良の採種田經營、改良豚舍、堆肥舍建設獎勵、深耕、綠肥、稗抜獎勵、農具改良、園藝獎勵特定指導部落指導等夫夫五箇年乃至十箇年計畫を樹てて銳意努力しつつある。特に目下疲弊せる農村の自力更生を圖る為め從來單作の弊を排し相當有望と認めらるる果實、蔬菜等園藝方面の增殖に努め併せて自給肥料製造の普及徹底を圖り農家經濟の局面展開に努めつつある。【寫真は庄長許謙氏】
節節計畫 使全庄民加入組合 線西信用販賣購買利用組合 特輯該組合於大正六年五月十九日設立、名為下見口信用組合、
至大正十年改稱線西信用組合、再於大正十四年四月二十三日改為線西信用購買利用組合昭和五年改稱為線西信用販賣購買利用組合、現在的組合員一四〇五人、口數二六一〇口、
線西庄的農村計三十一部落、其中雖有漁民、其民情與其朴實、大概是專心從事於農業者、多年對於農業資金的融通很缺乏、無處可以告借、故要賣青田充為資金、因此農村漸漸疲弊、陷入困憊的狀態、時當地區長黃呈聰氏為發起、與地方有志相謀、想要救助農村、除產業組合外無方法乃於大正六年始見設立
自組合設立以來對組合員的產業及經濟資金有必要的時候即給與貸付、又再對組合員激獎勤儉貯蓄、故同一人雖些少的金額亦給與資金的調節、如前項的貸付業務、賣青田的亦漸減少、對農事的改良上大有貢献、尚諸公租及農會肥料代金的納付期、其完納常占郡下的第一好成績。全區域住民加入組合的僅占戶數的三割除、今後尚大有勸誘加入的餘地、現節節在計畫以全庄民加入為組合員、此外兼營各種的事業、如購買農家必需品的肥料、或設立養豚舍等其助長產業和經濟之發達甚大、現在組合的役職員名如左;
組合長黃呈聰、常務理事黃合親同黃達德、理事黃玉琹、同陳献棠、同黃秀傳、同會恭、同柯武同周火、監事周權、同黃萬子、同周簽、同黃水灶、同會、主事□服
群策群力 熱心地方公益 鹿港明正俱樂部 特輯彰化郡鹿港明正俱樂部、自昭和六年春創立以來、歲月尚淺、僅經兩年、會員四十二名、皆屬有為青年、雖說該團體是一社交機關、然對於公益的事、莫不群策群力共圖地方的發展故甚得一般、對于體育最為獎勵、因之自前年以來鹿港一公、二公、女子公諸學校的運動會、該部員均獲優勝。現下對於漁港築港問題、亦多方熱心奔走、以期達到目的、又如自治制度改革、其大半係該部友之鼓吹、凡諸公益義舉、皆不落人後良可嘉也
唐氏大藥房 有特製淋藥 特輯在彰化街的賣藥製造業者中、頗博一般信用的唐氏大藥房、自大正十五年創業以來、鑽心研究結果、特製出唐氏淋藥、此外尚有二十餘種並兼營藥種賣藥、化粧品等類、且其店員亦和譪可親、店運日見隆盛、其特約店散在全島各地、販路甚廣云。
榮生醫院 口腔外科專門 特輯榮生齒科醫院在彰化街北門三角公園邊院主洪榮氏、係日本齒科醫專畢業亦曾在員林開業後轉來彰化開業、氏未就學於日本齒科醫專以前、曾在臺北病院研究技工、故氏對於技巧方面很優秀、治療亦懇切與患者接觸都是一團和氣、口腔外科、補綴矯正、是他最得意的、設備亦甚完全云。
中部老石油商 振昌行年豐棧 特輯西門振昌行、年豐棧——振昌行自明治四十一年即為廼生產石油會社中部代理店、後兼為紐育三達石油會社的代理店。
