南海地震—その朝一番列車は出たが!! 山川町 椙原友之…120
南海道大地震の思い出—五分遅かったら!—徳島市 福井凡夫…123
南海地震当時を思い出して—大島の生活 徳島市 富本久美…125
津波体験聞き取りから …128
古牟岐カメノコの浜—津波の思い出 古牟岐 小島シカ…130
古牟岐 島崎テル…130
新町名「旭町」の誕生 大谷 宮繁道弘…132
観音寺地蔵尊菩薩—南海津波受難の話…133
第二章 子どもたちから町の人へ地震津波のメッセージ
「地震と津波と安全な生活」 牟岐小学校 共同研究…136
感想文 べっくゆういち きうちはじめ 和田智子 真崎譲史
山本洋一 井元祐希 岩井洋介 小林ひさえ…139
昭和の南海道地震津波と牟岐町への影響 河内小学校 共同作品…142
第三章 牟岐町震災史抄
南海津波遭難記(「回想記」より) 故富田重雄…148
津波の様相 楠本七蔵氏談話…150
遭難記 大田弥一…151
宿直していて(津波の追憶) 八幡與三郎…153
震潮災被害要覧…155
第四章 古文書に見る地震津波の記録
古文書に見る地震津波の記録…160
八幡神社奉納板書、宝永四年津波の記…160
満徳寺記録、杉尾神社津波記…161
津浪一巻書記、大潮之記 出羽島貞之助…161
地震津波嘉永録 津田屋喜右衛門…163
満徳寺記録 法印宥雅上人…166
安政南海大地震実録記より当町の被害状況(阿波藩民政資料下巻所載 板野郡中財国蔵氏所蔵)…167
第五章 牟岐町の地震津波…169
第六章 牟岐町南海道地震津波の記録を残す会のあゆみ
はじめに…198
1 南海震災津波の記録をのこす会(仮称)…198
2 牟岐町南海道地震津波の記録を残す会…202
3 南海道地震津波の記録体験集「海が吠えた日」の編集…203
4 牟岐町における南海震災史碑…204
あとがき…205
津波に対する住民の意識・要望に関するアンケート調査…206
方言解説…208
昭和二十一年の南海道大地震より五十年、半世紀が経ちました。「天災は忘れた頃にやって来る」との諺のとおり予想もしなかった阪神淡路大震災が起きました。近代文明の弱点に警鐘を鳴らした教訓であり、改めて天災の恐ろしさを思い知らされました。
牟岐町は、古くは白鳳年間(六八四年)の津波以来、正平(一三六一年)、慶長(一六〇五年)、宝永(一七〇七年)、安政(一八五四年)、南海道(一九四六年)と幾度もの津波の襲来を受け、まさに本町の歴史は津波の歴史と言えます。南海道地震による津波で本町は犠牲者五十二名をはじめ甚大な被害を受けました。こうした過去の災害を憂慮し、防潮堤、漁港修築、沖防波堤等の整備を図って参りました。五十周年を契機に私たちが身をもって体験した記録を風化させないため、南海道地震津波最高潮位標識、南海震災史碑を建立いたしました。
この度、南海道大地震・大津波の五十周年の節目にあたり、地震津波を実際に体験された方々の貴重な記録や体験を記録集にして後世に伝えることは、誠に意義深いことと思います。この小冊子が町民の防災意識の高揚に少しでも役立てれば幸いと思っております。
終りに、本書発刊にあたり徳島大学教授村上先生をはじめ、多くの方々のご協力に深く感謝を申し上げます。
平成八年十二月二十一日
牟岐町長 皆谷又男
私の家は、昔の坊小路、今の旭町にありました。
家の裏には畑があり、その向こうに観音寺というお寺がありました(今の東部保育所のところ)。
五十年前の冬のそのころ、私は赤物縄で甘鯛を釣りに行っていました。四時過だったでしょうか。大きな揺れでした。
私はひいじいさんから、昔の安政津波の話をよく聞いていました。『安政の津波で、海蔵寺へ逃げたが、荷物を取りに家へ帰った人はみんな流されて死んでしもうた。大きな地震の後には、必ず津波がくるよって早よう高い所へ逃げえよ。』
南隣りの今津のおばあさんも起きてきて外へ出てきました。
「津波が来るよって早よう一緒に逃げんけー」と誘いましたが、「うちは息子が病気でねよるし、嫁も大きな腹をしとるんで一緒に逃げれんのや」というて、家の中へ入りました。
それから私たち一家六人はすぐに逃げました。
私が三男(六歳)を背負い、長男(十二歳)の手を引き、妻は四男(三歳)を背負い、二男(十歳)の手を引いて、家と家との間の狭いあわえをぬけて畑の道へと出ました。妙見さんを目標に真暗な細い道をみんな走り続けました。
しかし途中、灘道にあがる手前の沖吉さんの家の横まで行くと、道の下に暗渠の口があって、はや潮がふき出てきていました。あっという間に腰までつかってしまいました。みんなが必死で流されないようにつかまっていましたが、三男が私の背中から落ちて波にさらわれ、暗渠の中へ吸いこまれてしまいました。長男も流されて、私と一緒に泳ぎました。妻たち三人も大牟岐田の田んぼの方へと流されていきました。三男を殺してしまったとガッカリしていた私の目の前に、次の潮で三男が暗渠の口からぽっかりと浮き上ってきました。本当に運がよかったのですね。
あわててつかまえ抱き上げ、長男と三人でようやく新田さんの畑へはい上がり、妙見さんへと辿り着きました。
妙見さんには、大勢の人が避難していたので、一緒に焚火にあたり、濡れた服を乾かし、冷えきっていたからだを暖めました。
妻たち三人を捜してみましたがどこにも見えません。みんな流されて死んでしもたのか?と半分はあきらめていました。そこへ北隣りの浜田キクノさんが、「三人が助かって小林牧場で火にあたっている」と知らせてくれました。大急ぎでかけつけ、みんなの無事な姿を見て喜びあいました。
やがて夜が明けて潮も引いていったので、私一人家に帰ってみました。家は跡かたもなく、地盤も残っていませんでした。ただ家のあった所に、チョウナが一本ぽつんと残っていました。でも家族六人全員が大きいけがもせず無事に助かって嬉しかった。隣りの今津鉄夫さん一家九人の家族は逃げることができず、家と共に流されて七人がなくなりました。本当に気の毒でした。
私たちは着のみ着のままで逃げたので、その日から食物・着物・寝る家もありません。毎日親戚の家で一晩ずつ泊めてもらいました。ようやく応急住宅が出来、小さいながらも家族一緒に毎日落着いて寝ることができほっとしました。忘れてならないことは、被害のなかった町内各地区の皆さんに大変お世話になったことです。
特に大平正敏さん・天野清市さん・橋本力さんのご指導と力添えで、世話人の方が先頭に立って、みんなで坊小路を地あげし、名前も新しく「旭町」に生まれ変わりました。観音寺川も古い川を暗渠にして上は広い道路になり、三男が吸いこまれた暗渠付近が新しい観音寺川になりました。
旭町も立派な町になり、新しい家が建ち並び、保育所も立派なものが建っていますが、今の若い人たちは、観音寺川が町の中を蛇行して流れていたことも、津波で大きな被害を受けた恐ろしさ、復旧に日夜苦労したことも知りません。津波を知っているのは、今も東部保育所の砂場に立っている大きなクスノキだけになりました。
私は自分が身をもって体験した津波の恐ろしさ、苦労したことを子や孫に、そして多くの人々に伝えて教訓として残していきたいと思います。
(旧姓松田当時宮田在住)
それは昭和二十一年十二月二十一日朝方、まだ外は暗かったです。突然上下動の地震が起こりました。
棚の物が次から次とみんな落ちてきました。そしてその揺れがしばらく続きました。「入口を開けえー、出られんようになるぞー」という声が聞こえました。私は位牌を出し弟に背負わせました。そして表に出ました。外は「竹藪に逃げろ!」等とわいわい大騒ぎでした。私は路地づたいに逃げて今の砂美の浜に行く道に出ました。その時既に暗渠には波がごうごうと押し寄せて来ていました。浜の方から「津波がくるぞー、高い所へ逃げえよぉー!」というどなり声が聞こえてきました。私は亀山神社の竹藪へ一度入ることにしました。すると皆が「畑へ上がらんか」と言い出しました。そこでまた、灘への道を東に向かって走り出しました。途中にごひち坂がありそこの細道を駆け上りました。そして戦時中に造った疎開小屋に着きました。皆でほっと溜息をつきました。ふと横を見ると弟がいません。私はびっくりして探しに坂道を転がるように下りていきました。名前を何度も呼びながらあちらこちらを探して歩きました。いつの間にか灘の福井さんの家の前まで来ていました。その家の戸をたたきました。するとどうでしょうたくさんの人がいました。ちょうど朝食を御馳走になっているところでした。その人陰に弟の姿を見つけることができたのです。私はほっと胸を撫でおろしました。
そのことを家族の皆に報告するために灘の道を下りて来ると、大牟岐田の田圃一面に家と船が流されて来ていました。私の家はどうかと思って急いで走って帰ると、柱は一本もなく家の形は残っていませんでした。辺りは同じように家の潰れたもの、ひっくり返った船等で道路は埋めつくされていました。観音寺も下は流され屋根だけが残っていました。後でこの附近に来た人が唸り声を聞きその方向に近づくと、屋根の下敷きになった老住職がいたとのことです。急いで屋根を壊して助けましたが、塩水をたくさん飲んでいたために亡くなったそうです。田圃の畦道には流されて亡くなった人がたくさん倒れて、死人の山が出来ていました。それぞれの家に蓄えられていたさつま芋が流されていて、それを拾って焼芋にして飢えを凌ぎました。
日が経つにつれて町役場、消防団、婦人会の人が出て炊出し(握り飯と沢庵)がありました。その後進駐軍が毛布を配給してくれました。このニュースを聞き大阪に住んでいた姉や親類がやって来ましたが、汽車は地震のため日和佐までしか来れませんでした。だから山を越えて歩いて見舞に来てくれました。
その後、家を流された人達に町が応急住宅(長屋)を建ててくれました。また橋本さんたちが中心になって、土地を約一メートルほど上げる工事をして旭町が出来ました。その時の記念碑が大牟岐田児童公園に建っています。
道路に埋立前の観音寺川左岸の家並 日の出橋より上流を見る
(旧姓奥田)
昭和二十一年まで私の家は「坊小路」の観音寺川の左岸添い、日の出橋より北側三十メートルぐらいの所にあって、祖母と母と叔母に私たち兄弟妹五人の八人で暮していました。
津波の前日、兄は四国電力牟岐変電所の夜間勤務で不在のため、私一人が二階で、他の家族は一階で床に就きましたが、この夜は十二月にしてはなぜか暖かかったような記憶があります。
翌二十一日早朝まだ暗闇の中、突然今までに経験したことのない激しい大地震に眠りを破られ飛び起きました。この時階下から「揺れが止むまで怪我せんように蒲団を被っとれよ」と祖母の声が聞えたので、また蒲団にもぐり込みました。
初めは横に揺れていたが、直ぐに上下振動に変わり、家は大きく軋り(すれ合う)、神棚や箪笥の上にあったものがバラバラと落ち、天井から下った電灯が振れて音をたてていました。この上下振動はどのくらいの時間か分かりませんが、しばらくの間続きかなり長かったように思います。
地震が止むと、私はすぐに服を着て階下に降りましたが、雨戸が閉っており、外の様子は分かりませんが、騒がしい物音は聞えず静かなようでした。
まもなく母や祖母が妹や弟たちに服を着せ終わり、皆玄関口の部屋に集まりました。玄関口の板間には収穫し乾燥を終えたばかりの籾を叺に入れ並べ置かれていました。このころは食糧難の時代であり、「これを二階に上げといて逃げよう」と母と祖母が言っている時に、外から雨戸を叩いて「津波が来るぞ、はよう逃げえよー。」と宮崎の伯母の声が聞こえて、足早に走り去って行きました。後日伯母より東会堂前の道路付近で、腰近くまで波につかって必死で逃げたと聞きました。
津波が間近に迫っているのも知らず、「子供らは先に逃げとれ。」と母に言われ、私が先頭に立って入口に行き、障子を開けた途端にドーン、ザーという音と共に、雨戸と雨戸の隙間から一斉に海水が吹き出してきました。「みなはよう二階に上がれ!」と言う祖母の声に、母は手をかけていた籾の一杯詰った叺を持って一気に階段をかけ上り、続いてみんなが二階にかけ上りました。
いつの間に用意したのか母がローソクに火を点しており、その明りがみんなの顔を照らしていました。母が明りを持って波の様子を見に階段の所に行くと、わずか三メートルぐらいしか離れていないのに真暗になり、みんなだまったままでした。すぐに母がもどり「階段の上近くまで波が来とる」と言い、祖母が「もうあかんやわからん、死ぬんやったらみんな一緒や、手をつないで離すなよ」と言い、七人が輪になって手を握り合いました。
ローソクの明りもいつの間にか消え、真暗闇の中でヒタヒタと波の走る音だけが聞え、ドーン、ドドーンと家に何か打ち当たる音が数回続いて聞えたと思った瞬間、突然家が崩れるように倒れ、家に押し潰されるようにしてみんなが水中に押し込まれました。
私は水中で天井に頭を押えつけられ、いつの間にかつないでいた手を離し、必死になって天井板を突き破ろうと海水を呑みながらもがいていたところ、急に頭の上が軽くなって、壊われた家の梁や柱にまたがった格好で水面上に胸まで浮き上りましたが、近くにいたはずの家族の姿が一人も見えず無我夢中で水の中をさぐり、手にさわったものを引張り上げました。幸いにも弟や妹たち三人は間近におり、祖母は少し離れて浮き上っていましたが、母と叔母の姿は見当たりませんでした。
真暗闇の中で浮いている不安定な壊れた家の木材にまたがって、胸近くまで海水につかった状態であり、祖母に「動くと危いからそのままでおれ」と言われ、みんなでこのまま夜明けを待つことにしましたが、海水につかっているので寒いとは感じませんでした。
しかし私の着ていた学生服は、戦争末期に配給された荒い植物繊維のもので、海水を吸って肩にのしかかったように重く身動きがしにくいので脱ぎ、浮き上っている梁の上を伝って前に建っている家に近づくと、ちょうど胸ぐらいの高さに小庇があったので、そこに上着を置き、元の場所にもどって海水中に座っていました。この間にも津波は満ち引きを繰り返していたようで、梁や柱が動き軋る音がしていました。
ふと気がつくと少し波が引いたのか、さっきの家の窓が開いているのが黒くなって見えたので、座っていた梁を伝って近づき中に入れないかと足を入れてみたが、畳が濡れているのか足を乗せると沈み込むようなので、あきらめて再び元の所に戻りました。
いつしか暗闇に目が馴れてきて、私たちのまたがっている梁や柱は、元の我が家から七〇メートルぐらい上流の観音寺参道口の橋と、浜崎隆一さんの家の所にひっかかっていると分かりました。暗がりの中を見透かすように辺りを見回すと、観音寺川右岸添いの家並みは何事もなかったように建っているのが見え、左岸添いの我が家の付近のみが流されたようで涙がこぼれ、後を振り返ってもみませんでした。
こんな時に今日も何事もなかったかのように、一番列車の汽笛が何度か聞こえていました、次第に空がしらみ始め、足元が見えるようになり、「気をつけて道へ上がれ」と言う祖母の声に、みんなは梁や柱を伝って右岸の道に上がりましたが、この時には津波はほとんどひいていました。
みんなで小松屋の前の広い通り(東七間町)を南へ、初めての交差点を東に向かいましたが、当時の道路は今のように舗装はされておらず、津波で土が洗い流され、角のたった小石がむき出しになっていて、水にふやけきった素足には突き刺さるような痛みをおぼえ、泣きそうな顔で踵をひくようにして痛さをこらえて歩きました。
日の出橋までは、町並に何ら変わりはなかったが、橋を渡ると様相は一変し、坊小路地区は全滅状態で荒地と化し、残っていた家は半壊も含めて六軒ぐらいでした。町をはずれると路面は普段と変わらず、足の痛みも和らいだが、みんなは無言で後も振り返らず、びしょ濡れのまま灘(大平間)の伯父の家を頼って行きました。
伯父の家には親戚の人たちが大勢避難してきており、すぐに母や叔母を捜しに出てくれました。私は濡れた衣服を焚火で乾かしてもらいました。夜勤を終えて惨状を知り、私たちを尋ね捜してきた兄と共に、母たちを捜しに行きました。
大牟岐田の田圃には漁船が何隻もすわっており、蒲団や衣類、家財等が散在し、遺体もあちこちで見られました。昼前に母が、午後になって叔母が遺体となって見つかり、充分な弔いもできないまま翌日埋葬されました。
次の日に家の跡地に行くと、地盤石も流されて跡形もなく、打抜き井戸ポンプの跡に、赤錆びた鉛管が立っているのみでした。
ふと屋根に置いた上着のことを思い出し、取りに行くと上着は二階の窓の小庇の上に乗っており、川の中に積み重なっていた柱等はほとんどなくなって、三間余りの梁が一本残っていただけでした。伯父の家で一週間ぐらい世話になり、その間に拾い集めた数枚の蒲団等を、兄と二人で灘神社(権現さん)前の谷川まで運び、丸洗いして乾かし、救護物資の毛布、衣類、食糧等の支給も受けました。幸いにも通称「棒木」の畑に九尺ラ二間の納屋があり、ここで国の助成金を受けて外周りの出来た建築半ばの家に入居するまでの七か月余を過ごしました。
津波に対する知識も現在に比べると乏しく、大地震の後に津波が来るとは聞いていても、まさかこのように早く襲ってくるとは、祖母や母も思ってもいなかったのではないかと思います。
悪夢のような南海地震津波のことは、思い出すと気持ちが滅入り、あの時に欲をすててすぐに逃げていればと今だに悔まれます。
二十日の夜は、虫が知らしたのか生後二十五日の男の子が泣いて寝つかず、宵から抱いて立ったりすわったりして、寝ていなかった。朝方ウトウトしていたら大きな地震で目が覚めた。広島から復員していた夫はするめ釣に出ており留守で、母と子供三人で寝ていた。直ぐに戸を開けて外に出た。地震が揺っている間は前の小島千太郎さん宅の横の観音寺川の土手で皆が立っていた。
まだ潮は来とらなんだので母は先に上の子供二人を連れて、そのまま川の土手から宮崎宅の裏を通って無事に灘道へ逃げた。
私は男の子を抱いていたので一旦家に入った。真っ暗で子供を背負う「すけ」がわからんので箪笥を開け、何でもかんでも引き出して子供を背中に巻きつけ、お金が無くては困るので宵に松田の兄にやんと分けたするめの販売代金を鷲掴みにして、袋に放り込んだ。そして逃げようとしたらもう外ではバリバリ、ゴウゴウという音がしてきた。「こりゃーしもたあ。おそうなった」と慌てて土手づたいに宮崎宅の裏へと逃げたが、沖吉の兄の家の空地から波がざあざあと押し寄せて来て立往生してしもた。私は兄の家の横の竹垣につかまったが、二回目の波で道から川を越えて川向かいの松下さんの田圃の隅へ投げつけられた。三回ぐらい潮を飲んだが度胸がすわった。浜の方へと流されたら死んでしまうが田圃の方へ流されたら助かると思い、潮を飲まんようにして灘の方に向かって流されていった。真崎のばあやんや孫さんたち後から逃げて来た人たちは、川へ流されて死んだ人が多かった。「助けてくれー」という断末魔の叫び声は今だに耳に残って忘れられない。
潮水を飲まんように頭をあげて流されとったらドラム缶が浮いて来たが掴まれない。壊れた家の柱が流れて来たがひっくり返って掴まれない。原さんの田圃(現在の中磯宅裏付近の下側)辺りまで流されたら、田圃の岸に積んであった「藁ぐろ」に行き当たった。足が田圃につかえてつるつると滑りながら手で潮をかきもって「藁ぐろ」に掴まった。「藁ぐろ」が岸へあがつた時はよいが、潮が引き潮になったら藁が抜けてくる。あっちを持ちこっちを持ちして若宮神社の下位(現在の古牟岐道路四ツ辻付近)まで流されたら後が重たくなった。「誰ぜえ!おたいに掴まったんわー」「ばあやん助からんかいまあー」と男の子の声「ばあやんに掴まったら重みでばあやんも死ぬのって、早よう藁を掴まえ」と言うと軽うなったんで「あの子は藁を掴まえたんかいなあ、死ぬのは一緒やったのにあんなこというんやなかった」と思いながらごひつ坂の下まで流されていったら潮が引いていった。
少し明るくなってきてじーっと見よったら、流されて来た家の下店の上に蛙が止まったように男の子がチョコンと座っていた。
