「政治家らしくない」という評もある人物が、この夏の内閣改造で政権の要を担い続けることになった。
官房長官の松野博一。
「発信力に乏しい」あるいは「嗅覚が鋭い」
さまざまな評が乱れ飛ぶ。
岸田官邸でどのような役目を果たしているのか。続投となった背景は何か。
(古垣弘人)
官邸からの「進言」
8月初旬。
「
早く総理のところに行った方がいいと思います
」
松野は、みずからも所属する安倍派のまとめ役、塩谷立にささやいた。
岸田総理大臣が内閣改造と自民党役員人事を行うと党幹部に伝え、永田町に激震が走ったのが8月5日。それよりも前のことだ。
松野の意図は、安倍派の人事要望を一刻も早く岸田に伝えた方がよいと進言することにあった。
しかし自民党内の大方の予想では、人事は9月。
この時点で松野も岸田から人事の日程を聞いていなかったという。
独特の嗅覚で岸田の隠された意図を察した松野。いったい、どんな人物なのか。
「松野長官って、誰?」
そもそも去年の岸田政権発足時、松野が官房長官となることはあまり予想されていなかった。官房長官に内定したという報道が出たあと、SNS上には「誰?」などという投稿も見られた。
当時の細田派(現安倍派)では、安倍晋三・元総理大臣の最側近、萩生田光一が起用されることが有力視されていた。安倍もそれを望んでいたとされる。萩生田が官房長官に起用される方向だという報道も出たほどだった。
しかし岸田の頭の中には、早い段階から松野の名前があった。
私たちの取材では、岸田が新総裁に選ばれた去年9月29日の夜には松野起用案が出ていた。いわば「一本釣り」だった。
松野は千葉県出身で59歳。大手日用品メーカーでの勤務を経て平成12年に初当選し、8回の当選を重ねてきた。趣味と言えば、酒場をめぐるテレビ番組の鑑賞や読書。同僚議員と自虐的に「パッとしない中堅議員の会」を結成するなど、「地味」とも言われる。
しかし安定した答弁や調整力には定評があり、派閥や与野党を問わず幅広い人脈を持っている。
また岸田とは、党の政務調査会で一緒に働いたことがあり、互いに人柄や能力を知る仲でもあった。
さらに岸田は、松野と安倍との「距離感」に目を付けた可能性もあると指摘されている。
安倍の側近と評されてきたのは、萩生田や元政務調査会長の下村博文、それに、現経済産業大臣の西村康稔らで、松野の名前があがることは少ない。
かつて自民党総裁選挙で安倍ではなく町村信孝を推したこともあり、松野のことを安倍直系ではないとする議員もいる。
一方で、松野と安倍との距離は決して遠くはなかったという見方もある。
岸田としては、安倍の最側近を政権の要にすれば、安倍の影響力が強まりすぎるかもしれないし、あまりに遠い人物を起用すれば、大きな反発を買ってしまうかもしれない。
安倍も、萩生田が官房長官にならないなら、松野が望ましいと考えていたとされる。
その微妙なバランスの中で松野が浮上したのだ。
徹底した黒子ぶり
岸田政権が発足して1年近く。この間、松野は何をなしてきたのか。
その働きはなかなか表には見えにくい。
もちろん、1日2回の定例会見は重要な仕事の1つだが、持ち前の剛腕で内政全般を仕切っていた安倍政権時の官房長官、菅義偉に比べ、政権の意思決定にどのように関わっているのかつかみづらいのだ。
松野をめぐっては就任当初から「官邸内で黒子に徹している」という声が出ている。
テレビなどのメディアに登場する回数もきわめて少ない。
相次ぐテレビ各社からの出演依頼に対し、「
担当大臣や若い人を出してあげてほしい
」などとして機会を譲ってきたという。「
政権の重要な方針は総理に発表してもらうべきだ
」と日ごろから話していて、みずからが目立つ場面は極力避けている節がある。
政治家としての「嗅覚」
一方、政策の決定過程では、強いこだわりを見せる場面もあるという。
「嗅覚が鋭い」
ある官僚は証言する。
「細かいことを指摘されることはほとんどないが、たまに言われることは『おっしゃる通り』と思うことが多い。要は、政権運営上、言わなければならないことは的確に指示しているという印象だ」
例えば危機管理だ。
去年12月。
沖縄の在日アメリカ軍海兵隊の基地、キャンプハンセンで新型コロナの感染が広がった。
これをきっかけに、日本国内のすべての基地で、所属する兵士の出入国時の検査が徹底されていなかったことが明らかになった。
この際、日本政府は、国内の水際措置と整合性がとれるよう、再三、改善を求め、不要不急の外出制限などの強い措置が在日アメリカ軍で取られるようになった。
日本政府関係者からは「日本国民に求めている水準よりも厳しい」という意見も出たが、「
対応を誤れば、大きな批判を招く恐れもある