年豐棧——大正二年為寶田石油會社特約販賣契約直至今日。其營業種目、燈油、輕油、揮發油、機械油、蠟油及自動車的夕イヤ等。其營業的狀況、燈油輕油占州下總費量的六成以上、揮發油約占有五成以上其主人郭腦氏敏腕過人為實業界中之錚錚者。
有限責任秀水信用 購買販賣利用組合 以中小資產為本位 特輯大正十三年十月許遜謙氏為圖秀水庄金融的圓滑、乃糾合地方有力者梁炎山、吳秋蘭、許天成、陳木諸氏等相謀並得地方有識者的賛同、奔走於各部落勸誘其加入於大正十四年一月創立本組合舉許遜謙氏為組合長自設立以後依役職員的精勵和組合員善於利用、故組合的業績逐年躍進向上、組合員的利用務期普遍、注重以中小資產者為本位、自創立以來從未有貸倒之例、尚本組合計畫經營農業倉庫、購買部的經營等、意在圖農村的自力更生云。
聯華商會 自動車用品商 特輯聯華商會創業於昭和二年、由內地移入フォード自動車用品、以供給於州下業者、至昭和四年州下自動車數激增為圖一般業者之便於臺中市、員林街、嘉義市設支店。陳紹聯氏前途之發展定可期待也、
創業不過十年 業績蒸蒸日上 有限責任芬園信用組合 特輯於大正十二年五月十七日受當局的設立許可而創立以芬園庄管內一圓為區域、每口出資金二十圓。自張龍池組合長以下各組合員均富於產業精神、故其成績蒸蒸日上、至創立以來至今已經十年、貢献於地方產業經濟實是不尠。
組合長張龍池、理事洪大墩、同黃榮林、同黃燦林、同莊萬添監事劉紅然、同粘呂昌、同張胚
農民為基本組織 有限責任福興信用組合 特輯大正十三年五月九日代表組合員潘邦治外百六十六名向當局申請而所設立的、第一囘的出資組合員二七五名、口數三五五口、潘邦治氏為組合長、事務所設在福興庄在庄役場的構內、開辦事業後雖云業績緩慢、然却很堅實調發展、然當組合因事業的進展上和庄區地形上、將事務所設在番社未免使一部分組合員感不便乃經通常總會變更一部定欸、增設事務所於鹿港街和興、並置兼任常務理事一名、同時將規模擴張、現在總組合員七五七名、口數九四五口、拂込資金二八、四七〇圓、在昭和五年下半期雖遭經濟的反動、同組合却無何等的打擊而該組合因組合員概是農業者、故今後隨產業的發達、將益臻發達、組合自潘邦治組合長專務許金圳氏以下、至一般組合員、上下一體同心協力、致同組合業績日進躍進、內容堅實
節省許多時間 能自溪湖直達彰化 賴彰溪自動車公司成立 特輯現運行於彰化溪湖間的彰溪自動車、於昭和六年、以沿道的關係者而組織的。從來交通上大感不便的本庄民固勿論、關係地方如秀水、福興、埔鹽、溪湖等亦大覺便利。從今而後再不須迂迴員林、當可節省許多時間、自溪湖可直達彰化、該公司之成目的亦在于此而且其道路是依地方民之熱誠而完成的、且係由地方民以組織、故內容甚結實。
善體產組精神 今後發展未可限量 有限責任彰化振業信用組合 特輯在彰化街的金融機關只有彰化銀行支店及彰化信用利用組合和同志信用組合的設立而已、銀行的本質是乃地方有產階級的專用機關、而信用組合也不能網羅區域內的全住民、故元組合長楊宗堯氏有鑑於此和地方的有志相謀、得同志六七名、於大正七年十一月一日創立本組合。
自振業信用組合開辦以後、彰化街和大竹庄的住民大受其利益、組合長和諸役員亦熱心辦理事務、且一般組合員對產業精神亦甚有理解的今後發展的可期固不待言的。