「おまあ助かったんけえ、また波が来るよってキョロキョロせんと早う逃げえー」と言うと一目散に道路に駆け上って行った。私は立って見たが田圃がずるずるして立てられず四つ這いに這うて岸へと辿り着いた。ようよう坂を這い上って灘道まで着いたけんど、子供を背負うとるし綿入れの着物づくめで濡れて重とうて歩けず、小林牧場まで這い込んで行った。
牧場のカド(表)ではいっぱい避難して来た人達がわいわい言よったが、その横をくぐって裏口ヘと廻った。裏口には誰もおらんので障子を開けて入ったら庭(土間)で先刻の男の子(奥英治君)が震いよった。「おまあ助かったんけえ、早よう抜ぎー、つるつる裸で入りー、何じゃ着けとられんじょー」と言うて中を見ると、高い櫓に昔の木綿蒲団を高う積んであるんで私も裸になり、子供も服を脱がして抱きしめて一緒に入いっとった。七時ごろになるとおしっこがしとうなって辛抱ができず「誰ぞおらんのけー、何ぞ貸してくれー」とどなった。表の部屋で橋本力さんの母親シヅノさんが救助されて、小林先生が湯を沸かしてもって来たり火で暖めたりして、子供たちが「お母さん死ぬな!お母さん死ぬな!」皆がかかっていて誰もが気が付かない。大声で怒鳴っていたら誰かが乳牛に着せる物(つぶしまである布切)を放ってくれたので、それを着いて便所へ行って来た。臭くてもかまんとそれで子供を包んで暖めていた。
しばらくすると夫が私たちが小林牧場で助かっていると聞いて、見に来てくれたので嬉しかった。濡れた時は毛布でなくて肌着が欲しかった。夫が肌着を持って来てくれて、母子二人が着て火で暖まったりしたら子供も泣き出して助かった。小林牧場では大勢避難して来ていた人たち皆に、牛乳を暖めて振舞ってくれた。皆嬉しかった。
夜が明けて帰って見ると家は半壊で傾いて残っていた。小島国太郎さん宅まで流されて、隣の真崎亀一さん宅、私宅、横田喜代一さん宅の三軒が残っていた。前の喜来晴茂さん宅が流されて、沖吉丈吉さんと小島千太郎さん宅が半壊で残っていた。夫は隣組長だったのでほとんど家にはおらず母と家を片づけた。私たちは灘の原さん宅で二晩泊めてもらい、それからはしばらく沖吉の兄の家の二階で母は上の子供二人を連れて灘道の亀山神社の下の本家の納屋に分かれて生活した。
地あげをしてから家を直して皆で暮せるようになった。しかし下の男の子は地あげの最中に風邪をひいて、つってつってして生後五か月で亡くなってかわいそうだった。欲を捨てて早く逃げたらよかったのに、お金が無かったら困る、子供が風邪をひいたら困ると家へ飛び込んだのが失敗で、慌てて折角持って逃げたつもりの紙札も、逃げる途中潮を待つ間に袋の中を覗いたら、紙札でなく蚊取線香を持って逃げていた。母は子供二人を連れて直ぐに疎開納屋に逃げて、火を焚いて無事助けてくれていた。
南海津波体験者として念願の体験集が発行できることになり、発起人として喜んでおります。
体験は大勢の方が書いてくれましたので、私は旭町復興世話人のただ一人の生存者として、震災後の坊小路復興工事について述べます。
私はその夜するめ釣りに出漁して沖で津波にあい帰港しましたが、坊小路地区のほとんどの家庭は住む家も財産も失い、漁師は漁船や漁具も流されたり破損したりで漁にも出れず、親類知人をたよって苦労しました。私の家は半壊、家族は怪我もせず避難しましたが、生後二十五日で長時間潮に浸った二男は、五か月目に風邪をこじらせて死亡しました。
さて津波後犠牲者の捜索収容、流失家屋家財道具、漁船等の整理後、壊滅的被害をうけた低地の坊小路地区をいかにして自力で復興するか、土地のかさ上げについて世話人を先頭に地区住民一生けんめいでした。私たちは幸いにも良き指導者橋本力さんを得ました。橋本さんは自分の家も被害を受け、母親、伯母も亡くなったのに、家業も犠牲にして昼夜を問わず復興に全力を尽くしてくれました。大平正敏さん、大竹組の天野清市さんも指導者として物心両面から指導と援助くださいました。地主の喜田助四郎さん、谷治太郎さん、地上げの土を提供くださった浜田栄市さん、応急住宅敷地を提供された新田一二さん、大勢の作業に奉仕してくださった町内の皆さん方のご協力によって、工期十か月、工費九五万円、五、七二〇名の延就労人員で翌年十二月完成、町民より募集した新町名は「旭町」と決定、新しい旭町が誕生しました。
私たちは現在も震災当時大変お世話になった町内外の方々の援助に感謝し、先頭に立って地上げをしてくれた小島千太郎さん、沖吉丈吉さん、前記の方々の苦労と恩を忘れてはなりません。
私は世話人の中でも一番年が若く子あらいの最中でした。他の世話人の方々が「後は俺たちでやるから、お前は家の復旧費を稼ぎに行ってこい」といわれ、温かい言葉に甘えて地上げの途中で後をたのみ九州へ出稼ぎに行きました。
私は若いころから坊小路で大きい台風(特に昭和九年の室戸台風など)、また、戦後数々の台風にあいました。
戦時中は長崎で原爆にあい被爆しました。そしてまた南海津波では壊滅的な被害を受けました。私の一生のうち、原爆、地震、津波そして何回もの大型台風と恐ろしい目にあいましたが、苦しみながらも耐え立ち上がってきました。
核戦争のない世界恒久平和を願うとともに、とかく歳月がたてば何事も忘れがちになりますが『災害は忘れたころにやってくる』『備えあれば憂いなし』この貴重な体験を風化させないよう後世に伝えたい。私の願いを実現してくれた「牟岐町南海道地震津波の記録を残す会」の中山会長を始め編集委員の皆さん、教育委員会事務局の皆さんに心より御礼申しあげます。
南海地震当時、夫竹一郎は、角谷磯吉さんと沖吉初太郎さんらと、鮪船に乗っていたので、二歳の娘、千恵子と二人だった。二階には、このころ東の会堂に出張して来ていた接骨院へ治療に来とった県南の女親子が泊っていた。
大きな地震で恐ろしかったが、津波が来るとは思わず、そのまま家の中で待機していた。
しばらくすると、ザアザアという音がして道路へ潮が来た。第一波だろう?まさか二階までも潮がくるとも思わなんだし、その時は家の外へは、もう逃げられなかったので、仕方なく親子で二階へ上った。県南の女親子と四人で恐怖に包まれていた。
三回目の潮だったと思うが、小沢嘉代一さん宅と前の家(スマさん宅)が壊れて流れて来た。
ドラム缶がたくさん流れてきて、一階がメチャメチャに壊れてしまった。しばらくすると二階が後へ傾いて、生きた心地がしなかった。
いつ流されるか、恐怖におびえながら潮が引くまでの時間の長かったこと、本当によい辛抱でした。
夜が明けてから助けて戴き、近くの高台にある東の会堂に避難したがしばらくの間、足の震えが止まりませんでした。
亀井甚吉さん一家のほか、三家族と一緒に生活し、その後、灘の福井幸雄さん宅でお世話になった。
一階はメチャメチャに壊れて、何もかも流されたが、幸い二階は畳が濡れただけで、品物は濡れず助かってホッとしました。
私は南海地震当時は、しび縄船に乗って、伊豆下田港に寄港していた。松下竹一郎さん、沖吉初太郎さん、谷正一さん、もう一人誰か一緒だった。
地震の知らせを聞いて家が心配だったが、船からは電報で連絡がとれなかったので漁船の無線局長を叱ったことを覚えている。
神奈川県の三崎港からは、連絡がとれたようであった。
家に帰ってみると、前は観音寺川だったので流されてしまって何にも残っていなかった。家の裏の石垣には、津波の跡として、重油の跡カタが黒くついて残っていた。その跡カタも三〇年ぐらいはとれずに残っていたが、現在では消えてしまって、何もなくなってしまった。もう一つ玄関入口のワキの地盤に、基礎石をセメントで固めてあったのが、三尺ぐらい(約一メートル弱)残っていた。それが我が家のシルシだった。
地震の朝、妻は四歳の長男と二人で寝ていたが地震が揺れ終わってから、川向こうの横田の秀さんが、「津波がきよるのって、山へ早う逃げんせ!」と大きな声でとえるのを聞いて、仏さんも例にも持たずに着のみ着のままで、提灯をたよりに裏のガケをよじ登り、裏山づたいに妙見さんへと逃げて助かった。
親戚の今津も七人なくなり、福田も流されて頼っていくところもなく長い間困った。妻もなくなり当時の辛かったことも忘れがちになったが、大地震のあとに津波は必ずくることを、忘れてはならない。
昭和二十一年十二月二十一日未明、大きな地震が揺れだした。
家族みんなで近くの観音寺川のそば、横田喜代一さんの家の前へ逃げていた。
地震が治まって、しばらくして、「津波ヤー」という誰かの叫び声を聞いて、そのまま妻と子供を先に、土手の道づたいに灘道の方へ逃げさせた。
私はすぐに家に引き返して、布団とローソクをもって外へ出てみたら、もう観音寺川の方では、ジャブジャブと波の音がして、津波の第一波が押寄せていた。無我夢中で命からがら妙見さんへと逃げた。
夜が明けて、家に帰ってみた。家は残っとるぞ!、と喜んだがヌカ喜びだった、屋根はあるが家の中はカラッポ、柱だけが残っていた。波の高さは私の背丈より高く、二メートルぐらいまで来ていた。
それからが大変だった。地上げして家を建てるまで苦労した。
清流荘での津波体験座談会
(平成6年9月3日東の東老人会東クラブ)
私は、その夜は出羽沖ヘスルメ釣りにいっていた。朝方、四時過ぎだった。大きな地震が揺って来た。地震の最中に、陸の方や出羽島を見ると、石が転げ落ちる摩擦で、火花が散っていた。地震が止んですぐに潮が早くなり、狂ったように津波が来た。一時間ぐらいしてから戻って来たが、牟岐港の前は、家や材木などが一杯流れてきて、ゴミをよけながら帰港した。
「助けてくれ!」という声で見たら、佐藤忠太郎さんが泳いでいたので、助け上げ乗せて帰った。
手繰船が沖の一文字堤防に打ち上っていた。港には船はつけれず、波止の小磯さんの石垣に船をつなぎ、錨を入れて父と弟を降ろした。
あちこちから助けてくれという声が聞えたが、助けに行くことができなかった。
正伝寺山へあがって山伝いに妙見さんに行ったら、みんな火を焚いてあたっていた。
寺の庭には死んだ人が並べられていた。
家に帰ってみると、家の前ではアナゴが泳いでいた。
家は流されずに残っていたが、南側の壁、蔀は流されて、北側へひぼ石(基礎石)より一尺ぐらい寄っていた。
また隣のおひつが、うちの棚に乗っていた。
潮位は床上、二尺五寸ぐらいあがっていた。
昭和二十一年十二月二十一日朝、南海地震が揺った時は、夫たちはスルメ漁に出ており留守で、私一人だった。地震の最中に、前の沖吉のおばさんが「タマエさん田圃へ逃げよう」と言ったので、一緒に川向かいの田圃へ逃げた。田圃には麦を播いてあったが、上にあがるとコンニャクの上を歩くようで、グニャグニャして全然歩けなかった。「どこかへ行こう」と言っていたら、木村のおばあさんが、川向かいの家から、「津波が来たら流されてしまうぞー」ととえてくれた。「竹やぶへ逃げよう」と言って家に帰り、真暗で手探りながら、仏さんの位牌と大事な物がはいっている引出しを、そのまま持って出かけた。
隣の大平宅の前を通ったら、「おばあさん、スケないんや、オイゴないんや」と言っているのが聞えた。子供がいたら枕元に、いつもスケとオイゴを置いとくのが必要と、その時思った。
逃げる途中で、前の小島のおばあさんは足が立たず動けないので、後からくる人たちに「みんな踏んで通ってくれ」と言った。
沖吉初太郎さん宅の横から宮崎さん宅の横の道を通り灘道へ出た。妙見さんへ上る道の段へ左足をあげたとき、右足の元に波がザブザブと押し寄せて来て濡れてしまった。
妙見さんでは、どこまで津波が来るか分からんといって、裏山の開墾畠まで登ったが、道中で引出しの中の物を落としてしまい空っぽになったが、後で探しに行ったら山道にみんな転っており、よかったと胸をなでおろした。
私は南海地震の当時、妻と子供五人で中の町に住んでおりました。大きな地震でした。
地震と同時にすぐ頭の中に浮んで来たのは、津波がくるに違いない、逃げるのは海蔵寺しかない、「わしは家の片付けをして逃げるから、お前らは海蔵寺へ先に逃げよ!」といって、家族だけを先に逃がして家の中に入った。
妻や子供たちは、あわえを北へあがって、小松洋品店の所から西へ向かって走り、広い道を海蔵寺へと逃げた。早かったので全然ぬれずに逃げることができた。
私は家の中に入って片付けを始めて三十分ぐらいもしてからと思うが、家の前をガラガラと音がしてドラム缶がたくさん流れて来た。早く逃げようと家の前に飛び出たが、腰まで波につかってしまった。あわえを北に向かい、服部宅前から西へ走り、今津酒店の前まで行ったら船が流れてきて危かった。七間町では太股ぐらいまで波が来ていた。
北へ向かって波の高さは減っていった。海蔵寺の石段にはもう波が打かけていた、石段には逃げる人でいっばいだった。
地震から四十分ぐらいたっていただろうか、海蔵寺で夜が明けるまでいた。明るくなってから家に帰ってみたら、家は残っていたが、半壊、潮位一七〇センチメートルぐらいまでつかっていた。
流れてぎたドラム缶の口があいて、家の中は重油でドロドロになっていた。
安政の津波の後でつくった土手が浜側にあったが、生活面でまがる(じゃまになる)ので取り除いてしまっていた。私も賛成した一員で反省している。
子供たちに言い残したいことは「大きい地震の後には、必ず津波がくるので、早く逃げる」
(平成八年四月二十六日なくなられた)
昭和二十一年十二月二十日の夜は、星明かりの静かな夜であったように思います。当時私の家族は両親と妹弟三人の六人家族でした。静かな夜だったので皆よく眠っていました。突然何の前ぶれも無かったように思います。急にガタガタガタと大ぎな音がして眼がさめ、これは今までにない大きな地震やないかとあわてて立って歩こうとしましたが、上下に揺れて歩けないんで柱につかまって立っていました。四〜五分で揺れが弱くなったので、母と一緒に家の裏がすぐ浜やったんで浜に出て、潮の引き具合を見たけんど、その時は別に変わった様子もなく五分か七分ぐらいで急いで家に帰ったら、妹や弟はもう逃げておらなんだようだった。
寒いので上着を着るんと同時に枡方の朋やんの声と思うが「津波が来るぞう!」と言いながら走って行く声を聞き、これはいかんと思い逃げるのに外へ出ようとしたら、もう潮が来ていて、見る間に腰胸と水に浸っていった。
父と母は、その時はもう二階に上っていて、「もう逃げる間が無い。早よう二階にあがってこい」と呼ぶので、階段をあがると同時に階段が水に浮いてはずれたように思う(昔の家の階段は段梯子と言って取りはずしができた)。後で聞いた話やけんど、妹や弟は、後から潮に追いかけられながら海蔵寺に逃げていったとのこと、逃げるのが早かったら逃げられるような潮の早さやったのに、真暗がりで何んにも見えんがようよう手探りで窓のところまでゆく。もう家の中にいて家が倒れて来たら下敷きになると思い、母の手を持って先に屋根に出て、「早よう出てこい!」と言うて引張ると同時に、裏の方(浜の方)からドスンという大きな音とともにメリメリと柱の折れる物凄い音と同時に、家が前の方に倒れていき、しっかり握っていた母の手を離してしまい何かに押し付けられた。何かに挟まれたように身動きが出来ない、息をすると潮水をゴクンと飲んだので、これはいかん潮水を飲まないように手の平で鼻と口を塞いだら、今度は息が出来んようになって、からだが綿のようにフワフワとしたようになり、どこを見ても灰色か銀色のように見えて気を失っていった。
それからどのくらい、時が経ったか知らんけんど、からだが冷ヤーとしたと思ったら気が付いた。父や母はどないしたんかいなァーと思い、這い出して外に出たが暗くて何も見えない。そのうち、全身ビショ濡れやから寒くて、いても立ってもおれない。
でも父や母は家の下敷きになって濡れているんやから凍ってしまうんやないか、早よう捜さなんだらいかん!そのうち、うっすらとどうにか見えるようになってきた。倒れた自宅の窓の所にいたので「トトやん!」と呼んだらちょうどその下で「ここやー」と言う声がした。瓦をはいだら父がヒョカーと頭を出して来たので引張り出し「お母やんは?」と言ったら「この下で声がした」と言うので下へ潜っていったけんど暗くて何も見えんし、壁土や柱の下敷になっとるようで、手探りで壁土を取ったりしていると三度目ぐらいのゴウという込み潮でからだが潮につかってズブ濡れとなり寒くておれないんで、弟が持って逃げていた着物と着替えて戻って来たら、父が誰かに手伝ってもらって母を妙見さんに連れていってくれていました。母は長時間、水につかって濡れていたので凍死してしまったようでした。ただ手を当てると腹のあたりがかすかに温りがあったぐらいでした。
こんな地震や津波が無かったら、まだまだ長生ぎできたと思います。
あれから五十年、平穏な日々が続いていますが、いつか、また近い将来必ず起こるであろう災害に備えて、二度とあの悲惨な犠牲を繰り返さないよう心しなければと思い、子供や孫たちに時々話しております。
五十年前当時は三十八歳、今八十八歳を迎えて、南海大地震につぐ大津波の状況を、自分の一家を中心に忘れ得ぬ追憶をたどって書いてみますが、高齢のため乱書乱文御免ください。
昭和二十一年十二月二十一日夜明け(時計見る間なし)大地震のため、石とレンガで築いた高さ二メートルのかこい(囲い)が崩れてしまい、ただ呆然としている所へ、二百メートルぐらい離れた所に住む実兄がとんで来て「港の船溜りの潮が一滴もなくなってしもた、大津波が来る、一刻も早く避難せよ!」と言い残して自分は早く早くと言いつつ走り去って行きました。
母は長らくの病気で、父はその看護に付きっきりの状態でしたが、早く逃げんと家内全部が死んでしまう予感がしたので、両親を見殺しにするやもと、家内全員が死ぬよりもと、両親を母屋から南の方につきでた「離れの二階へ上れたら上ってくれ」と言い残し、身を切られる想いで位牌の一部と少しの金を持ち、子供(三歳)一人を妻が背負い、六歳と九歳の二人の手を私が引いて玄関へ出たら早、外はつぶしぐらいまで波がきて、あわえを通るにも、雑物で通れず、直ぐ方向を変えて七間町へ出て、海蔵寺を目当てに走って行きました。
波が先きに早い速度で押し寄せて来るが、ようやく海蔵寺の石段までたどり着き、大勢の皆さんとともに、お寺から町の状況を見たところ潮ははや引潮で、坊小路は目も当てられぬガレキの原で、父母は助かる見込み無しと断定した。その後、二度目の波が迫り来たが直ぐに引いて行きました。大きな危険を感じながらも父母の安否を心に祈りつつ家にたどり着くのに、ガレキの山を踏みこえてようやく家に着いた。家の中は空で何もなく、大声で両親の名を呼んだところ、かすかに返事があった。心のうちで、やった、〆たと急に涙がふき出て来ました。よく聞き出したところ、表の部屋で寝ていたら畳、布団が浮き上り、天井を突破り天井裏で立っていたら潮が引いて行ったので、この間にと、力を振り絞ってどうやら下へ降りて、ようやく離れの二階のつき出た一番高い所へ来ていたということでした。「おれらはかまわんから早くお寺へ帰ってやれ」と言うので、食事などいろいろとあるので、「危険が去ったら直ぐ来る」と言残して外へ出た。自分の家より東並や川添いの辺りは目も当てられず、かすかに助けを求めるウメキ声も聞きましたが、近寄って行くにも行けず、再度潮が来るかも知れず、両親や不幸な方たちに、身を切られるような思いを残し小さい子供たちのいるお寺へ帰りました。
二日後大阪の妹夫婦が、握り飯、生活用具の一部を持って来てくれたことを、いまでも深く感謝しています。その後一か月、整理に費やし県や町から食物や生活物資のご支援を頂きました。
今にして思うことは、大地震のあった時は、一分でも早く狭いあわえを通らずに、常に避難場所を考え、その行き着くまでの通路を腹に入れて、置くことが大切でしょう。橋を渡るということは、なるべくさけることも大事でしょう。
五十年前の昭和二十一年末、未明突発した南海道大地震当時、両親は山の家におり留守であった。
九死に一生を得て戦地より復員してきた私と家内は、幼い長女と三人で裏の離れの二階で寝ていた。午前四時二十分ごろだったと言われるが、突然家が左右に強く揺れ出して電灯が消えた。未だかつて経験したことのない大地震の恐怖にさらされた。今にも家が倒壊するかと思われる程で、その間互に言葉を交す余裕は全くなく、随分長時間に感じられた。