」と事態を重くみた松野が主導した対応だったという。
また、新型コロナ対策をめぐっても、経済再生を優先し、早期の対策緩和論に傾く官邸内で、感染対策の重要性を強調し、ブレーキ役を担った。菅政権で感染拡大とともに内閣支持率が下落していった事例が念頭にあったとされる。
岸田も松野の働きぶりを評価し、原油価格高騰対策やウクライナからの避難民受け入れの取りまとめ、ワクチン接種推進など少なくとも25にものぼる重要ミッションを任せている。
複雑な権力構造
官邸内で「存在感が日に日に高まっている」との指摘も出ている松野。
ただ、官邸の権力構造は複雑だ。
安倍官邸では、官房長官の菅、首席総理秘書官の今井尚哉、官房副長官の杉田和博ら、強い個性とパワーを持つ面々が集結し、安倍への忠誠心で結束していた。
岸田官邸での、松野と官房副長官の木原誠二、首席総理秘書官の嶋田隆らの役割分担は、安倍官邸とは異なると見られる。
1つが、公明党やその支持団体の創価学会とのパイプ役だ。
安倍官邸では、官房長官の菅義偉が主に担っていたが、岸田官邸では、最側近の木原誠二らが担っているとされる。
また政策によっては、岸田と木原で方向性が決められるものもあるという。例えば、3月に新型コロナの水際対策で1日あたりの入国者数の上限の引き上げを発表する際にも、木原の意向が色濃く反映された。
政府関係者からは「岸田総理は『聞く力』を生かし、基本的には多くの意見を聞いた上で政策を決定するが、『最側近副長官』の木原さんの一声で方向性が決定づけられる場面も少なくない」との指摘も出ている。
「雇われ長官?」
このため自民党内からは、「松野は『岸田派政権の雇われ長官』の要素もあり、官邸内で共有されていない情報もあるのではないか」という懸念も出ている。
ウクライナ情勢をめぐっては、こんなことがあった。
2月下旬。
ロシアのプーチン大統領が、ウクライナの東部の一部地域について独立国家として一方的に承認する大統領令に署名。
アメリカやイギリスなどが制裁や対抗措置を発動する方針を示す中、日本政府が対処方針をいつ発表するのかが焦点となっていた。
官邸関係者によると、松野は、その日の夜の時点で、みずからに具体的な報告がないことから、翌日の午前中など、すぐに発表は行われないと見立てていた。
しかし松野は翌朝、急きょ岸田の待つ総理大臣公邸に呼び出された。その場で対処方針の説明を受けたとみられる。
その直後、岸田は、日本政府としても制裁を科す方針を発表した。
実は、一部の総理周辺は前夜の時点で、このタイミングでの発表を認識していた。重要な情報が松野には十分に共有されていなかった可能性が指摘される。
それでも、松野は「
最後は総理の判断がすべてだ
」と岸田の判断を尊重する姿勢を貫いているという。
重鎮からの注文も
一部の党の重鎮らからは、松野に対し「官房長官なのだから、もっと自分の主張をし、発信力も高めるべきだ」などという注文も出されてきた。
所属する安倍派には「派閥の意見を反映させてくれているか不安だ」との声もあった。
その声の裏付けとなっているのが、岸田の定期会談だ。
岸田は就任以来、幹事長の茂木敏充と副総裁の麻生太郎との3人による会談を頻繁に行っており、この会談を踏まえて重要な政治判断を行っていると見られる。
一方、安倍派は最大派閥であるものの、所属議員がこの会合にははいれていない。
これに危機感を強めた安倍は去年11月、岸田に対し、この会合に松野も入れるよう働きかけた。その結果、松野を加えた4者会談も開催されるようにはなった。
しかし、松野のいない3者会談も引き続き開催され、4者会談の実に数倍以上の頻度で、安倍亡き今も続いている。4者会談でも松野はあまり発言しないという。松野が微妙な政治バランスの上に立っていることがよくわかる。
岸田政権が発足してからまもなく1年。
8月の内閣改造で引き続き政権の要を任されることになった松野の心中には何があるだろうか。
安倍派内には、松野を支えていきたいという声も増えつつある。
松野の口から野心めいたことを聞くことはほとんどないが、永田町には「あの人には秘めた思いがあるのではないか」といった論評もある。
「
大忍
」
これは、松下政経塾出身の松野の事務所に掲げられている書だ。松下幸之助の造語で「大きく耐え忍んで、志を遂げる」という意味を持つという。
官房長官になる前の去年6月、松野はSNSにこの書の写真を掲載。「
国政21年。一年ごとに身に染みる言葉です
」と投稿している。
目立つことを極力避けながらも、仕事で着用するメガネを頻繁にかけ替えるなど、ちらりと主張も見える松野。
目指す「志」はどこにあり、どんな道筋を描いていくのか。
安倍亡きあとのキーパーソンの一人として要注目だ。
(文中敬称略)