組合長詹樁柏、常務理事林有信理事李大川、同吳蘅秋、同楊裕沂、監事楊仲、同張日昌、同李中慶
鹿港商工會 特輯鹿港商工會以鹿港街一圓的商工業者而組織的、其事務所設在該街新興、於昭和二年五月三十日設立、為圖鹿港商工業的振興發達、認有團結力的必要、時摧薦當時彰銀支店長為理事長、設事務所於泉郊會館、於昭和三年橋田氏退辭後、謝耀東氏襲其後、現在會員百四十名云。
富永商店 販路遍全島 特輯富永商店彰化支店。本店在愛知縣海部郡津島町、大正九年以資本金參十萬(全部拂込完)而設立的。
該店以綿布毛織物卸仲賣和有利事業的投資為主要的目的、本個人經營然後改為株式組織重新整理陣容、分為內地部、輸出部、現在地盤鞏固。而彰化支店創設於大正三年其賣買及於全島各地年賣上額計達七十餘萬圓。彰化支店長兼富永商店取締役近藤進之助氏、平素對社會的貢献甚多。
救濟社會的 磺溪醫院 特輯同院是個人經營的、社會事業中沒有類例、其經營有特殊性、遠自其先祖時代、就演行施療、至今一貫斯業、公施療實費診療等、亦是和方面委員、助成會等取有連絡、為社會公共的事業、各方讚言疊出現今院內沒有許多病室槪甚周至六十餘、又更增設施療部病室兩棟湊合起來可以收容七十餘人之患者、於昭和七年中患者延人員實費診療八千四百六十人、全施療三千八百四十人、計一萬二千三百人云。
愛生醫院 內外科双優 特輯臺灣醫學土李慶牛臺北醫專畢業後、曾奉職臺中醫院小兒科、昭和七年辭職後、在北門三角公園前開愛生醫院氏精於內科兼外科而特聘杜福開氏為主任、其內容的整備周至、每日求醫者絡繹不絕。
陳齒科醫 技工精妙 特輯彰化街東門東禮齒科醫院陳東禮氏、畢業九州醫科醫學專門學校、於畢業成績優秀、後歸故鄉開業、氏未往內地就學以前、曾在北院齒科研究技工、故對於技巧方面很精妙治療懇切頗得患者歡迎。氏以口腔外科、補綴矯正為專門科、為人朴實殷勤大為街人所歡迎。
德興商行 交易繁盛 特輯綿布商德興商行主蕭贈烈氏自學業成功後、則毅然投身於實業界以來頗稱順利、乃自大正十二年創業綿布卸商、迄今獲利既巨、信用亦厚為人一團和氣、故一般業者俱喜以交易、亦為同業者所器重、昭和二年被出身地之南投信用組合擧為理事、現當彰化實業協會副會長、綿布商同業組合幹事、亦為彰城中堅人物。
彰化建築信用組合 特輯彰化建築信用購買利用組合、成立於去年冬、組合員數八〇〇人、出資口數一二〇〇口。其組織的動機、係由當地有陳鴻謨、陳英方、呂世明、杜錫圭、吳上花諸氏鑑及彰化將施行市制、而一方店舖未曾改築、為應街民的改築需要、遂見又此組合之成立。
設備周全 八卦園旅館 特輯彰化阮瓜薯氏投巨金所建築的八卦園一列的店舖實助彰化的市街美觀不少、其八卦園設備周至並兼營現代式的祝樂咖啡店、實為青年們解愁忘憂的好去處、氏之敏腕將來大有厚望。
薄利主義的 三光堂藥房 特輯於大正七年為同街李崇禮氏所經營的春記大藥房的外交員、其間很熱心研究製藥、至昭和六年、獨自於北門大街經營三光堂藥房、販賣藥種、賣藥、化粧品等對顧客專以薄利多賣主義、此外陳氏自己所製的藥計三十餘種、全島各地到處暢銷、故其營業成績、頗為可觀。
糖粉老舖 榮發商店 特輯