幼時、第一室戸台風時においても、早朝家の戸を開けると、直ぐ目の前の町を海水が奔流となって流れているのを見てたまげたものである。そのような海辺近くで生まれ育った私は、大地震のあとには津波の危険性があることを、誰からともなく身につけていた。毎日通った小学校の東前隅には、安政年間の地震と津波の記念碑があり、頭に焼きついていた。
私は地震動が収るや直ちに着衣、妻には長女を背負って直ぐ逃げられるよう指示した。階下におりて母屋に行くと、弟二人が蒲団の上で果然自失、無言のまま座っていた。「津波がくる。位牌だけ風呂敷に包んで直ぐ逃げる準備をしておくよう」大声で告げて、五十メートルぐらい先の岸壁に来て海水位の変化を見た。当時空は少し曇って風もほとんどなく、海水位に変化はなかったが、港の防波堤と沖の空と海は何とも知れぬ無気味さが感じられた。発光現象や海鳴りのようなものは感じなかった。そこにいたのは一分か二分だっただろうか。こんなことはしておれぬと直ちに家にとって返し、家族と共に避難すべく急いだ。金も米も持って来ていないと家内は言うが、そのまま無欲で低い道路を通るのは避けて海蔵寺に向かった。途中地震で倒壊した家は見当たらなかった。海蔵寺には早く避難した近くの人々が見られたので、家族を金比羅さんまで案内した。絶対ここを移動せぬよう指示し、私は再び海蔵寺を降りた。家族たちは、津波を知った山の両親が探して来て世話をしてくれることを信じ、その後一日家族と顔を合していない。
その時避難して来た人々は、すべて津波で衣服を濡らしていたようである。私は復員時に腕時計を没収されて、当時も時計を持っていなかったので、家を出て何十分ぐらいたっていたのか分からなかった。
津波は引いているようだった。そこでまた津波の危険はあるが、自分たちの家と町筋がどんな状態になっているか確認すべく帰った。私たちは余りにも逃げ足が速かったので、津波来襲の状況は全く承知していない。
私たちの町筋に来て見ると、ほとんどの家は地震津波による倒壊はなかった。しかし私の家は運悪く、町を流されて来た漁船が母屋の中に突っ込んでおり、家は傾むき壁は落ち惨擔たるもの。
裏の離れに行ってみると、階下は津波で流されて来たゴミで一杯。しかし、一応壁は落ちていても建物はちゃんと立っている。
階段を見ると、最上の階段まで海水が上がっている。ここまで波が来たことは確かである。
直ちに我が家を飛び出して、我が家より東のより低い集落を見て廻る。一軒の家は全く倒壊していないのに、恐怖からか二階で「助けてくれ」と叫んでいるが、たいしたことはなかろう。その次を見ると、この家だけその浜側に家屋が無かったためと平家だったためか、屋根がそのままつぶれて落下している。母親がその下敷になっているらしく助けを求めており、息子さんが屋根に穴をあけて手だけ握り合っているようである。私のほかには誰もおらず、二人だけではいかんともし難い。
一応その東から観音寺川までの家々を見て廻ることにした。無人の家は避難しているのであろう。他のあちこちの家々には津波で溺死したであろう遺体が十数体眼につく。一番悲惨だったのは、母子五人の遺体が一ヵ所に散乱していた。溺死者は階下で、しかも玄関の土間で倒れている。家は倒壊していない。逃げおくれて津波の犠牲になったのであろう。
さて屋根に押ししあがれてまだ生きている被害者の救済が問題である。私は直ちに海蔵寺にとって返した。長い階段の下で多くの人たちが焚火を囲んでたむろしている。そこで現地の惨状を報告して、共に救助に行ってくれるよう呼びかけたが、いつまた津波がやってくるかも知れぬ危険を犯して同行してくれる人は出てこなかった。現地に引き返してみると、もう既に声もしない。その方に対しては、今でも思い出す度に実に慚愧の念に耐えぬものがある。
以後は遺体の収容に当たった。戸板の上に遺体を一人ずつ乗せて、東の妙見さんに収容し続けたのだが、誰と組んで行動したのか、その相棒を今は全く承知していない。浜筋が済んでから、現旭町と大牟岐田の田圃の遺体収容に当たった。
当時の旭町は坊小路と言われ、道路より約二メートル近くも低地で、ここに約五十戸ほどの民家があった.観音寺川に沿って逆流して高ぶった津波の主流がこの土地にあふれて流れ込み、ほとんどの家が倒壊し死者十数人を数え、被害実に甚大であった。坊
小路の倒壊家屋と遺体は、その北に隣接する大牟岐田の田圃に散乱し、遺体の収容にも大変難渋した。遺体は総て東の妙見さんに並べられ一応の検視を受け一杯になっていた。
津波後、私はこの遺体収容の一日を終えると、公務のため翌日から役場に出勤せざるを得ず、部落を離れることになった。
牟岐町内の死者五十三名のうち、中の島五名、西浦九名、東浦三十九名に達したが、その東浦のほとんどは東の東に集中している。そのうち一名は東の中で、当日朝、町外に入院の家内を見舞うべく、朝一番の列車に合せて牟岐駅へ急ぐ途上であった。それがたまたま木屋か中の島辺りでこの津波に巻き込まれて犠牲になったものと思われ、断腸の思い切なるものがある。
この南海大地震による津波の大災禍は、長らく続いて来た第二次大戦がようやく終結した翌年のことであり、敗戦後の大きな心のショックと、底知れぬインフレの進行と共に、衣食住を中心とする困窮にますます拍車をかけるに至ったのである。
当時家には夫と長女秀代(一歳)がおり、父母と妹節子は灘道の納屋にいた。大ぎな地震だったが夫は外に出たら危ないと言って皆家の中にいた。地震に驚いて父母も妹も家に帰って来た。津波が来ることなど誰も知らなかった。
地震が揺りやんでしばらくすると、浜筋の角田秀子さん(旧姓名田)が「水が来た!」と大声で叫んで走っていったので驚いて前の路地に出てみたら、はやピチャピチャと膝まで波が来ていた。近所四軒、中磯、宮崎、川村、私宅一家全員死ぬなら一緒と、吉勝さん宅の路地口防火水槽の蔭で固まっていたが、観音寺川の方からコールタールでどろどろの波が押し寄せて来て胸までつかって動けなくなった。父は節子をつれ、母は秀代をおいごで背負っていたが、みんなばらばらになって西の方へ流されていった。私は泳げなかったが傍らで男の人が泳いでいるのでかきついたら夫だった。そこへちょうど舟が流れてぎたのでみんなでその舟に乗り、大市さん宅の前まで流されていった。大市さん宅の西角の塀にかき着いて、塀から庇屋根づたいに新宅の二階の部屋へ這いあがった。大田清一さん一家も一緒に新しい畳の上で、全身ずぶ濡れで冷たかったが夜が明けるまで辛抱し、潮が引いたので海蔵寺へ逃げた。おにぎり一個ずつもらったのが嬉しかった。
路地四軒のうち、宵に川端の銭湯へ一緒にいった中磯さん母子がなくなり、かわいそうだった。岩雄さんは消防組で見廻りにきた中野広吉さんに大市の前の溝で救けてもらった。四軒とも家は全部流されてしまった。私たち一家は新しい家が建つまで灘道の納屋で家族全員が生活した。
昭和二十一年ごろ私の家は家族十二人の大世帯だった。私たち夫婦、父夫婦、祖母、妹たち七人で、その宵に妻の母も新野町からきて泊っており計十三人だった。二十一日朝れんこ船が出航する予定だったので、出初めの祝いに赤飯を炊く準備のため女ご衆はみんな早起きしていた。
大きな地震が揺れ出したが妹の千代子はすぐに「こりゃ逃げんといかん」と言って、妹たちを全員連れて地震の最中に観音寺川の向かいの高台にある親類の羽里宅へ避難した。
私は腹の調子が悪かったのでそのまま二階で寝ていたが、しばらくすると浜へ潮を見にいっていた父(秀太郎)が「津波がきよるぞー」ととえて帰ってきた。急いで提灯に灯をつけて外に出てみたらすでに太股まで波がきていた。前の路地から北へと向かったが日の出橋はもう波が越してきており渡れない。仕方なく浜崎梅一さん宅の前から西の農協の方へ、東七間町の大梅商店の横を曲って西へ走った、海蔵寺の石段の下にはもう波がきとった。ようやく海蔵寺の上まであがることができた。新野の義母は途中ではぐれてしまって心配していたが、前のあわえの天野治之吉さん宅の二階へあがり助かった。祖母は川向かいの納屋で寝ていたがいち早く裏の正伝寺墓地へかけ上り助かった。納屋は観音寺川左岸川口沿いにあったので、二階の上まで波がきていた。大家族であったが、千代子の機転と素早い避難行動で一人の怪我人もなく無事で嬉しかった。
しかし家は浜の方から流れてきた家や漁船松根などにより、裏のあわえの家と共に両隣の今津栄吉さん宅、吉勝徳太郎さん宅と一緒に壊れてしまった。東会堂で二晩、羽里宅で二〜三日、農協前の親類「かめや」で家ができるまで一年半生活した。
(旧姓枡方、当時宮ノ本在住)
昭和二十一年十二月二十一日未明ふと目を覚ますと、電灯がぎっちらぎっちらと左右に大きく揺れて、家の柱がぎしぎしと揺れます。今までに体験した事がない無気味な地震です。しばらく揺れて止まりましたので、私は布団の上に座っていましたが眠いのでまた布団の中に入っていました。母と姉はこんな大きな地震は生まれて初めてだと言って、大事な物を持たなければと仏様等準備していましたら、間もなく父が浜へ行っていたのか、浜の方から大ぎな声で「津波だ津波だ」と叫んで、「早く海蔵寺へ逃げろ!」と言って帰って来ました。
私はびっくりして飛び起き履物を探しましたが、電気が消えて暗いので見つからず、裸足で何も持たず逃げました。近所の人たちも子供や家族の名前を呼び合いながら、高い方海蔵寺を目指して走りました。海蔵寺の石段は人でいっぱいで上れず、山をかけ上って行きました。その時は夢中で分からなかったのですが、落ち着くと裸足でしたので足が痛いのと寒さで困りましたが、潮にも浸からず無事逃げられました。母と姉は私より少し遅くなったので、家を出る時はもうつぶしまで潮が来ていたそうです。
夜が明けて来るとまたびっくりしました。海蔵寺から海を見ると、一文字防波堤の前には家が流されて、屋根がぽっかり浮いているのです。朝のうちは小さい余震が何度もありましたが、お昼近くになり少し落ち着いたので、家へ帰ろうと下りて来ましたが、町は船やらガラクタで家へ入れません。吉勝商店から川寄りの家は皆倒れていました。
吉勝の家は二階が町の真中に倒れ、道路をふさいで歩けません。隣の母屋は庇が飛ばされていました。私の家はどうにか建ってはいましたが、中はグチャグチャです。天井下一〇センチぐらいまで潮が来ていたので、布団もベチャベチャで出すこともできません。その晩、隣組の人たちは大市の二階が潮も来ず無事でしたので泊めてもらいました。
下町の人たちの内、お年寄や子供さんたちが逃げ遅れ、津波で流されてたくさん妙見さんに運んでぬくめたりしましたが、大勢の方が亡くなりました。
妙見さんの境内は棺桶でいっばいになりました。南海大地震は地震だけでは家は壊われなくて、人も死ななかったと思います。
津波で家も人も流され、水の来なかった所は家が潰れてなく、死亡した人もいなかったように思います。
私の家族は一〇日間ぐらい灘の平瀬さんの家で泊まらせてもらい、大変お世話になりました。毎日朝から晩までガラクタの整理や洗い物で、何にもかもドロドロでした。ガラクタを燃やす中へさつま芋を入れて焼き、隣近所の人たちと皆で食べました。
また、町内の方も後片付けに大勢出役してくれました。救済物資は軍服と乾パンぐらいだったと思います。
また、後日、家を流された人たちに、バラック建ての応急住宅が灘道と旭町に建ちました。
私はその時二十三歳、昭和二十一年八月ビルマより復員して来ていました。十二月二十一日午前四時二十分ごろであったと思います。母と妹二人弟一人の五人で父は仕事で留守でした。突然ゴーガタガタと物凄い音で目が覚めましたが、周囲は真暗で上下左右激しく動き、立っていることが出来ません。
大黒柱にしがみ付き揺れ止むのを待って、戸が開かないので突き破り、裏の川へ出ましたが誰もいませんでした。川の水も異状なく、隣のTさんが来て「大きな地震やったね」としばらく話をしたが人通りや呼び声もなく静かなので家の中へ戻りました。母はローソクを付けて位牌や貴重品を袋に入れ準備をしていました。
一番下の妹(十四歳)はいち早く玄関より叫びながら濡れることもなく逃げました。その時ゴウ・メリメリと真黒な大波が裏口より牙をむき出すような勢いで襲って来ました。母を二階へ上げ、妹(十八歳)は当時牟岐小養護教員のしっかり者で落付いていたが「早く二階へ上れ」と叫び、上がりかけた寸前、流木に頭を強く打たれたようでした。階段もふっ飛ばされ、妹は潮にのまれてしまいました。
後で近所の床下でみつかりました。その顔は大変美しかったと人々から聞かされ、せめてもの慰めでした。
最初の潮がもう庇まで来ていて夜光虫がギラギラと青白く輝き死者の霊のようでした。ぬるりと気持ちの悪い物を手でつかみゾーッとしましたが、それはするめでした。
ギシギシパリパリとこの世の物音でありません。家の門口へ積んであったクヌギが倒れ道を塞いで通ることが出来ません。私の家は潰され前の家へ倒れかかりました。濁水をかき分けながら弟(十一歳)の手を握り、首までつかって前の家の庇より屋根に押し上げました。
二回目の波は前より一層強く、体のどこかが流木で締め付けられ痛くて血が出ているようでした。
一瞬ビルマの白骨街道を連想しました。
ようやく隣の屋根に上り二階で夜明けを待ちましたが、急にゾクゾクしてきて戦時中のマラリヤの熱が出てきました。ビルマ戦線の思い出の数々の品物など全部流失してしまいました。隣近所の家々も全部壊れました。
浜筋に住んでいた子供とたまたま中村より泊りに来ていた姉と子供計四人が遭難しました。運命とはいえ残念でたまりません。
父が昔より言っていた津波の恐ろしさも南方ボケで守れず、ただ、後悔の念で一杯です。私以上のたくさんの犠牲者の方々もあり、ご冥福を心よりお祈りするばかりです。
戦争は話し合いで解決することもできるが、天災はどうすることもでぎない。結局はすぐ大声で叫びながら、消火して、高台へ逃げ出すことが一番であります。
あの日午前四時過ぎと思う、突然地震が揺ったのであまりの大きさにびっくりしました。五歳の女の子と一歳半になる男の子を直ぐ起こして服を着せて、早く逃げることにせなければと思って、位牌を風呂敷に包んで五歳の女の子に背負わせました。
下の男の子は急いで私が背負って、女の子の手をひいて家を出ました。
すると外はわいわいと人の大きな叫び声がしておりました。ある人が「もう東の方へは行けないぞ!土橋が落ちてしまって行けないから」と言って西を向いて走って行きます。人の行くようについて走って行っておりました所「海蔵寺へ行く!」と言う人の声に一生懸命に子供の手を引いて走りました。海蔵寺へあがって行く時にはもう石段の上り口には波がじゃぶじゃぶと来ておりました。石段の所で子供がおぶっていた位牌が落ちて、あっ大変だと思い急いで探していたら直ぐ見つかって拾い、人が後へ後へと石段を上って来る中を無我夢中で親子三人無事に海蔵寺へ上って、家の座敷へ座わらせてもらってやっと落ち着くことができました。他の人も落ち着きもう家のことは何も思いませんでした。
座って沖を見て一文字堤防の潮が少なくなってずーっと下に行ったかと思うと、また潮が高くいっばいになったりし、余震が何回も何回も揺っておりました。
時間が過ぎてから家にもどって見ると家は残っておりましたが、色々の流れ物で家の中は何と言ってよいやら驚きました。家の壁は自分の背の高さぐらいまで土が落ちておりました。二階がなかったから中の物は何ひとつ乾いた物がありませんでした。箪笥も水に浮いたのか横に倒れていました。家の中にはさつま芋やするめいかやら、漬物の漬けたばかりの樽等が壁の間にはさまっていっばいになり、便所と何もかも一緒になって何と言えばよいのやら、何からどう手をつけてよいのか毎日途方に暮れていました。
私の実家が関地区にあったので母親と兄が来てくれて濡物一切を運んでくれました。それから毎日着物の後片付けをしてくれたり、私は家に流れ込んでいるいろいろな物を外に放り出しては少
しずつ取り除けるより方法はありませんでした。毎日町役場からいただいたと思う炊出しのおむすびをいただいて、毎日毎日後片付けで何日かが過ぎました。それでも家が残っていたので壁の落ちた所を土で塗ってもらって、あちこちと直してもらい、どうにか嫌な臭いもしたが家に入ることができました。家があったおかげで本当に嬉しかったです。当分の間はただ自分たちのことばかり考えていたと思います。
あの当時、津波で流されたりして命を落とされた気の毒な人たちの事はいつまでたっても忘れることはありません。同級生の人もなくなりましたが、聞いてはいたけれども見送ってあげられず、本当にかわいそうでたまりませんでした。もう五十年を後にして詳しいことは覚えていませんが、まだ私たちは何にも無くても命があったため、今日まで生ぎられたことを嬉しく思っております。もう私たちの代にはあるまいと思うけれど、後々の人々のために言い伝えておいてあげたいと思います。
私は当時十六歳、日和佐の海部中学校(現日和佐高校)へ始発列車で通学していた。その日は二学期の終業式だった。家族は父母、妹二人で父はするめ釣りの漁から帰っていた。私はいつも午前四時半に起きていたので、もう目が覚めていた。
突然大きな地震が揺れ出した。まだ火は使っていなかったので、父は直ぐに入口の戸を開けた。皆が大黒柱につかまって収まるのを待ったが、随分長い間揺れたように思った。父は「すぐに津波が来るぞー、家が流されてしまう、着物を着れるだけ着て、海蔵寺へ逃げよう」と言った。
地震が収まるのを待って、皆着れるだけの服を着た。私は位牌と掛蒲団一枚を持って先に飛び出した。海蔵寺へは近道がよいと思い、北側の観音寺川の方へ向かった。しかし、十メートルぐらい行った川のそばの道路にはもう津波の第一波が来ており、すぐに膝までつかってしまった。慌てて家に引き返したら家の前にはまだ波が来ていない。父に「川の方へ逃げる阿呆があるかー」と叱られた。妹二人を父母が一人ずつ背負い、父はお金と米の入った一斗缶を持って皆が南側の広い道路へ出た。近所の人は既に皆避難して誰もいなかった。
父を先頭に親子五人真暗な町筋を西へ走った。農協の辻を北へ東七間町を進み、すぐ大梅酒店の横を左折又西へ七間町に出て、海蔵寺へ向かって走り続けた。途中いつ頭の上から津波が襲いかかって来るのかと心配しながら、ようやく海蔵寺の石段下までたどり着いた。津波はまだここまで来ていない。しかし石段は避難して来た人でいっぱいで身動きでぎない。父は持って来た一斗缶を中野さん宅の屋根にのせ、私も掛蒲団を道路脇に投げ捨てた。
手摺のなかった石段を父が先頭で縦に手をつないで必死に上った。ようやく海蔵寺まで上ったころに下で、「波が来たぞー」という声が聞えてきた。
焚火にあたりながら夜明けが待ちどおしくまた怖かった。東の空が明るくなってきた。下を見おろすと私の家の方はみんな流れずに屋根が見えてほっとした。しかし川より北側の坊小路はほとんど流れ、観音寺も流れてしまった。特によく遊びに行った井元
さんの家が流れてしまい、何も残っていなかったのは気の毒だった。
波も収まって夜も明け、父と家に帰ってみたら床上一メートルぐらいまで波に浸って何もかもめちゃめちゃ、入口には大きな木臼がどんと座りごみの山で、その中に浜筋の川辺高蔵さんの表札が流れて来ていたのに驚いた。秋にとった芋壼の中のさつま芋も全部流れてしまい畳の上には米の一斗缶が倒れて空っぽになっていた。父が持って逃げた一斗缶はとうきび粉だった。私は位牌を風呂敷で背負って逃げたが、慌ててすっぽ抜かして中には何も無かった。家に帰ってみると畳の上に位牌がのっていた。背負った際に落ちたのが畳の上で浮き上って、流れずにそのまま残っていた。慌てた時はうろたえて失敗ばかりだった。
一週間ぐらい同倫の生田さん宅の一部屋を借りて仮住い、父母は家の後片づけをした。その後長い間二階で生活し不自由な生活だったが、家や家財を流されてしまった人が多かったので辛抱できた。
そして何よりも怪我人がなく嬉しかった。
私たちは南海地震より前の戦時中、昭和十九年十二月七日の東南海地震、二十年一月十三日の三河地震の際にも潮が狂って、灘へ避難して福井さん宅へ泊めてもらった。父は釜石や宮古で三陸大津波の話を聞いて、常から津波の時の避難の道順を決めていたようだった。私も百年目にくる津波の話は中学校の地理の授業で習っていたが、いざ地震津波に遭遇したとき、うろたえてしまって逃げ道に失敗した。もし父が戦争から帰っていなかったら、私たち母子だけではどうなっていたか思い出してもゾーッとした。
津波の第一波に膝まで浸って父に叱られたことを思い出し、常日ごろから避難場所と道順について家族で話し合って、充分頭に入れておくことが必要と痛感している。
また五十年たった今、建築方式や生活様式も変った。しかも家の中は当時と違って、蛍光灯、ガラス戸、食器棚、書棚、テレビ、洋服タンスなど危険物でいっぱい、地震で倒れたり壊れたりする対策も考え、又プロパンガス、電気器具、石油ストーブなどの地震による火災の対策も考えなくてはならない。
漁港に係留してある漁船はFRP船になり、大型化し船数も何倍にも増加している。
避難路、避難場所についても、昔かけ上った崖は殆どコンクリートよう壁に変っている。どこへ避難するか常に考えておかねばならない。
津波十訓をよく読み、あらゆる対策をきめこまかくたてて、自分の身は自分で守る—鉄則を常に頭の中にいれておき、非常時に対処できるように備えておくべきである。
(旧姓島当時宮ノ本在住)
高度情報化社会を迎え、地球の出来事が即時に分かる現代でも、地震の予知はむつかしいようで、地球のあちこちで地震による被害が起きている。今でも井戸水の観測をしたり、ナマズを飼って調べている人もいるらしい。
郷里徳島県で、私は昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分、南海道大地震を体験した。文久三年生まれの祖父が、昭和二十年七月、終戦を待たずに八十三歳で他界するまで、家族によく話していたのは、「百年目の大潮(地震による津波のこと)が必ず来る。地震が起きたらまず戸を開けて、地震がおさまれば津波が来るからすぐに高台に逃げるように、百年目も大分近づいているので、お前たちは必ず遭うから」と言っていた。
第二次世界大戦も末期のころ、小学生の私たちは空襲警報のサイレンが鳴ると自宅に帰り、途中で爆音が聞えると近くの民家の防空壕に飛び込んでいた。空襲の怖さと共に今で言うなら、震度三や四程度の地震がたびたびあり、教室の机の下に潜り込んでいたのを覚えている。終戦の翌年、昭和二十一年食糧は不足していたがようやく平穏な日々が続くようになっていた。
暮の十二月二十一日、とても寒い晩だった。母から言いつかり、近くの家まで用足しに出かけた。田舎の夜道は暗く、舗装もしていない道路にポツンポツンと立っている裸電球の街灯、人通りはほとんどない。自分の履いている下駄の音だけが大きく響いた。その夜は、冬にしては珍しく無風状態で、町通りには磯の匂いというか、海藻の匂いが一面に漂っていた。海辺の町とはいえ海岸からの距離を考えるとなにか不自然で、また犬の遠吠えと鶏の夜鳴きでとても不気味な夜だった。湯たんぽを入れた夜具の上に、綿入れの半天を掛けて寝た。朝方枕の下からゴーという地鳴りで目が覚めた。下から突き上げてくるような地震に母は雨戸を開けに走った。私と弟は父にしがみつき地震のおさまるのを待った。父は大声で、「世直し、世直し」と唱えていた。とても長い長い時間に思えたが、ようやく横揺れの感じになったと思っていたころ、暗闇に目が馴れてわずかな月明かりで見える部屋の畳が大きく左右に動いているのが分かった。雨戸を開けに行った母は、
道路の小石がパチパチと跳ねあがり、ちょうどフライパンで豆を妙っているような光景に、軒下で足がすくんでしまったそうだ。
地震がおさまると同時に祖父の言い伝えどおり、私たちは衣類を何枚も重ね着をして、わずかな身の廻り品を持ち、山寺(海蔵寺)へと一目散に逃げた。
東の空が明るんだころ、眼下に見た光景は、地震津波による被害で、多数の人命をのみ一変した町並みだった。
この体験から地震の前夜、町に漂っていた磯辺の匂いは、地震の前兆現象ではなかったかと今でも思うのである。縁あって郷里と同じような海辺(神奈川県三崎)に住み、今もひそかに磯の匂いを気にしている。なお祖父の言った百年目の大潮の計算からすると九十二年目であった。私の家は、幸い床下浸水で済んだが、夫の家(東の町今津家)は、観音寺川の川口に近く、その時流失した。
(当時宮田在住)
私たち兄弟二人は、そのころ、若い衆宿の中の町の角田佐喜太郎さん宅の二階で泊まっていました。
昭和二十一年十二月二十一日の早朝、大きな地震が起こり、すごく揺れました。
恐ろしくて頭から布団をかぶっていました。浅海のやっさんが浜へ潮を見に行き、まもなく「津波だ!」とどなって帰って来ました。私たちもすぐ近所の自宅へ帰りました。
お爺さんより津波の時に持って逃げるように教えられていたとおり、停電しているのでローソクをつけ、位牌、宝物、そして米を持って海蔵寺へ逃げました。石段の下で小柴雅彦さんが提灯を持って立っており、気をつけて石段を上るようにと指揮をしてくれたので助かりました。しかし石段は大勢の人でなかなか上へあがれず、私たちは腰までつかってしまいました。でも無事けがもせず、海蔵寺まで上ることができました。
夜が明けてから家に帰ってみましたが私の家は浸っておらず、ホッとしました。
しかし私たちの家から百メートルも離れていないのに角田さん宅は床上まで浸り相当傷んでいました、角田さん宅の横のあわえの入口に、東の町のおばあさんが流され、なくなっていて気の毒でした。
津波の時は早く逃げることと、非常持出しは、いつも準備しておくことが肝心です。
平成五年四月、帰省の折沼島スエコさん宅で兄弟三人に当時の話を聞かせてもらいました
(光二さんは平成八年十月十四日なくなられた。)
(当時宮田在住)
私は南海地震の日もスルメ釣に出漁していました。その晩はあまり漁がなく、大里の松原前の沖で寝ていると、舟がチャブチャブと揺れました。大きな地震だと気がつき目が覚めましたが、危険だと思い朝まで帰港もせず沖で待機していました。夜明けごろ、東の空が真赤になりました。
浅川沖まで帰ってみると、流木やゴミで海面が一杯になっていて進むことができず、ゴーヘイ・ストップの繰り返しでようやく牟岐港に帰りました。
私の家や家族はみんな無事でしたが、嘉蔵さんが浜川のおじさんと出漁していたのに、まだ帰っておらず、二人を捜しに沖へ出ましたが二人とも無事と聞き安心して再び帰港しました。
津波のとき、出漁していた場合は、慌てず沖合で待機している方が危険性が少ないことが分かりました。
当時父は九州の五島列島の手繰網船に出稼ぎに行ぎ留守で、家には私たち兄弟三人と祖母の四人で、私は西隣の粉川さんのいか打ち漁にいっていたが、その晩は漁が休みで家で寝ていた。また家の前には低い土手があり、松の木があった。
大きな地震のあと弟の長治と二人で、津波がくるかもわからんぞーと、中突堤の西側の舟曵場まで潮を見にいったが、別に何の異状もなくそのまま家に帰った。しかし心配でいつでも避難できるように着がえていると、浜の方で「津波や!」と誰かがとえよった。
それで弟二人はすぐに布団をもって、先に七軒町から海蔵寺へ逃げさせたので、足も濡らさずに逃げることができた。私は位牌と貯金通帳を持って外に出たが、ばあさんが現金七三円持つのを忘れたというて暗がりの中で探していたので、待っている内に波がきて、あっという間に膝の上までつかってしもた。
もう東側の七間町の方へは行けんので、西側のあわえを北へ向かって逃げたが、北へ二軒目の油津のさだやん宅の前で材木が流れてきて動けんようになった。貯金通帳など持っていた物をみんな流してしまうて困ったが、しばらくすると潮が引いていった。
そのすきに海蔵寺へ逃げた。私たちは家族みんな怪我もなかった。
夜が明けて津波の心配もなくなり家へ帰ってみると、床上四十六センチまで波に浸って中はめちゃめちゃ、そして家は東側へ傾いていた。今でも障子の上側は柱との間が五センチ空いている。
大黒柱には今でも津波の跡や、コールタールの跡がはっきりと残っている。父が留守のため家の下の浜にのぼしてあった船は、川長の新光渕の所まで流されていた。
南海地震当時、私の家は十人の大家族だった。大地震が揺っている間はみんな家の中にいた。地震が揺り終わってから、大久保マサ子さん宅の街角あたりで、誰かが「津波がくるぞ!」と、とえてくれた。避難場所は海蔵寺の方が近かったので、みんなで海蔵寺へと逃げた。早かったので全然足も濡れずに逃げることが出来た。海蔵寺へあがってから、古いお婆さんが二階へあがっていたのを忘れ、残して来たのに気付き、私がすぐに引返した。七間町では足が濡れる程度だったが、祖母を背負って引返したときは、膝までつかった。
海蔵寺が避難者で一杯だったので、お婆さんたちは金比羅さんまで登った。
避難する時、玄関に落していった布団が庭で濡れていた。
裏の方は、あわえから潮が来て床下まで浸水していた。
当時、浜には網納屋は少なく、古い加工場(いり納屋)が多かった。
(平成七年九月 大平勇氏と聞きとり平成八年三月なくなられた。)
昭和二十一年十二月二十日叔父の婚礼も無事に終わり、帰宅する親類の引出物に魚を買いに町へ行こうとしたら、祖父が「すまんが提灯を牟岐小学校前の杉口傘店に頼んであるので、ついでにもらって来てくれへんか」と言うので二つ返事で出かけた。この提灯が後でどんなに役立ったことか。
魚を頼んである東の西町の川島家へ行った。おばが提灯を見て「新しい提灯やなえ、ローソクを入れといた方がええぜ、縁起のもんや」この頃は物が不足でローソクは貴重な物であった。
川島家には八十歳に近い栄吉じいさんがいて、魚を待つ間「安政の地震」について話を始めた。話がはずみ夜の更けるのも忘れて皆が聞いた。とうとうその夜はてんぐり漁が遅かったので泊めてもらった。
床に入ると深い眠りについた。どの位眠っただろうか、唐紙がガタガタ梁がギッチギッチ夢うつつ、隣に寝ていた栄吉じいさんが「地震じゃ、早よう起きい!」と家の者を起こす大きな声がしたので皆飛び起きた。立っていられない。凄い揺れが数分続いてやっと収まった。電灯が消えて真っ暗がり「そうだ提灯がある」ローソクに火をつけた。この明かりで無事を確かめる。「凄い地震やったね」声が震えている。雨戸を開けようとしたが開かない。やっとのことで外に出る。隣の小倉さんも出て来て「大きな地震やったなえ、家の壁が落ちてしもたんじょ」「だあ、うちのも……」こんな会話を交わしながら家の中に入った。両家の人々はその時津波のことをすっかり忘れていた。自分も家に入ろうとしたが、何だか気になったので八幡神社の方へ行こうとした時、浜の方から「潮が狂ったぞー」とけたたましい声がしてきた。直ぐに引き返し皆に告げる。その時の慌てようは大変なものだった。自分の持ち出しは布団、腋に抱え八幡神社の石段迄来た時ドッドー、ドッドーと凄じい潮の唸り「潮に呑まれる」必死で石段を上がりつめた。下を見るゆとりもない。神社の山を登って木村さんの家の裏に辿り着いた時、福松の菓子屋の下辺りから「助けて!助けて!」とふりしぼる声がガラガラドッーと潮に呑まれたのか消えていった。人間の力ではどうすることもできない。
波に乗った船らしい影が、大川橋の上を物凄い速さで上流へと押し流されて行ったのが見えた。あれは確か小学五年生の国語の授業の時だ。『潮のおし寄せて来るがごとき大軍』「この意味はなあ、津波がおし寄せる様子をたとえて言った言葉じゃ」と先生が解説されていたのを思い出した。この目で見た津波の怖さで体の震えが止まらない。
神社に駆け上る途中大勢の人が境内や裏山に避難していた。神社で打ち鳴らす太鼓の音が夜明けの空にひときわ高く、また低く響ぎ渡っていった。助かったんや、川島家の人々は皆無事だったのだろうか?その時私を捜す叔父の声が聞こえて来た。急いで下りと行くと「捜していたんじゃ、おったんか、無事でよかったなあ」皆して手を取り合って喜んだ。すっかり夜も明けた。炊き出しの握り飯を手にした時は感謝で胸がつまりそうだった。川島家の人々は皆無事、栄吉じいさんは避難の途中網が流れて来て足に絡み、神社前の井戸枠にすがり助かったそうだ。
家が心配になった。東の町を後に天神前を通って川長の山伝いにシンコ渕まで来た。(現在の中学校の上の畑から山伝い)鮮魚船が田圃に流されて来てその辺りには魚がいっぱい浮いていた。
川又の河内小学校前迄来て、皆に「津波で町の家が流されたり、壊れたりで大変だった」と話したが、半信半疑で信じてもらえない。家に着いた。石垣が崩れていたが家はどうもなかった。
客に来ていた川西村の叔母が浅川に泊っているとのことで、安否を気遣い訪ねて行ったが無事だった。浅川村の国道は寸断され、田圃には大小の船や家屋の流失物でいっぱい、傷跡があまりにも大ぎいのでびっくりした。
牟岐に帰って直ぐ青年団の奉仕に参加、同倫の丸岡敏明氏のメンバーに加わり行方不明の人を捜したり、牟岐小学校の校舎の一部を取り片付けたり数日続いた。小学校で学んだ『稲むらの火』を思い出し、海辺の町では『地震と津波は一つ』であることを再確認した。
(東の西川島栄吉宅(現新次宅)は床上浸水約一メートル位だった)
七十八年生きてきた中で、一番悲しい思い出が今年もやってこようとしている。思い出したくないが、今もなくした子は、当時の年齢で私の胸に生きている。
少ない食物を分け合いながら、三人の子供と賑やかな一時を過し、小さな幸せをかみしめていた。十時間もたたぬ後に、一家が地獄の思いをするとは、誰も予想することはなかった。
ゆさゆさ揺れるのに目をさました。そんなに強いとは思わなかった。何回か繰り返して揺れる。前の○京さんや、近所の人たちとの話し声につられて道路に出てみた。まもなく裏の牟岐港の潮が持ち上がって道路まで来ている。「これは津波かもしれん、逃げよう!」とお父さんが言った。私は末っ子の政美(一歳)を寝まきの上に、左肩から右わきにかけ、黒帯を広げて背負った。
お父さんは清美(五歳)と広美(三歳)の二人の手を引いて、何も手にせず逃げだした。腰まで来る潮に驚き、○京さん一家と牟岐川に沿うよう一団となって居村さんの方向に逃げた。当時牟岐川には堤防はなかった。津波は胸まで船と共に何回となくやってきた。そのたびに電柱にしがみついたり、家の中に逃げこみながら、背の子をしっかり押えながら、死にもの狂いになって、平野ポンプ店(今の県南ギフト)まで来た。お父さんとははぐれてしまった。
幅三メートル、長さ四メートルの簡単な手すりのある橋を渡ろうとした時、左側からきた波に、手すりと杉口さん(今の田村洋装店)の間から用水に流された。
あっという間の出来事だった。近くの製材所から流れこんだ材木に必死になってしがみついたが、次々に流れてくる材木との間に寝巻をはさまれ、身動きでぎなかった。「妙ちゃん助けて!」「姉さん早よう助けて!」と夢中に叫んだ。一緒に逃げた妙ちゃんが材木を動かしてくれ、やっとの思いではい上がった時、背の子がいない。「政美!、政美!」と叫ぶが見当たらない。放心した私を誰かが体を抱きかかえるようにして、杉王神社に連れて行ってくれた。
ズブ濡れになった寝巻姿に黒帯が肩からぶら下がっている自分を意識するには、どれだけの時間がかかったか分からない。
境内には、命からがら逃げて来た人、ふとんや身の回り品を持った人などでごったがえしていた。恐ろしかった悪夢の一時を口々にしゃべる声が聞えるにつれて、十二月の明け方の寒さが身にしみてくる。「おばさん寒いやろ、布団の中にはいり」と言ってくれた。「私はズブ濡れやけん、汚すけん」「かんまん、汚れたら洗ったらええけん」私は寒さに耐えられず、ご好意に甘えた。
杉寺正久さんのこのご好意は、その時の私にとってどれほど嬉しかったことか、今も杉寺さんに感謝している。
ようやく明るさが増し、津波の心配もなくなり、三々五々と家に帰える人たちも目だった。津波の中をくぐりながら一キロメートル余りを逃げて来て、体力を使い果たしたというより、政美をなくしたことが、時間が経つにつれて重くのしかかり、気も狂わんばかりであった。ただ涙が出るばかりで呆然としていた。
誰が背負ってくれたか、お父さんの里である関の坂本宅まで連れていってくれた。そこにはお父さんと二人の娘が、心配そうに待っていた。「政美は?」私は答えることもなく、泣くばかりであった。もしお父さんとはぐれなかったら、逃げるコースを違えていたら。悔んでも悔み切れない。
何日か経って我が家に帰ってみたら、港の船が何の抵抗もなく、一階に居座り、二階が下に落ちていた。家財道具は流失し、最愛の子を失ったあの日のことが、今も鮮明に思い出される。地震と津波の恐ろしさを少しでも知っていたら、あんなつらい思いはしなかっただろう。
後で分かったことだが、お父さんと娘二人は、家をでてから途中で居村さん宅に避け、更に杉口利次さん宅の二階に避難しながら、関の坂本宅まで逃げたという。
二十一日の未明、突然大きな地震が起こった。横揺れで家が大きく揺れだした。立っておれない。何回となく断続的に揺れる。
港の方を見ると、潮が急に引き出している。どこからともなく、「津波が来るぞ!」の声が聞えてくる。また大きく家が揺れだしたので、まず子供たちを前の原っぱに避難させ、家に戻り布団等を二階に持ち上げて下りようとしたが、揺れがひどく段梯子がはずれそうになった。かろうじて階下に下り、戸締りを厳重にして、家内が下の子を背負う、私は気がせいていたのか足袋はだしで、二人の子供を連れて走りだした。
新町辺りに来るともう小学校の校庭には、第一波の津波が来ている。まだ道路までは来ていない。必死に走り、床崎理髪店のあわえを上の町に出る。このため水には濡れずに杉王さんにたどり着くことができた。ふと気がつくと、二人の子供がいない。あわてふためいて捜すうちに、運よく子供たちも杉王さんに着いており、一安心し、ほっとする。
津波の第二波、第三波はしらないが、東の安土のおじさんが、中之島の水門の所で津波に呑まれ遭難された。また石川のお婆さんが物を取りに帰り、途中逃げ遅れて横尾の隣りの家へ、木材と一緒に巻込まれ遭難した。さくらやのおばさんも、子供を背負って逃げる途中に、子供が背中からずり落ち死なせた等、数々の死傷者が出たことは、当時の惨状を物語るものである。
夜明けを待ちかねて家に帰ってみると、店は壊されている。家は入口の柱二本が折れていた。その上、川に堤防がない時だから、漁船が打ちあがって店の前にがっぷり斜めに塞いで、入るところがない。両方の壁は打ち抜かれ、商品は半ば流失し、無惨な状況でした。
今にして思えば、津波は二波、三波と来る。津波に巻きこまれると歩けなくなり、引潮に呑まれることがある。津波は地震直後に来るから、家財等に執着せずに、早く安全な場所に逃れること、また近所の人々に津波が来るぞ!と大声で知らせること、等が必要と思います。今後、天災、地変はいつ来るとも知れない。
私の体験を書き、まさかの役にたてばと思うしだいです。
その日は、学期末テストのある日で、日ごろの不勉強のため、ツケ焼刃の単語の綴りを早朝の布団の中で目を通していた。その時グラグラとやって来たのです。電気はすぐ消えて真暗闇になりました。立ち上がりかけたけれど、身の危険を感じて布団の中にもぐり込みました。
四人家族は全員二階で寝ていました。父は大揺れの中階下へよろめきながら降りていき、玄関の戸を開けたそうです。父は若いころ、関東大震災に遭っているのですぐ戸を開けないと……と思ったそうです。私は揺れがおさまってから外へ出ました。体験したことのない大きい地震で、近所の家々からも興奮気味の人々が飛び出して来て、互いの無事を確認し合ったり、地震の様子を話合ったりした後、師走の早朝の冷気に耐え難く、またそれぞれ家へ入りました。
それからどのくらい経った時でしょうか。どこからか、「津波」と言う声が聞えました。「まさか」と思う間もなく父が、「様子をみてくる」と飛び出して行きました。二、三分ぐらいして、いや一分ぐらいかも……。父が引返して来て、「どうも津波がくるらしい」と言いました。その時、「津波が来るぞ!」「津波やあ」と言う声が聞えてきました。
私たち家族四人は、その声に追われるように、何も持たず着のみ着のまま逃げ出しました。現在のようにサイレンも鳴りません。放送設備もない時代でした。体験したことは無いけれど、津波が来るという恐怖心は大いに感じました。
その時、小学校の国語で習った「稲村の火」の津波の物語を思い出していました。既に中の島から本町へ向かう通りは、逃げる人々が大勢走っています。そのころ小学校の東側には、港から通じている川が、平岡食堂と消防屯所との間にありました。現在は暗渠になって駐車場になっていますが、当時は田圃に通じる水路でした。逃げる際に、その橋を渡りなが横目で川を、ちらっと見た途端、「ゾォー」として足がすくみそうになったことを、今も鮮明に覚えています。
広重の絵でみる波の形、そのままの波が二重、三重にも、いや幾重にも重なってすごい勢で押寄せてきているのです。私の目には、不確かも分かりませんが、路より下三十センチメートルぐらいのあたりまで、波は来ていたようにみえました。もう今にも波に追いつかれて、おいかぶさってくるような恐怖で必死で走りました。後で思ったのですが、広重は波の形もよく観察していると感心しました。幸い私たちは波に襲われることもなく、杉王神社へたどりつくことができました。
境内は人々であふれていました。未だ視界は暗く夜明前で、人々の顔も定かに分かりませんでした。どのくらい呆然としていたのか覚えていませんが、やがて夜が明けほの明るくなってきたころ、友達の本庄スミ子さんに会いました。彼女は全身濡れていました。彼女の話によると、「津波」がくるのが分かってから家の中の芋つぼに落ち、やっと這い上がってさあ逃げようとした時には、既に入口から潮が入って来たそうです。でも未だ大丈夫だろうと、外へ出て五十メートルも行かないうちに水位はドンドン増して背丈ほどにもなり、流木やその他の大きいゴミや、家財に押し流されて、流木の上にかき上がりたくても、身体の自由をうばわれ、もう駄目か…と思った時に、見知らぬ人が引っばり上げてくれて、民家の二階に助けてもらい、九死に一生を得た……と言うのです。震えながら話す彼女を言葉もなく、ただ黙って見つめていたような記憶しかありません。やがて境内のどこかで焚火がたかれ、廻りを囲んで暖を取っていました。
どのくらい杉王神社にいたのか覚えていませんが、父が先に家を見に帰り、もう津波の心配もなくなったころ、私も帰ることにしました。
上村の米屋さんのあたりまで来た時に、呆然としました。あの道幅一杯に材木・電柱・テンマ舟や、その他の家財道具等が積み重なっていて、まともに歩くことなどできませんでした。それ等の障害物をまたぎ、乗り越え、やっとの思いで家にたどり着くと、玄関の戸は既にもぎ取られ、家の裏まで見通しよく、座敷の真中には、たくさんの薪が我が物顔に座っています。まだ大半の家庭は、マキや炭火を使う時代でした。私の家の前は、広い空地で阪神方面に積み出すためのマキが、山から伐り出されて出荷待ちの状態で、いつも山のように積まれていたのです。我が家の位置は、現在の横尾建築事務所の所でした。押入れの襖や、壁には潮位の跡がくっきりとついていました。はっきりとは忘れましたが、床上七〇〜八〇センチメートルぐらいだったでしょうか、潮水につかった家財や、部屋の跡片付け、また流失物を探がす作業はたいへんでした。しかし現在ならもっとたいへんだろうと思います。なぜなら家財道具があの時代の比ではないからです。
昭和二十一年十二月二十一日未明、寝床ごと激しく揺り動かされ飛び起きた。とっさに、「地震や、皆起きよ!」と叫んだが、激しい震動で立っていられず思わず膝をついてしまった。
襖がバタンバタンと倒れ、ドシン、ガチャンと落下して壊れる物音が聞こえてぎた。
「家の中にいたら危い。早う外へ出よう」と家族に呼びかけながら普段着に着替え始めた。
激震がおさまって、しばらくすると、遠くの方から「津波や、津波が来るぞ!」という叫び声が聞こえてきた。
まず、年少の弟二人(当時十二歳と八歳)に、「本町通りから久保田商店の露地を通って、杉王神社へ行け」と指示し避難を促した。
母は生後一歳七か月の妹を、助け帯を締める間もなく負いごのまま背負い、父、姉、私と五人で旧大川製材(現横尾長治氏宅付近)の工場の中を通って、田圃路(現海部病院及び付近一帯)を経て杉王神社境内へ避難しようとした。
ところが、製材所の機械室の中は早くも潮がヒタヒタと流れ込んできた。とっさに身の危険を感じ、牟岐川沿いの道路めざして駆け上がった。
先頭の私が、現在の松岡章氏宅から北へ約十メートルほどの所で後ろを振り返ると、製材所の木材集積場の前辺りで、父たち四人が水かさの増した潮に巻かれようとしているではないか。急いでとって返し、「早う逃げんと皆が流れてしまうよ」と叫ぶと、父は「わしはかまわんからお前等だけ早う逃げえ!」と、いくら促しても動こうとしない。潮は見る見るうちに膝から腰へと上ってきた。しかも数本の木材が流れてきて身体に絡みつこうとする。遂に水かさは腰から胸元近くに達し、水勢に押し流され始めたので、家族四人(母の背中には幼児)互に肩を強く抱き合いながら、もうこれまでと観念した。
「皆で一緒に死なう。最後に神様にお祈りしよう」と私が悲痛な思いで呼びかけたところ、姉が「死んだらいかん、死んだらいかん!」と絶叫した。いよいよ勢の増す潮に押し流されてしまうのかと覚悟していたところ、なんと胸元近かった潮が、すーっと引き始めたではないか。運よく引潮時となったのだ。
「ああ助かった」と私共家族は、満身蘇生の喜びに溢れつつも疲労困ぱいして、とぼとぼと杉王神社目指して避難していった。
逸早く避難していた二人の弟も駆寄ってきた。
杉王神社境内への避難者たちには、町当局のご配慮か、近所の有志の方々のご厚意であったか、握り飯が配られ、一時空腹をしのぐことができた。
被災当日は厳寒の時期なのに、被災のショックで寒さは余り感じなかったのに、あの時のお握りのおもてなしは、今もなお、温い思い出となって心に残っている。
もう津波は大丈夫だという情報が流れ、避難の人たちはほとんど自分の家へ帰って行った。
我が家は西側へ約十五度傾斜し、畳、建具、家財一切は流失し、代わりに約二十畳の広間には、雑多な流材が大人の背丈ほども積重なっていた。
家の東側には、出漁していた漁船が津波に押し流されて横付けになっており、漁師ご夫妻が、浸水を免れた押入れの上段で布団にくるまって暖を取っていた。
北東側の三坪の炊事場は、えぐり取られたような痕跡をとどめて流失していた。恐らく東隣の空地(現丸徳水産駐車場)が電柱置場だったので流失した電柱が当たったのだろう。
津波の潮位は、自宅の場合柱のシミや、壁土の損傷等から床上約七十センチメートルと推測している。
被災の事後処理については、町の有志の方々や信徒のご厚情によって、短期間に取片付けて戴き、整理整頓させてもらったことは、感謝に耐えない。家屋の傾斜、破損か所、屋根瓦、壁、畳等は、建築専門の方々に依頼し、翌二十二年内に滞りなく修復させてもらった。
津波に関わる反省として、避難の際、弟等と同じ避難経路が一番安全ではあったが、避難者が集中し混雑していたので、道路面より低いと知りつ、最短距離と考えて上述のコースをとったのだ。
だがそのまま強行していたら、田圃は湖のようになり、家屋や大量の流失物に巻きこまれ、私共は揃って溺死していたのかも知れなかった。
現在、津波被災後の対策として、防潮堤や堤防等が構築されたから、今後はあの程度の津波では、中の島住民地区に限っては、当時と比べ、人的、物的被害は大幅に軽減されるのではないかと思う。万一逃げ遅れるようなことがあっても、あわてずに行動したら命を失うようなことはあるまい。
天災に対して、人間の力では万全を期し難いかも知れないが、常日ごろから不時の天災に備えて、物心両面の準備と、災害時における沈着冷静と、安全を守るための瞬時かつ適切な決断ができるように心掛けよと、震災と津波は厳しく私に教えてくれたのである。
グラッときた。これは大きい。もう止むか止むかと思っても、次第に大きくなるばかり、二階の窓を開けて、テスリにしがみついた。振り離されないかと思うほど強かった。
揺れが止んだので急いで庭に降りた。今まで暗かった周りが一瞬明るくなった。地面がはっきり見え、庭の植樹が浮んで見えた。不思議な現象が不気味に感じた時、「揺れ戻しが来るけん気をつけ」と母の声がした。「津波が来るから気をつけ」とは言わなかった。
どれほど経ったか、道の方で人の声が聞え出した。その時足元が潮につかったと思った時、「津波や!」と近藤辰次さんがどなった。私は、「早よう位牌を持って!」と母にいい、食塩が潮につからないように始末している間に、家族は離れの二階に上がっていた。遅れて二階に上がったとたん、ザア、ザアという音に雨かと一瞬思い、戸締りをしようとしたとたん、ドスンという音と共に体に大きな衝撃を感じた。漁船が一階に突っこんで来たのだ。母屋と離れの二階を結んでいる台所のベランダに飛び移るなり、一階はもぎ取られるように船と共にどこかに流失してしまった。一階をなくした離れの二階の屋根がベランダと同じ高さになり、早く屋根に上がれといわんばかりに、二階の屋根が腰の高さに位置している。同居していた今津夫婦と生後六か月の泰人、母と私の五人は、急いで屋根にはい上がった。
真暗闇、どれほど経っただろうか。そう遠くない距離に漁火のようなものが点々と動いている。自分の家からは、そんなものは見えたことがなかったのに、それが道行く人のちょうちんの明りであることに気がついた時、今自分のいる位置が以前と全然違っているのに気がついた。家から直線距離にして約百五十メートル離れた、今の県立海部病院付近に来ていた。当時は水田で周囲よりやや低くなった中に浮いていた。近藤辰次さんが筏のようなものを組んで助けに来てくれた。
津波の去った牟岐川を見て、五人共助かった実感が湧いてきた。長い旅をした跡の疲れのようなものを一ぺんに感じた。母屋の二階だけがポツンと残って、離れとそれをつなぐ台所と納屋の地盤石だけが残っていた。母屋の一階には、近く阪神方面に積み出される予定の薪と船がもぐり込み、中味が入れ替っていた。私たちの乗っていた家の天井には、畳の上に置いてあった火鉢と、お琴がひっつくように押し上げられ、唯一の財産となった。母屋の二階に残っていたおじいさんとおばあさんは、離れの二階があったおかげで助かった。おじいさんはなくなっている離れの二階にびっくり、流されて死んだと思い、「タカよ!、タカよ!」と何回も呼んだそうだ。母に持たせてあったはずの先祖の位牌が、離れの地盤の水溜りに浮んでいた。乗れといわんばかりに屋根が目の前にあったこと、位牌が我が家から離れなかったことを思うと、先祖のおかげで助かったんやなあと思い、先祖は大切にしなければいけないと、つくづく感じさせられた。
当時は、私の家の周りに家はなく、堤防のない牟岐川のほとりにあって、川口から離れていたにも関わらず、被害が大きかったのは、当時の津波に無防備であった。もし今の状態で同じ程度の津波が来たとしても、家は浸水の程度で済んだだろう。貴重な命拾いした経験が、当時二十一歳であった私の人生に教訓として大きく生きている。
当時私は現在の磯釣組合の北隣にあった海部製氷組合に勤務していた。前日からの勤務も当日の午前四時ごろ最後の抜氷作業を終え、控室で仮眠に入りウトウトしていた。四時二十分ごろ突然海の方からゴウーと言う音と同時に、製氷の建物がギシギシと激しく揺れ出し電灯も消えた。地震だ!宿直員三人が同時に南側出口まで逃げたが激しい揺れで立っていれない。建物の柱につかまって揺れの止むのを待つ。一分か二分か随分長いように思えたが分からない。やっと振動が止んだので屋内へ入ったが、今度はシュシューと不気味な音と共に異臭で息ができない。今の地震で配管の接手がゆるみアンモニアガスが噴き出している。早速ローソクの灯でボルトを締めにかかる。作業をしながら私はどうも外の様子が気になって仕方がない。普段の波音と違う何か異様な気配に玄関まで出て海の方を見てあっと驚いた。今しも一隻の漁舟が電灯をつけて既に前の岸壁よりも高い波に乗って矢のような速さで入って来るのが見える。気がつくともう足元までザブザブと波が洗っている。津波の第一波が早くも来たのだ。「津波が来たぞ、逃げろ」と同僚に知らして三人で玄関から出ようとしたが、もう既に波がザアザア打込んでいる。
前方を見ると、砕氷塔の下では大敷網の引き船が電灯をいくつもつけて、ゴウゴウーと押し込んで来る津波に逆らって全速力で沖へ脱出しようとしているが、前へ進まないのが見える。茶褐色の濁流が砕氷塔に波しぶきを上げている。そのうち足元の潮も次第に深くなって来たので、三人で裏の浜の方へ廻る。幸い浜はまだ潮が来ていない。その時隣家の避難して来る五、六人の家族と一緒になる。その中のA子さんが「誰かこの子を連れていって」と四、五歳の男の子を抱いて叫んでいる。甥である。「ようしゃ、わしが連れていったる」と私がその子供を預ったのが苦難の始まりである。隣家の人たちは子供の両親もいたのに、子供を私に渡すと同僚等と共に急いで逃げて行き、私と子供だけが残された。
子供は抱くと重いしワーワー泣く。その上浜の道は不案内であるし、暗い。波音が追って来る。必死になって逃げるうち、私はいつの間にか内港近くの海産物商の炒り納屋の中に迷い込んでいた。どちらを向いても墨を流したように一寸先も見えない真暗闇である。しまったと思ったがもうおそい。かなり広い建物の中を、出口を探して手さぐりで二度三度探しても探しても出口が分からない。何分、何十分経ったか、その間絶え間なしに浜の方から高い波音と共に、ガラガラバリバリと家屋や網納屋の壊れる音や、港の船が岸壁に当たって砕ける響が入り混って、物凄い音が耳に入る。足元の潮ももう膝上まで来た。抱いている子供も今はもう夢中で私にしがみついている。思えば一年五か月前徳島空襲の時も徳島にいてザーザー音をたてて、落下して来る焼夷弾の中を逃げた時も、これほどの恐怖心はなかったのに今度はどうもいけない。とじ込められて逃げ場がない。「ここでやられるかも分からんな」と思うと一人で家にいる母親の顔がチラッと脳裏をかすめる。……とその時である。ギギギギという音と共に前の方がかすかに明るくなったような気がした。近づいてみるとあれほど探しても分からなかった出口の戸が少し開いている。どうしたのだこれは?だんだん深くなって来る潮が動いて戸を開けてくれたのである。助かった。
外へ出るともう腰の上まで潮が来ている。それからはもう無我夢中でどこをどう通ったか覚えていないが、気がついた時は昌寿寺の上の山まで来ていた。山の上では多くの人々が避難して来ている。あちらこちらで焚火にあたりながら恐怖の模様を話し合っている。中にはパンツ一つになって濡れた衣類を乾かしている人も何人かいる。私もその一人だ。東の方を見ると真暗な中に自宅の上の方の山に点々と焚火が人魂のように不気味に見える。
冬至ごろの夜明はおそい。ようやく東の空が白み始め、人々の顔が分かるようになってからさあ子供の親探しだ。子供は寒い寒いと泣く。自分の上着を着せているが正月前の朝は寒い。附近にいる何十人もの人の顔を見たり尋ねたりするが、この場所には子供の親たちはいない。それからあちらこちらと探してようやく杉王神社の本殿の裏にいる親を探し出し、子供を渡しほっとする。
子供を預かって四時間余よく水中に子供を落さなかったものだ。
時計を見るともう八時半を過ぎている。神社の裏山から自宅の方を見ると家の屋根が見える。流されずにあるようだ。一安心して帰宅しようとするが、どの道も家の破片や家具類、ゴミでいっぱいである。大川橋の真中にはどこかの家の大屋根が乗っている。
それを乗り越えて橋を渡ると、橋の元では母親が狂気のようになっている。それもそうだ。
同僚の近所のNさんは夜明前に帰宅しているのに、若い私が九時になっても帰らないので、津波に流されたものと思ったのも無理はない。私の顔を見ると「家はもう住めんがお前が生きとっただけで上等や」と泣いて喜ぶ。家の中へ入ると床上一メートル余の浸水で足のふみ場もない。その日は一日中潮が狂って大川の潮も満ち引きを繰り返している。港内も外海もいろいろな浮遊物で海面が見えない。
出羽島沖では時々ドーンドーンと何とも分からん大きな音がして、恐ろしくて裏山から下りられない。一日中沖の方を見て過す満二十歳の年の暮れであった。
なおこの時の津波の現象としては、はっきり見ていないので定かでないが、沖から高い波が折れこんで来たのでなく、海全体がふくらんでくるような感じで押し寄せて来たため、海岸や川口、港の入口等行ぎ止まりの所や、水路の狭い所で急に波高が何倍にも高くなったようである。押し込んで来る潮の力も相当なもので、私の近所の家では大川に面した推定二トン余りのコンクリートの塀が根元から折れて、三十メートル余り離れた川底まで流されていたのを覚えている。地震の前兆のような特に変わったことは記憶にないが、地震の数か月前からスルメイヵの大漁が続き戦後の食糧難に一役買った。
昭和二十一年十二月二十一日の、いまわしい南海道大津波に、海上の小舟で体験した私のことについて、ペンを取ります。
当時十四歳で小学校高等二年生だった。先の大戦で父が今年の春、ビルマから無事復員し、古舟を買い、やっと元の漁師に戻り我が家にも、ささやかな暮らしが戻りつつあった。
津波の七日前、父に無理にねだって革製の野球用グローブを買ってもらった。その当時は布製で自分で作ったグローブで遊んでいた。そのうえにバットとボールも買ってくれ、とねだったところ、「沖へいかんか、お前が釣った魚はみんなやるからその金で買え」といわれた。私は生まれて初めて父の舟で夜釣りに沖へ出た、その夜はスルメイヵが大漁で夜半ごろまでに、バットもボールも買えるほどの漁をした。父は「明日も野球で遊ばないかんのに、もう寝とけ」という。私は舟首部の『ハイコミ』で毛布をかぶったがなかなか眠れない、明日にも買ってもらえるバットやボールのこと、友達との野球のことを考え嬉しくて眠れない。
やっと、まどろみかけたころグラグラと舟が揺れた、海面もジャブ、ジャブと音がしている、跳び起きると「こりゃ地震や」と父と叔父の話、陸地の牟岐方向に何回も稲妻のような閃光が走る。
断線時のスパークだったのだろうか。小張山の灯も牟岐の灯台も消え、陸地は真っ暗になった、二十分も経っただろうか「えらいことになったぞ、早ういなんか」と叔父がいう。
エンジンを始動し、錨を上げにかかる、集魚灯の下の海面は泥水と化し激しく流れだした。星明かりをたよりに牟岐港に向かう。
漁場は、アナツボという津島の南東三百メートルぐらいの所だった。近道にあたる津島とクレ石の狭い間を三馬力のエンジンで通過しようとしたが、第二波の引き潮だったのか舟は前に進まなかった。やっと津島の西側へ来たころ、今度は込み潮に乗ったのか見る見るうちに牟岐の前まで来た。あわただしい浮流物・壊れた家・無人の舟・魚を干すセイロ・藁ぐろ・などが流れており、込み潮・引き潮で港へ入ることはできなかった。父が「夜明けまで待たんか」という。現在の楠の浦灯台位の位置に錨を入れて、エンジンを止めたところ、小張山の方向や、仏崎等の磯辺のあちこちから「助けてくれ!!助けてくれ!!」と悲鳴が聞こえてきたがどうしてやろうにも、舟を動かせる状態ではなかった。そのうちに力尽きたのか、その人たちの声も聞こえなくなっていった。現在でも悔やまれてならない。やがて白々と東の方から夜が明けてきた。覚悟はしていたものの浜辺の我が家を見ると家の屋根さえ見えなかった。
二階の神棚の下の戸棚に大事に仕舞ったグローブの心配どころでなかった。
「家族が心配だ、潮の間をみて楠の浦の浜につけてくれ」と父がいう。櫓を漕いで舟を浜に着け父をおろし再び元の位置に投錨して父の帰りを待つ、昼過ぎになって、やっと父が楠の浦の浜へ帰って来た。母や姉弟は舟曵場に引き上げてあった古い網舟に乗り助かっていたが、祖母が不明だとのこと、家族が一緒に逃げたのに……「昔人間」のことでこっそり引潮時に位牌か何かを取りに戻り波にのまれたのでしょう?
その後大里の浜に漂着していた位牌を地元の方が見つけてくださった。松本武夫と裏書があったので、浅川の松本照行(現在牟岐東の今津武夫さんの実家)さんへ持って来て戴き、牟岐に同姓同名の人があることをしって連絡があり、位牌は無事に返った。
もし私が家にいたら大事にしていたグローブを祖母と一緒に取りに戻っていただろうと思うとゾットする。
十四歳の年ごろは自分の体にうぬぼれを感ずるもので、家族の制止も聞かなかったろうと思うと、野球のグローブに、不思議な出合いを感ずる。
六十四歳の現在も若者と一緒になって白球を追い楽んでいる。
大地震が発生したら必ず津波が来るので家に帰ることなく直接高台へ避難することを子孫に伝えて行きたい。
また中河原の赤線の道は、先の津波後、無計画に網納屋を建てたため、道らしき道は無くなった。戦前にはダンジリも通った時代もあり、立地条件の悪い中河原の生活道として、また緊急時の避難道路として是非整備して私達の尊い生命と財産を守ってほしい。
昭和二十一年五月にビルマから復員して来たが、体調が今一つ思わしくなく、ブラブラする生活が続いていた。
あの当時は岩村町長・山田助役・大平・大喜田両町議及び大田氏等が中心となり、津波復旧作業が始まった。
思い出すと、昭和二十一年十二月二十一日午前四時二十分ごろ、突如として地鳴と共に大地震となり、数分間揺れ動いた。
我が家では、母と末弟は日和佐の母の実家へ行って不在であり、親父は一階で寝ていたが、倒れたタンスと水屋にはさまれた。私と三弟は二階で寝ていた。姉や義兄は、揺れ止むと同時に子供二人を連れて、七夕祭のアンドンを頼りに、一足早く昌寿寺山へ逃げて行った。
三弟は、七夕祭に利用していたアンドンに火をともして、杉王神社へ逃げさせたが、非常用に確かに便利だとつくづく思った。
親父は、頑固者で倒れたタンスに敷かれながらも、お金は持ったか、位牌は持ったかと口うるさく言う人だった。私は親父を連れ、最後に家を出た。国道はもはや膝まで潮が来ており、飯田本家の横を昌寿寺山へ逃げた。
法覚寺横は高台のせいか潮は来ていないようだった。昔の軍隊用語に、「指揮慎重なるは、指揮官の最も戒むべき行為である」と言われるが、右にしようか、左にしようか迷うようでは、指揮官としては最低だとよく耳にした言葉であった。結果論ですが、大地震に遭遇した時、逃げようか、二階に上り待機するか、うろうろとうろたえているうちに、潮(波)にのまれて死亡するしかない。
運よく昌寿寺山に逃げ、山上の人となるも、下の大谷で、「助けて!!助けて!!」と悲鳴が聞こえるが暗くてどうすることもできなかった。
東の方が明るくなり、下山して我が家をまず見たら流失を免れている。しかし空腹ではどうにもならないので芋壷を見た。潮水で便所も満たんとなり、芋壷へ流れ込み、俗にいう、「味噌も糞も一緒になっていた」。しかし背に腹は変えられない。芋を取り出し井戸水でよく洗い蒸した。釜一杯のさつま芋と、昨夜の冷飯をもって昌寿寺山へ行く。「腹へった俺にも一つくれ」「一つおくれ」と気前よく渡していると、山上にたどりついた時は底に少量となっていた。
食糧卸組合の米が潮水びたしとなっていたので、青年団員が二俵持出し、釜は飯田本家で二個借用して、昌寿寺で炊き出しに使用し、後藤先生宅横の道路に流れていたタクアンの樽を割り、利用させてもらった。
青年団が満徳寺で不寝番を立てて警戒に当たり、夜食に銀飯を食っていると、町民の皆さんに広く喜ばれたが、警察から小言も言われた。
大谷で死亡した枡田さんを誰一人として引ぎ上げに行かなかった。私は戦場帰りで、こうした体験もあり、何の苦もなく田圃へはいり、背負って引き上げて来て、遺族の方々から喜んでいただいた。
町役場から、復旧作業に協力してほしいと臨時雇いに採用された。まず何と言っても、連絡道が第一だと国道の整備清掃のため協力したが、山積となった廃材や漂着物には泣かされた。
こんな逸話もあった。満徳寺下に亀田さんの納屋があった。流失した跡へ太田さんが指揮で応急住宅建築に取りかかる。ここは、港の隅でゴミ捨場であったが、戦時中の食糧難のため埋め立てて、親父と富田氏と村田氏の三人が畑として利用していた所で、大蔵省へ上申して払下申請をしていたが、町が協力してくれずそのままになっていたのを、木内土木課長の計らいで代替地をいただいたこともあった。
当時被災者に対する救援物資を輸送するため運転士が必要となり、富田氏が採用され、くろがね三輪車でよくお世話になったものだった。
南海道津波以前には、西浦大手に堤防があり、大きな松が茂っていたが、人間って勝手なもので利便ばかり追求し、次から次へ松を切り、土手をくずして通路となし、そのため、今回の津波時には必要以上の大惨事を引き起こしている。先人の教えをよく理解し、百年の計を守らねばならないとつくづく感じた。
昔から大地震には必ず津波がつきものであり、避難するには極力川筋や橋を利用せず、高台へ逃げよと教えられ、また子供たちにも教えている。しかし西浦の場合は、裏に瀬戸川が流れており、最悪の地理条件である。最近、中磯氏横に避難橋を架橋していただいたが、もう一つ羽里牛乳店横にも必要だ。これに伴う昌寿寺山への避難路もつけ、西浦大手の防潮堤も中身がバラストであり、液状化現象には特に弱いと最近学者が言い出している。堅固なものに再構築して、貴重な生命と財産を守ってくれと願う者は、私一人ではあるまい。
(旧姓富田)
あの恐ろしい南海大震災が起きた前日のことです。朝からするめいかが大漁で、漁師の人たちがとってもとっても、広い海一面にするめいかが異状なほど泳いでいました。夕方近所のおばさんたちが釣瓶で井戸水をくみ取ろうとすると、釣瓶の底がカタカタと井戸の底石にあたり、水が汲み取り難く井戸水が極端に少なくなっていました。そして夜になると、いつも天井裏を騒がしく走る鼠の音がありません。父は「今夜は静かな夜だなあ、鼠一匹走る音もしない」と言っていました。何となく重苦しく寝苦しい長い夜でした。
十二月二十一日地震が起きた朝です。当時牟岐町女子青年団長の私は、副団長の井村陌子さんと始発の汽車で、徳島へ青年団のバレーボールを買いに行く予定でした。午前三時に起床し身仕度をととのえて、お茶を沸かし朝食を取ろうとした時です。いきなりグラグラときました。家はキシキシと音をたてて揺れ始めました。大きな揺れがなかなか止みません。これは大地震です。父は私に「淳子、水をかけて囲炉裏の火をすぐ消すのだ。そして入口の戸を早く開けろ」と大声でどなりました。
そして今度は家族みんなに「急いで起きろ。津波が来ると危ないから、みんな昌寿寺山へ逃げるのだ」と真暗な家の中で父の必死の声が響き渡りました。私の家は海に近いので、小さい時から津波の時は必ず近くの昌寿寺山へ避難するように教えられていました。そこで家族全員昌寿寺山へ逃げることにしました。
近所の誰かが二階の窓から「津波が来るぞ、みんな早く逃げろ」と大声でどなっていました。私たちは大事な物を持ち出す暇もないままに走り出しました。昌寿寺山まではそう遠くありません。車に家財道具を乗せて行く人、自転車で行く人、徒歩で荷物を背負って急ぐ人、みんな必死で走っていました。私たち家族が家を出たのは他の人よりずっと早いと思っていましたが、昌寿寺山の麓に着いた時は既に足元に波が来ていました。家を出るのが一瞬遅れていたならば、恐らく波に流されていたことでしょう。
私の家より少し浜辺に近い家の友達は、地震が起きた時すぐ逃げないで、家の中へ大事なものを取りに引き返したために、命を落しました。その家は平屋でしたので、家も流されました。その付近の二階建ての家はほとんど一階が潰れ、二階だけが残っていました。
私の近所の中年の夫婦は、私たちのように昌寿寺山の方へ逃げないで、八坂橋方面へ逃げようとしました。その道は海に沿った道なので、途中で波がやってきました。夫婦は無我夢中で大きな庭のある久佐木さんの家の一番高い木によじ登り、潮が引くまで必死で木にしがみつき、九死に一生を得たのです。本当に生きた気はしなかったと言っていました。またある人は八坂橋方面へ逃げて行く途中、「そっちへ行ったら危ない」と誰かが言ってくれたので、あわてて昌寿寺山の方へ逃げ命が助かったと話していました。八坂橋方面へ逃げようとした人は一人亡くなりました。
私の親友は地震が起きたら津波が来るのが分かっているのに、自分の着物が潮に流されるのが嫌で、一階に置いてある笥笥の引出しを三段次々に二階へ運びました。しかしこれ以上運んでいると自分の命が危ないと気がつき、一目散に山へ向かって逃げたそうです。
地震の後津波が押し寄せて来る間の時間は少しあったようです。地震が止んだ時にドッーという物凄い海鳴りを聞きました。
そして次にガラガラと大きな音がしたのを多くの人が耳にしました。
関地区に住んでいる友達も、ガラガラという大きな音が海の方から聞えてきたと言っていました。その地区の人たちは竹薮の中へ避難したそうです。
私たち家族は無事昌寿寺山上へ逃げることができました。副団長の井村さんの姿が見えません。心配になって探しましたが見当たりません。潮が引くと男子たちはまだ山に姿を見せない知人を探しに山を下りて行きました。間もなく井村さんが男子たちに抱きかかえられて山へ上がってきました。衣類はずぶ濡れで顔色は青く苦しそうでした。ブワーブワーと海水を口から何度も何度も吐いていました。私は思わず走りよって背中をさすって上げました。気持ちが落ち着いてからいろいろ話を聞いたのですが、妹さんと一緒に死ぬ所だったのに、運よく助かってよかったと思いました。
山に避難してしばらくすると夜も明け始め、視界が開けてきました。山上から下を見て海に目をやると、ごうごうと大きなうねりを立てて、濁流が渦をまいています。二階建ての家が流れてきました。よく見ると、二階の窓辺に二、三名の男女が手を振って助けを求めていますが、どうすることもできません。あっと思う間もなく、家諸共濁流に呑まれてしまいました。また家が流れてきます。次から次へと家や材木等流れて来るのです。平素は静かな海も一度狂うと悪魔のように暴れ狂います。
津波後すぐ山を下りるのは危険なので男子のみ下山し、町を警戒に廻ってくれました。女、子供、老人は山で二晩泊りました。
津波の三日目から救援活動を開始しました。女子青年団員はまず炊出しをすることになりました。東地区は八幡神社境内で、西浦地区は満徳寺裏庭で炊出しを始めました。たくさんのおむすびを手が真赤になるほど握りました。また警察や役場の後片付づけや掃除、そのほか布団や衣類等の洗濯もしました。みんな不眠不休でよく頑張ってくれました。お陰で町民の方々には大変感謝されました。私たちは崩壊した愛する牟岐町を早く復興せねばと、その一心で頑張ったのでした。
(旧姓新居)
「ゴー」という大きな地響きの音に目が覚めました。しかし私は地震に対する知識も少なく、牟岐へ来て日数も浅く、山育ちのため津波など頭にありませんでした。アッと思う瞬間にあの大地震で揺れだし、二階にいました。箪笥は倒れなかったものの立つことはできませんでした。ギチギチギチという音がして上下動の揺れでどうすることもできず、ただうろたえておりました。そのうちに揺れが止んだので飛び起き、二人の子供を連れ外に出て門の付近をうろうろしていたんでしょう。
そのうちに潮が来て、手を引いていた三人がバラバラになり、潮に呑まれ溺れてしまいました。津波というものは、膨れ上って来て引いて行くとは露知らず。ああこれで死んで行くのかと思いました。仮死状態となっていると潮が引き、女の子が「お母ちゃん、お母ちゃん」と肩を叩くのにふと気がつきました。もう一人男の子を連れていましたが見当たりません。「欣也、欣也」と呼んでも姿はなく声もありません。「ああ、あの子は流されてしもうたのかなあ」と夢中であたりを探しました。
土地の水は引かず浮流物がいっばい流れて来て大きな庭木に引っ掛かり、足の踏み場も無いくらい散乱しておりました。あの時私たち竜流されていたら沖へ流されて死んでいたでしょう。幸いここの屋敷のまわりは石垣が高く積まれ、庭木の大木があり潮が淀んでいたので、死んだ欣也も屋敷内で発見することができたのです。浜からくる潮と港からくる潮の合流で流されることも無く、そのうちに気がついたのでしょう。恐ろしくなり夢中で二階へ女の子とともに逃げておりました。結果論ですが最初から二階にいれば欣也も死なずに、三人が無事であったでしょうに。
次の潮で梁まで浸水しましたが、二階の畳は濡れませんでした。第二波、第三波と潮が来たといいますが私は気が動転しており、何回押し寄せてきたのか全然分からない状態でした。
夜が明け潮が静まってから消防の方が調査に来てくれましたので、男の子が流されたと話しました。屋敷内を捜索してくれましたところ、青木家と楠本家の間の隅に犠牲者となって発見されました。一番下部に遺体があり、その上に浮流物が山のように上積みしておりました。「さぞ寒かったでしょう。重かったでしょう欣也」と懇ろに葬ってやりました。
今考えますと、地震が止んで子供二人を連れて二階から降りて来て、家主の青木勝蔵さんに相談したように思います。このとき青木さんも西隣の舟曳場の方へ流され、運よく流れて来た舟にしがみつき、潰れた享楽座(芝居小屋)の屋根の上で助かり、近くにあった木によじ登ったそうです。
その後、急を聞いて古里の相生から親類の方々が援助に来てくださり、応急住宅に入居できることとなり私の人生を変えることになりました。
恐ろしい南海道大津波は、思っただけでも心が痛みます。大きい音に目が覚めたが、電燈が消えると同時に大地震、グラグラ・ゴトゴト・バリバリと今にも家がつぶれそう、しかもこんなに長い揺れなど体験したこともなく、家族五人がうろたえてしまい、どうすることもでぎません。仏壇の水がひっくり返り、私の寝ている所まで落ちてきました。祖母は、大地震があったら必ず津波が来るぞ、と日ごろから教えてくれておりました。着物だけは着替えて待機していると、庭にブツブツビリビリと潮がにじんで来ました。砂利の床を通じて、海から潮が湧いて来たのだと思います。「こりゃ大変だ早う逃げんと…」と祖母が玄関の雨戸をこぜあけてビックリ仰天する。前の道路を西から白い波が押し込んで来ました。祖母と義姉(三歳の子供を背負っていた)は飛び出し避難しました。
私と祖父は、怖くて出て行かず、家の中で待機中第一波の波が来ました。そらそら言っているうちに天井裏まで押し上げられ、梁にしがみつき難を免れました。しばらくすると、引潮になり、そのすきに祖父の手を引いて裏口から逃げました。
六尺近い宮繁先生宅裏の塀が、第一波の潮で土砂が埋り、軽々と乗り越えることができました。宮繁宅には、大八車が置いてあり、その間を通り国道を右折して水田商店前に逃げました。
野崎さん宅に大敷網事務所があり、青壮年の方々が焚火をしており、暖めさせてもらいました。暖くなると心は放心してしまい、何をすることもできず、昌寿寺で炊き出しがあると聞いても歩いて行く力もありませんでした。
昼すぎになり、親戚の人達が来て祖母・義姉のことを問われ、初めて気づき八方捜しましたが見当たりません。
津波の跡整地も始まり、我が家も流失し、家の取り壊しが行われたところ、祖母・子供を背負ったままの義姉が、家の下敷となり発見されました。祖父や私より一足早く逃げたのに……。私の憶測ですが、祖母・義姉は、私等より早く逃げたので、第一波はどこかで無事避難し、引潮を利用して私たちを助けに来たものか、位牌か、米か、着物を取りに家に戻り、第二波にのみ込まれたものと思われます。
昔の人は、大地震が発生すれば必ず津波が来ると教えられ、地震の程度と津波の大きさは関係ありません。
一、揺れてる間は、家から外に出るな。
二、揺れが止んだら何も持たずに逃げよ。
三、引潮を利用して家に戻るな。
この三点を子孫にしっかり教え込むことです。
「備えあれば憂い無し」と言われていますので、防潮堤を再点検していただくこと。昌寿寺山の避難道を作っていただき、私たちの生命と財産を守ってください。
(当時浜崎在住)
突然ドドーンと言う音と同時に家がギシギシと軋みだした。就寝中であったが危険を感じ、裏の空地に素足で飛び出した。ちょうど目の前にあった物干竿がガタガタと上下動し鳴っていた。
地震が収まったので家の中に入ったが停電で真暗、手探りで寝床にもぐり込むと、浜側の道より「津波が来るぞ!」と言う大声が聞えてきたのですぐに両親に告げ、服に着替えて母姉妹弟と五人で急いで大坂の方へ避難した。
ちょうど家並の切れる辺りまで来た時に津波が襲って来た。私はしばらく波の様子を見ながら眺めていた。
津波が段々引いていったので、私は家族と別れ坂を下りて来ると、西念寺の前に一戸建ての屋根が道路上に立ち塞っているので驚いた。どうしようかなと思案していると、右側の闇の中より突然「助けてー」と言う女性の声が聞えて来たのと同時に、白波を立てながら津波が襲って来た。
あわてて山手の方へ避難した。波は道路までは上がらなかったが側壁に当たりすごい勢いで路上を覆い、あたり一面に波しぶきを飛散していった。すぐに波が引いていったので、私も元の位置まで戻って来ると、まだ波の残る間から女の人がすくっと立ち上ったので肝を冷した。先ほどの女性だなと思い一緒にいた人と共に引っぱり上げて見たところ元気そうだった。
だんだんと波が遠のいて行くのを見て、私の傍にいた人が「もう津波は来えへんわ」と言いながら立塞っている屋根に登り、向かい側の道路に降りてどこかへ行ってしまった。私も見習って実行してみると、町並全体は薄暗い中にも静かな佇まいで変わった様子には見受けられなかった。
家に着いてみると様子は一変で、津波の被害は甚大で家の軒下まで木切れ・セイロ・ゴミ等が山のように積重っていて中には入れない。仕方がないので勝手口の方へ廻って見ると、幾分寄せゴミ等が少ないので取除きながら戸口を何とか入れるだけ開き、中に入ってみると陳列棚は倒れ、食器等は散乱して足の踏場もない。畳は波をかぶりポコポコでその上塩を吹いていた。
当時私の財産であった皮靴を履き、外に出て見ると斜め前の川崎家がペシャンコに潰れているので驚いた。おばさんと嫁さんが死亡していたので一瞬茫然としていると、東の方から「誰かおらんかー」という大声が聞えてきた。走って行って見ると、牟岐津神社の前に人が立っていた。その人が私を見つけると、ここに人が下敷になっているようだと指さす。境内の東側角地に瓦礫が積重なった場所がある。「登れるだろう」と言われるので、上に登りながら枝、木切等を取除いてみると、私の叔母が仰むけに次女加美子を背中に、儀子を抱いたまま死んでいるようであった。私は折重っていた儀子を抱き上げて温かいなと感じ、傍にいた人に手渡すと、その人が「此の子は生きとるぞー」と言いながら抱きかかえ走り去って行った。そこへ四、五名の大人たちが駆けつけてくれたので私は交替し、家族の避難している大坂の方へ出向いて行った。
登って行くと伊吹家のある山の斜面にそれぞれ家族単位で休息していた。やっと家族を捜し当てしばらくすると握り飯一個ずつが配給された。当時の食糧事情からして破格のことであった。誰言うとなくこれは「伊勢ヤン」元木家の差入であろうとの風聞であったが、とにかく美味しくて有難く頂だいした。
間もなく私には学校があるので皆と別れ家に帰って見たが、教科書が濡れて使えないので手ぶらで山本君の所へ行った。山本家は県道の北側にあり少し敷居が高くしてあるので、津波は床上浸水で無かったようであった。午前八時過ぎの汽車に乗るため友人たちと話をしながら、岡田鉤灸医院の前辺りまで来ると道路が濡れてないので、ここまで津波が来てないなあと言いながら駅へ向かった。
汽車が不通で家に帰ると誰もいないので、山本君の所でお世話になる事として西浦地区を一巡して見たが、浜辺に近い家では相当被害を受けているようである。特に港に沿った家はひどい有様で、全壊又は半壊がほとんどであった。また道路に舟が何隻も打ち上げられていて、海面は道路下三十センチほどの所でひたひたと波打っているので少し不気味な思いだった。
その夜は友達と一緒に山本家で囲炉裏を囲み焚火をしながら、津波が来たらいつでも逃げ出せるように着たままで横になったりしていたが、時々余震があって眠るに眠れなかった。とにかく長い夜だった。
長かった戦争も終わり、弟や近所の方々が戦場から復員してやっと我が家にも平和な生活が見え出したころで、この年はスルメイヵが大漁で連日浜はにぎわっておりました。
昭和二十一年十二月二十一日早朝のことでした。
大きな地鳴りと共に未だかつて経験したことのない大地震、電灯は消え真暗のなか、ふとんの中でおびえておりました。数分は揺れたでしょうか。
急に浜の方が騒しくなってきました。あら!!津波だと直感しました。私は急いで服を着用、靴を履き高台へ逃げました。逃げ遅れた人は死亡したり、恐ろしい目に遭いながら高台へ逃げて来ました。
昌寿寺山の上では暗くて下は見えませんが、あちらの谷間で、またこちらの田圃で「助けて助けて」と悲鳴が聞えましたがどうすることもできません。そのうちに声も跡絶えてしまいました。
しばらくして東の空が明るくなり、町並がうっすらと見えてきました。自宅の残った者、流失して跡形もない人などいろいろです。町の青年団の方々による炊き出しが始まり、空腹を免れながらも心配でした。
しばらくの間余震にもおびえました。浜辺に立って沖を眺めると流失した家財や木材・セイ・藁その他いろいろの浮流物で海水が見えません。時間が経つとともに次第に落着いてきました。
しかし薄着のせいか寒くてなりません。近所の方に毛布を借り暖を取りました。
私はあの当時、復員船に乗船しており、船の改造のため、休暇を取り実家の鯖瀬に帰省していた、十二月二十日、田圃で麦の草抜きを手伝っていると、西の山に奇妙な色の雲があり、いやだなあと家族で話したことを覚えている。
晩秋の日はつるべ落しのように暮れて行った。あの年はスルメイカが良く釣れた。福良から伝馬舟に乗り沖へ出たが、ことのほか今夜はよく釣れ九時過ぎに家に帰る。
母から牛が産気づいていることを聞かされた。父は牟岐町灘の叔父(谷槙蔵)宅へ行き不在であった。兄と二人で牛のお産を手伝う、初めての体験で牛のお産は軽いのだなあと思いながら二階に上り寝ることとした。
三十分も寝ただろうか?「ゴウー」と大きな地鳴りと共に大地震だ。立つこともできず這いながら階段をつかまえに行く、数分で揺れ止んだので二階から降りて来て庭に出る。またも余震がある、時計を見ると四時十九分で止まっていた。
前方の鯖大師さんでは、昨日から高野山より高僧が大勢来て八坂寺と改称の行事を行うため宿泊していたが、この大地震で騒いでいる。兄は何をするにも腹ごしらえが大事やと、いろりで火を焚く、そばには万一のためにと摺鉢とバヶツに水を入れておいた。
そのころは食塩が乏しく浜で塩炊きをしていた福岡一郎氏が、鯖瀬橋の上から「オーイ津波が来るぞー」と大声で知らせてくれる。突然浜の方が騒々しくなった。
さあ大変!!いろりの火に摺鉢をかぶせた。納屋に行ぎ今しがた出産したばかりの子牛と親牛を避難させねばならない。兄は親牛、私は子牛を抱えるようにして裏の木納屋へ避難させる。
そのうちに東の方が明るくなってきた。浜では昭和九年室戸台風時よりも潮位は低くたいした被害もなく、良かったなあと海辺に出てみると、大変だ。見る見るうちに牟岐方面から浮流物が海面が見えないほど流れて来た。これでは牟岐も大変だろうと話しているうちに家屋の一部分と思われる部分が漂着する。畳の上に布団を敷いたまま、ローソク・マッチが散乱し、柱にジャンパーが掛っていて、「松本」とネームがついている。当時の慌ただしさを思わせる光景だ。早速若者たちで浜に引き上げた。
浅川の町は全滅だと誰かがいう。それじゃ応援に行かねばと、皆が走る。大砂まで来ると、浜は浮流物の山、家、家財道具類。
その間に二〜三の死体も発見し、菰や莚を掛けて行く。粟の浦まで来ると粟の浦橋は流失し、その先の国道や造船所は河原と化していた。立石氏宅の下で川を渡り伊勢出下まで行く、国道は跡形もなく所々で大きな渕が出来ていた。伊勢田橋も橋桁が一部移動しており潮の力の強さを表していた。川幅が広く渡ることもできないので後髪を引かれる思いで引返した。
九時前に家に帰ると父が帰って来た。父の話では牟岐町灘の叔父(谷槙蔵)宅前の田圃には流失した家や舟、家財道具が山のように漂着したという。父は市宇谷へ降り川長から牟岐橋を渡り関、清水から中村、百々原を越え奥内妻、古江を経て帰って来たが自転車に乗れる所がない程道路に亀裂があったという。
中河原の松本武夫の所が心配だ「千年お前行ってこい」と父がいう。取るものも取らず牟岐へ走る。途中、占江、内妻も国道に亀裂は走っているが津波の潮位は室戸台風より被害は少いように感じた、ところが大坂峠を下り八坂橋付近まで来てビックリした。人谷の田圃は浮流物の山々、西念寺は残っているがその先は浜筋の倒れた家々で通れない、泉源の所から浜に出た、壊れた家財その他で歩くこともおぼつかない。堤防の付近にあった加工場、舟小屋、網納屋は一軒も残っていない。中河原の石垣で囲った青木宅前まで来ると、松本の家は跡形もなく消え、ただ防火用水槽に反物が一枚巻きついているだけ。こんな光景に出会うと人間は不思議なもので涙も出てこない。しばらく呆然と立ちつくす、付近の家を見る樽本宅や泉政の家や製氷会社は型は残っているものの、中はもぬけの空である。対岸の小橋の上には三隻の船(隆生丸、義武丸、その他)が乗りかかっている。
屋敷跡に立って眺めていると港の方向から灘の叔父(谷槙蔵)がキセルをくわえてやって来た。早速安否を尋ねると「祖母がいない、あとは全員無事でうちに来ている」との返事。それじゃ祖母を捜さなくてはと思ったとき、松本の舟が港に着いた。祖母の安否を聞いたが今のところ不明だと。早速四名で沖に出たが、浮流物で自由に航海できない、舟の中で松本の二階らしき家が鯖瀬の浜に漂着し引上げてある話をすると、それは間違いもなく裏の二階部分だということで早速取りに行く。ちょうど駐在巡査が来ており、立会のうえ舟に積み込んで帰る。ジャンパーのネームで松本家のものと確認された。
松本家でも当日スルメイカ釣りに出漁しており、津島沖で津波に逢い早速帰ったが浮流物で港にはいれず楠の浦へ父だけ降ろして沖で待機していたという。津波時の海流は下り潮で牟岐方面の浮流物は大砂、網代岬、大里松原方面に漂着していることが分かった。布団類は浅川一里松、田尻の磯で発見され、位牌は遠く大里松原に漂着していた。こんなエピソードがあった。津波から二〜三日後、浅川新屋敷の松本照行さん宅へ貴殿宅の位牌が松原に漂着しておったと持ち込まれた。この松本さん宅は津波で全壊したが、位牌は持ち出して無事であった。位牌の裏書に松本武夫と書いてあったためだった。この人は私の母方の遠縁に当たり、弟さんは同倫の今津武夫さんである。
連日捜していたところ四日目にして祖母は出羽下で浮いていたところを西浦の丸岡正一氏(松本武夫とビルマ方面で従軍していた戦友)が遺体を拾って来てくれ、さぞ寒かったろうと懇ろに葬ることができた。
こうしているうちに私の休暇期限もせまり佐世保復員局へ新聞をつけて大震潮のため休暇延長願を郵送したところ「それは大変だろう、二十日延長を認可する」と電報で承認をいただいた。
親類のこうした大災害の後始末に一週間余りが過ぎた。その当時の西浦地区の被害状況をまのあたりに体験し津波の恐ろしさを痛感した。
この記録を残す会に私は他村出身者でご辞退申し上げたが現在西浦部落会々長として地域実態調査に協力しようと中山会長や宮繁先生の勧めに応じあえてこの会に参画したことを特に付記してペンを置いた。
(旧姓松本)
思い起こせば五十年前の昭和二十一年十二月二十一日早朝のことでした。
ゴー、というすさまじい地響きと共にガタゴト・バリバリ・と大地震となり跳び起きたものの、立ち上ることもできずはいながら揺れが止むのを待ちました。五〜六分は揺れたでしょうか。
年配の人に大地震があれば津波がくるので要注意、避難せよと聞かされていたものの、いざともなると気が動転してしまいどうすることもできません。横に祖母が寝ていたので「おばあちゃん」と声をかけたところ「暗いから早よう提灯を探して」というので、マッチ、ローソクをやっと見つけて火を付けようとしたが手が震えてなかなか付けられません。祖父のマントを私のオーバーに仕立て直したのを急いでタンスから取り出して着用し、二階から下りてみると既に逃げたのか誰もおりませんでした。急いで外に飛び出し隣家の前までくると港の方から潮が押寄せてきて夢中で西の方へ走りました。
舟曳場までくると、たちまち膝まで潮につかり走ることも歩くこともできなくなり、付近にのぼしてあった小舟に無我夢中にとび乗りました。暗闇の中、舟は上下左右に大きく揺れて流されて行きます。津波は三回押寄せてきたといわれていますが、舟の上ではうろたえて、何がなんだか覚えておりません。近くの網納屋が潮に流されてバリバリ、と大きな音をたてて頭から崩れかかってくるようで、怖くて今にも押しつぶれされて死にそうに思いました。濡れた足が冷たく凍るのを我慢しながら必死にただ舟底にしがみつき、無事どこかへ流れ着くことを神仏に祈りつつ震えておりました。
家族はどうなっただろうか、とはつゆ考える力もなく呆然と時の経つのを待つのみでした。
対岸の山では、あちらこちらで火が灯り「助けてくれ」と悲鳴が聞こえてきますがどうすることもできません。
夜も白々と明けてきて付近の様子が見えてきました、ああ助かったのだ。ふと気がつくと隣家の青木勝次さんも同じ舟に乗り合わせていました。大きな屋根の上で舟は止まっています、つぶれた享楽座の屋根でした。
二人は舟から飛びおり満徳寺を目指して、一目散に走りました、途中大敷網の事務所の前の道路で焚火をして、おりそこで暖を取らせていただき、ようやく気持ちが落ち着き、初めて家族のことが心配になり避難している昌寿寺山へ駆けて行きました。
山に登って行くと大勢の人たちが避難しており、それぞれの家族が家の安否を気づかって騒いでいました。私もやっと家族と再会でき嬉しくてホットしたのも束の間、祖母がいないと聞かされました。あの時、一諸に二階から下りてきたのですがそれから先はどうなったか不明です。とても元気なすばしこい人でしたので逃げ遅れたとは思いません。しかし今はどこにも見当たらないアーアー、と落胆していると沖から父が帰り迎えにきてくれました。漁に出ていた父、弟、叔父は無事で何よりでした。しばらくして母の実家(谷槙蔵)宅へ連れて行かれお世話になる身となり、おばあさんを捜すことになりました。
四日目にして西浦の丸岡正一さんが出羽下で発見してくださり、東の妙見さんにて遺体を引き取りねんごろに葬ることができました。
今考えますと祖母は一度は逃げたと思いますが引ぎ潮に位牌か、何にかを取りに引き返えして波にのまれたのではないでしょうか。私もあの時舟に乗らなかったらどうなっただろうと思うと身の毛がよだつ感が致します。
その後親戚の方々が屋敷内に応急住宅を建ててくださり落ちつぎ一応生活の見通しがたちました。
津波の体験記をつづっているとあの怖かった想い出が再び脳裏に蘇り、将来必らず起こる地震や津波に備え日ごろからまず地震が起きたら津波がくることを考え何よりも早く高台に避難する。
潮が引いても絶対後戻りしないなど私の身を持って体験したことや、あの時亡くなられた多くの方々のご冥福を祈りながら後世に伝えておきたいと思います。
(旧姓富田)
それは四十六年前の私が二十一歳の冬の出来事でした。この文面を書き始めてから、かれこれ十四年にもなりました。恥かしいですが、私はいたって牟岐弁が好きです。このごろは、あまり牟岐弁を使う人が少くなり淋しく思う一人です。粗雑な文面ですが思い出として綴ってみました。
昭和二十一年十二月二十一日の未明のことでした。確か四時十八分ぐらいだったろうと思います。いくら寝坊助だった私でも、ガタガタドーンドーンという異様な物音、「アリャー地震やおっきょい、こりゃーごっつい」と祖父母。祖父母の隠居家へ泊りに行っていた私は、昔の家の事とて、天井等はソーギ茸のままである。ガタガタ揺れるにたびに、目や顔に塵やすすが降りそそぐ。
立つに立てず震動が止まるのを待ってあわてて外に出た。外はまだ真暗、家の前は墓地(旧西部保育所)付近に井戸があり、まずその井戸の水を見た。「井戸の水が引いていたら津波が来る」と昔の人が言ったと祖父が教えてくれていた。
町の方が何やらそうぞうしい、家へ帰ってみようと思い山口の橋(西念寺の裏側の橋)を渡りかけたら、山口の織造じいさんたちは、布団をかぶって逃げかけている。川添の人たちは、もう大谷豊さん宅へ逃げて行く。町へ来てみると、久岡の米造じいさんは神棚にお燈明を上げ、柏手を打って、「悪事災難のがわりますように」と大きな声で祈っている。
町の様子が何やら異様な気配、家へ走り込んで見ると、皆ボーとしてヤグラコタッに座っている。「早よう逃げなんだら。皆よその人ら逃げよんのに何しょん」と私の言葉にびっくりして急に目が覚めたように布団・米・重要な物等を荷造りしだす。
浜の方から大きな声で、確か谷誠剛君が、「津波やー、津波やー」と皆に知らせてくれた。「ホーレ早よう早よう」妹が十二歳、私はしっかり手を引いて先刻来た山口の前を祖父の家へ逃げようと走ってみたが、もう辺り一面川とも、海ともまるで湖のごとくであった。冬の夜明けの五時ごろといえばまだ暗い。それでもまだ渡れるたまり水ぐらいに思って一足入れた途端びっくり、アサブラ(草履のこと)も、靴下も引きむしられた。ものすごい潮の勢い、若かったからこそすぐ引き返せたものと、今にしてつくづく思いました。
引き返して春木さん(今の天狗)の所まで来て家族一同別れないように、目標は八坂峠と決めて走った、走った。もうその時は、八坂橋の下はすごい音を立てて昌寿寺の方へと津波が瀬戸川を逆流しているよう。私たちも必死の思いで八坂の古川さん宅の前まで逃げたのです。もう早二十人ぐらいの人が逃げて来ていました。それからものの二十分もしたころ、泉政(和田)のじっちゃん(私の親友で昭和五十八年死亡)は、全身びちゃびちゃになって震えながら、ようやくといったかっこうで逃げて来た。私の顔を見るなり、抱き着いて来て泣き出した。私は何が何やら分からず、自分の着ていた綿入れの伴天羽織を着せてやりましたが、下はびちゃびちゃに濡れていたのにと後になって気がついた。じっちゃんの言うには、西念寺前では、もう方角が全く分からないぐらい家が倒れたり、流されて来た障子や柱の間に足を突っ込んで動けなかったと泣きながら話しました。お父さん(和田喜和太、一夫さんの父)の安否を心配していましたが(こちらへ逃げてくる途中、亀兵の裏口辺りで亡くなっていました)。その時「もう浜の方で残っとんのは桝富の母屋だけや、もう何じゃ無いわー野になってしもた」と言う声、漁師の人は大きなことばかり言うからと半信半疑でしたが、もしや自分の家もと不安が募るばかりでした。
東の空が明け始めると、ボトボトと皆、我が家をさして帰り始めました。幸い私の近所は異常なく本当によかったと安緒の思い、でも浜筋の二階建ての家は、下がびしゃんこになり、二階がそのまま落ちて、一階建になったようで、そんな家が数軒ありました。西浦で道路が濡れていなかったのは法覚寺の辺りだけだったように思います。
そのうちにいろいろと被害の状況が聞えてくる。まだまだ余震は止まらない。潮位も狂っている様子。昌寿寺山には、多数の人々が避難して三日も四日も寒い時期、山頂暮しをしていたようでした。
当時私は、役場戸籍係の臨時書記として勤めていたので役場へ行きかけたが、小学校前まで行ったら、今の阿波銀行辺りは、潮が満ったり引いたり、港から津波で流れ込んだ船で一杯、小学校前から見ると、昔の警察(今は消防屯所)と平岡食堂横の川にかかっていた小橋が落ちてしまって、道路はえぐられ、隆生丸(貨物船)と活魚運搬船(義武丸)が入り込んで道を遮断していた。
その後しばらくはその船の下が通路でした。
思えば、地震の前日の夕方、西へ帰る吏員さん(渡辺弘世収入役(故人)。森尚信会計(故人)。浜吉美さん(故人)・山田喜男助役・佐木山寿重子さん)と私は、小橋の上にさしかかった時に見た西の空のものすごい美しい夕焼、こんな美しい夕焼見たことないな。と皆んなで一瞬たたずんだことを、今もはっぎりおぼえています。その宵の小橋と一変し、今のこの橋の変わりよう、本当に明日という日は分からないなあとつくづく思いました。その夕焼を役場の裏で開業医院をしていた泉先生(故人)も、あまりの美しさに写真にとって置いたのを、まさか津波が来るとは思わず、写真機もフイルムもびちゃびちゃになりくやしがっていたことが思い出されます。その当時、小椋雲とかいって地震を予知する雲だったとか、報じられていたこともぼんやり覚えています。
さあ、それからが大変、役場へ行くと事務机も何もごちゃごちゃ、床は落ちて惨状目に余るとはこのことかいなと思いました。戸籍簿の確認、幸い散乱はしていたが水びたし。被災者や死亡届・戸籍謄本・抄本・証明書等、一枚一枚、一件一件複写で日がな一日書き続け、よく務めたものでした。
警察は、戸籍簿を流し、島田という若い巡査が戸籍簿を借してくれといってきたが、持出禁止のため数日公会堂の二階で住所氏名を写していました。
役場は、床が落ち仕事が出来ないため、公会堂の二階が会議室、下が役場として狭い不便な庁舎でした。災害復興部もでき、被災者に救援物資の配給だ慰問だと、毎日が戦争のようでした。
あの時を振返ってみると、夜明け前の時間帯やからよかったものの、もう少し遅かったら朝の炊事で、大火災は免れなかったろうと思いました。
(旧姓佐山)
ゴゥーとものすごい音に安眠の夢を破られ飛び起きた。しかし上下動の揺れにどうすることもできず不安を募らせること数分、やがて揺れは止まった。外で近所の新開さんが「浜に逃げよ」と叫んでいたので咄嗟に浜へ逃げた。
祖父が「津波が来るか分からん。見てこい」と若者に伝えた。
すると浜の方向からガラガラと空缶を転がすような音と共に津波が押し寄せて来た。あわてて家に帰るも障子や襖が倒れており、家に入ることがことができない。そのうちに西の方から潮が真っ白に込んで来た。足を濡らしながらも、妹を背負い弟の手を引いて昌寿寺山めざして一目散に逃げた。
昌寿寺山登り口では避難の人々でごった返しており、皆がわれ先にと山に登っている。私は前の人の背中にしがみつき、弟の手を引いてかけ登った。
頂上では人が溢れ、休む場所もないくらいだった。下の田圃では「助けてくれ!」と悲鳴が聞えてくるがどうすることもできない。ただ等閉視するのみであった。寒くて震えていると亀田さんが「これ着いとり」と言って毛布を二枚貸してくれ、家族がくるまって暖を取り合いました。夜が明けてから家を見にもどったが、我が家は跡形もなく流失し浜口さんの二階が居座っていた。
私は涙が出てとまらなかった。
父は私が十四歳の時に他界しており、祖父、母、弟妹の五名で、どうしたらよいか路頭に迷う感が頭を過る。前夜勤務から帰り、正月の晴着に作った着物を長押に掛けてあったが、今はどうなったのか。娘十八の私には耐え難い悲しみであった。昼近くになって昌寿寺で炊き出しがあると知らされ、ようやく腹をつくることができ、明日からの希望も生まれて来た。しかし今夜から泊る所も無く、山頂で二日間野宿の生活を余儀なくされた。
三日目から親戚の宅で泊めていただくことができた。親戚の方々が応急住宅を建てて下さり、家族一同が雨露をしのぐことができ、泣くほど嬉しうございました。救援物資として旧軍服や毛布等の配給を受け、更生して着用し暖を取る生活が始まった。こうして徐々に復旧して行くことになった。
私の家は代々海産物加工業を営んでおり、仕事の便宜上、昭和十七年ごろから母屋から浜の加工場の方に家族全員が移り住んでおりました。昭和十九年八月に父が海軍に召集され、二十年に大阪で戦災に遭った貞子叔母が、続いて和歌山市で戦災に遭った叔母(柳本花子と子供二人)が帰郷し、総勢十二名が一緒に生活をしていた。母屋には昭和二十年秋海軍より復員して来た政男叔父とその家族が住んでいた。
南海道地震のあった昭和二十一年、私は一年遅れで県立海部中学校(現日和佐高校)に入学し、戦後の混乱の中を汽車通学していた。
十二月二十一日午前四時ごろ、小用に起きた私は見るともなく沖を眺めた。スルメイカを釣る漁火が水平線いっぱいに連なり、浜辺に寄せる波は快い音を響かせていた。当日二階には私と祖母、貞子叔母と柳本の家族が、階下には母と四人の弟妹が就寝していた。再び二階に戻った私はもう一眠りしようと布団にもぐり込んだ。その時であった。
ゴーという地鳴りと共に大地震が起きた。それは未だかつて経験したことのないものすごい揺れでありました。天井から吊された電灯が天井に二〜三回打ちつけられたとと思った途端に灯が消えて暗闇となった。最初には「世直し世直し」と唱えていた祖母は「これはどうしたんな。これはどうしたんな。もう堪えてくれ」と泣き声になっていた。どのくらい続いたであろうか。大きく烈しくすごく長く感じた。階下の母と弟妹たちはすぐに浜に飛び出した。二階では貞子叔母が地震の揺れの最中に「早う逃げんと怖い」と言って階段の途中から落ちてすり傷をつくった。二階にあった箪笥鏡台等の家具類はことごとく倒れてしまったが、それでも幸い全員に怪我は無かった。ようやく揺れが止んだ。津波が来るかも知れない。衣服を着けるべくマッチを探したが気が動転してか見つからない。服は箪笥の下敷になっていたので、それを持ち上げようとしたが重くてどうすることもできない。
浜に逃れた母らは鈴木のおば(父の従妹で平滝の納屋に住居していた)とその家族に逢い地震のすさまじさを話していた。「潮が来よるぞー、早う逃げえよう!!」とタンガの方からの叫び声に、母は弟妹たちを連れ鈴木の家族らと「おまいら、早う逃げよう。津波ぜ。津波が来よる言よるぜ。おたいら、先に逃げるけん。早う逃げよう」と言い残して家を後にした。鈴木のおばは逃げる途中、何か食料品でも持って来なければと家に引き返したが、二人の子供は母らと共に逃げた。母は母屋の叔父家族に津波の襲来を告げ、昌寿寺山に逃げるべく福岡鉄工所の露地に入ったが、行く人帰る人でどうすることもできない。やっとの思いで引ぎ返し杉王神社へ一目散に逃げた。
私たちもぐずぐずしておれないと家を出て前の富田源吉さん宅までくると、町は避難する人々でごった返しているが、大喜田由蔵さんが「津波ってほない早う来るもんじゃない。わしが沖を見てくる」と平滝の加工場(現泉源第二加工場)の方へ曲った途端「早う逃げえ!潮が来よる」叫びながら引返して来た。いっしょに二階から降りてきたはずの祖母らの姿が見えない。しばらくためらっていると「正ちゃん早う逃げんけ。おばあさんには叔母さんらがついとる。早う早う」とのことで一団を作り、八坂橋のうえを目指して逃げる。
八坂橋の辺りまで来ると後から数台の大八車を引いて走るような音がする。橋の下の水は異様な音を立て逆流していた。これはみんな津波が侵入する際の潮の音だった。春木正義さん宅の前まで来たとき、町の方でものすごい音と共に津波の襲来である。
「助けてくれー。イヤー。助けて!!」それはまさしく修羅の声であるが、どうしてやることもできない。やれやれ無事に助かったと思った途端、急に寒さが身にしみてきた。そのはずである。着用している物は素肌の上に絣の袷の寝間着一枚で素足に藁草履の姿である。また家族の安否が気になって仕方がない。祖母は、叔母は、従兄弟らは無事に逃げたであろうか、母や弟妹たちは?。
ふと気がつくと和田八郎さん宅の前まで来ていた。大勢の人達といっしょに和田さん宅に上げてもらい囲炉で火を焚いていただき暖を取った。
一方祖母や叔母達は杉王神社に逃げたが、貞子叔母は途中で米を取って来ると言って引き返し潮に流される。政男叔父は家族を先に避難させて自分は引き返し、先祖の位牌を持って八坂橋を目指したが、時すでに遅く久佐木さん宅(現小磯邸)の前で潮に遭い、久佐木宅の槙の木によじ登り難を免れた。第一波の潮が引いて「助けて、助けて!!」の声に近寄って見ると、貞子叔母が大きな流木に狭まれ身動きができずにいるところを、花野さん宅横で運良く助け上げられた。同様に食料を取りに帰った鈴木のおばは中磯さん宅の横まで流され、この時の怪我が元で病気となり後年亡くなった。
夜が明けて帰途についたが八坂橋の欄干が完全に流失しており、大谷の田圃には流失した家の残骸や小舟などが見え、西念寺の境内には流失した家財等で瓦礫の山と化していた。もちろん国道は塞がれ折重った全壊の屋根の上を伝いながら帰る。久佐木宅の前から海の方を見ると、まるでバリケードを築いた様に家や納屋が圧縮され行く手を遮っており、無惨とも何とも言いようのない光景であった。浜口磯次郎さん、羽里常一さん宅は半壊し、佐山さん宅は流失して跡形もなく羽里の隣にあった平滝と共同の倉庫も流失していた。富田さん、大喜田正司さん、西漁協旧事務所(現西浦会館)等も悲惨極まる姿となっていた。
私方はアマ納屋(鰹節を製造するため火を燻す建物)だけはなぜか無傷で残ったが他は全部壊され、私たちの寝起していた二階は落下し傾いていた。狂っていた潮も次第に落ち着くころ、母や叔父叔母達が帰り喜びも束の間、すぐに大掃除に取掛ったが余震にたびたび驚かされた。
昼近く満石のおじさん夫婦が食料品を携え見舞に訪れ非常に嬉しかった。余震や潮の心配で、その夜は杉王神社の通夜堂で泊らせていただき、翌二十二日から一週間ほど一族全員が満石さん宅でお世話になり、なおも続く余震におびえながらも後片付に励んだものだった。
「ゴーウ」とものすごい地鳴りに目が覚めた。母屋は古いためガタゴトバリバリとひつこいほど揺れる。上物が落ちてぎそうなので、これは危ないぞと思ったが家から外に出られん。「みんな布団を頭から被っておれ」と指図して揺れが止むのを待った。
そのうちに地震も止み、裏口から外に出た。子供五人のうち一番小さい三女(豊美)は乳呑児でこの子を抱えて飛び出す。家の裏浜側に地引用の舟小屋があったが暗闇で何にも見えないが、その音で判断すると潮が来て舟が浮きガタゴトと流れてくるようだ。「もう助からん、皆、各自逃げろ」と命じ、裏の車庫の二階に祖父さんが寝ていたので、下から「祖父さん」と大声で呼んだ。「まあ慌てるなぁ」と言って降りてこない。「そんなことしよったら死ぬぜー」と言うとそろそろ降りて来た。「もう子供たちは皆逃げだせー」祖父さんは母屋の大黒柱にしがみつぎ「わしゃ家と共にする。くくってくれ」と言う。「そんなこと言うとったら皆死ぬぜー」と手を引いて外に連れ出した。外は逃げる人たちでごった返している。乳呑児を抱え祖父さん、家内を連れて小走りに昌寿寺山へと避難した。そのときの模様は口や筆で表せないうろたえ振りであった。
山に辿りつくと早速子供の安否を確めに探し始めた。眼下の大谷の田圃では「助けてくれ」と悲鳴があちらこちらで聞え、かわいそうだがどうすることもできない。潮が静かになって八坂橋の方へ探しに廻る。みんなの顔の色が無い。そのうちに次女(隆子十四歳)がずぶ濡れとなり伊吹さん宅まで逃げていた。話を聞くと、家を出て国道を西へ逃げたが、泉源の家が国道に倒れてきたので、あわてて前の羽里さん宅へ逃げ込んだ。潮が来たので居間に上りタンスの上に乗り第一波をしのいだ。また外に出て泉源の家の屋根を乗り越えると、第二波が白く高く押し寄せて来た。中島宅の前で倒れていたトタン屋根にはいあがり、屋根伝いに西へ走るもだいぶ流された。八坂橋まで来て第三波に逢う。橋の上まで潮が来て引込まれそうになり、欄干にしがみついて難を免れたと言う。
夜が明けてから我が家に帰ってみた。母屋は国道へ倒れかかっており、裏の車庫、隣の佐山宅がのしかかっている。倒れかかった車庫の下から声がする。「誰なァ」と言うと、次男(英次七歳)である。「助けて!」「出てこい」「出られない」この子は小さい時から気の強い子で生きのびたのである。近所の方々の手を借りて材木を取りのけ救出できた。その当時牟岐職業安定所新築のため石灰を買い車庫に積んであり、その横にうまめがしのボサが置いてあった。幸にもうまめがしという木は比重が重く、水には浮かぬ木である。
次男の話では兄ちゃんについて逃げたが、兄ちゃんは足が早く見失ってしまい、皆が来るのを待っていたが来てくれないので家まで後戻りした。家に帰っても誰もおらず、そのうちに第一波の潮が家の中まで浸水して来た。運よく石炭箱に手がかかり、それにしがみついていたら車庫の方へ潮と共に押流され、前記ボサと石灰の中へ流され足を取られ、人形を串でさした恰好で絶え忍んだ。
第二波の襲来の時は顎の下までつかり、もう三センチメートルも潮が高かったら僕は死んでいただろう。顎まで潮が来たとき、目の前に小魚が飛び跳ねるのが見えたという。
助けられて二階から乾いた服を取り出して着せ昌寿寺山へ避難させた。長女(重子)長男(由広)が見当たらないので八方探していると、二人がひょっこり帰って来た。「どこへ逃げた」と尋ねると「杉王神社まで逃げていた」と言う。お陰で家族には一人の死傷者も出さず、遅れながら逃げたが全員難を免れたことは、日ごろ信仰の加護だと深く感謝している。
(平成八年五月二十六日なくなられた。)
昭和二十一年十二月二十一日、私宅は、現在の新開菓子店の所に居住していました。
玄関は西向きで、玄関前の道路幅は現在と同じですが、路の辻に木の電柱が立っておりました。激震で母親を抱きかかえるようにして外へ出たが、目の前の電柱が暴風時に竹が揺れるように左右にゆれ、今にも倒れそうで、その場にすくんでしまいました。
揺れがおさまったころに、近隣の富田回漕店(現在石川食料品店)を経営していた今は亡き富田重雄さんが「津波や!」と大声で叫んだ。
その声が私の耳に入ってきたと同時に、大八車を引っばって走るようなガラガラと大きな音が南の浜の方より聞えてきました。
びっくりして母親をしっかりと抱えて、昌寿寺山へ早足に避難しようとした。北側の四つ角に手押ポンプの井戸があった、水田商店付近まできたとき、膝の部分まで潮が来ていました。
北に向かって歩き、福岡鉄工所裏の橋(当時は木造で路面は土で低かった)を渡った時は、既に潮は橋の上まで来ており、ようやく昌寿寺山に辿りついた。
余震を感じながらも東の空が明るくなってきた。たくさんの人たちが逃げて来てお互いに慰めあい、挨拶を交し、大きな地震だったと口々にそれぞれの状況ついて語っておりました。
私は家が気になって山をおりました。自宅は床上浸水で家の中はごった返して足の踏み場もない状態になっていました。靴、その他の履物一切が流失し、襖の中間ぐらいまで潮が来たので浸水線がくっきりと浮ぼりになっていました。
私は二〜三日して山を降り私宅に帰りました。私はこの大震災により、自然はすべてを教えてくれたと思います。自然に教わりながら生活できることは幸せかも知れない、強く思うことは自主防災の再認識と、生活面での自立が必要であろうと思います。
前日の夕刻「おーい沖へ行こうぜー」と向かう三軒両隣の海老名、古川両氏と共にいつものように沖へ出た。空は少々赤紫の夕日が西の山に入る。
その夜は下り潮が早いが、目的のするめはおもしろいほどよく釣れた。場所は出羽下で、早目に切り上げて、二挺櫓で牟岐港目指して進んで来たが内妻沖へ流される。牟岐港入り口の赤灯台まで漕いで来た時である。五剣山付近の山頂がピカピカと光った。
「あれは何だろうか」と誰かが言う。その瞬間舟は櫓が外れんばかりの大震動。エンジンの始動時のような上下動に飛び上った。
「こりゃ大きな地震やなあ」と海老名君が言う。この間距離にして六百メートルぐらい、満徳寺下の内港まで来る。舟を岸に着けてバッテリーをおろすため足を岸壁におろしたが足が着かない。
「あらァ」と海面を見る。海水はどす黒く泡がいっぱい浮いてきた。
桝田幸次さんが隣舟から「津波じゃ」と知らせてくれた。「錨を入れて」と海老名君が言う。古川君がぽかんと錨を投げ入れた。「こりゃ大変だ大津波じゃ」と海老名君が叫ぶ。しかし舟から離れることもできず、うす暗い港で待機していた。
ゴウゴウと音をたてて潮がこんで来る。最大の潮は漁舎の庇まで来た。中河原や中の島、木屋の山で「助けて!!」とがぜん騒がしくなり、生き地獄と化して行く。しかし狂った潮の中でどうすることもできない。そのうち第一波の引潮となる。大敷網の曳船が港内では危険だと沖に出る準備をする。
それじゃと錨を捨ててこの曳船について牟岐川に出る。引潮と曳船の力で一瞬のうちに一文字堤防を乗り越え小張まで流される。この速さにはさすがの漁師でも度肝を抜かれた。小張沖で第二回の錨を入れて待機する。
港からは家、家具、材木など浮遊物がいっぱい流れて来て海面が見えない。次第に夜が明けて浜が見えだすと「こりゃ大変。家も家族も無いぞ」と不安が募り出す。もうやけくそだ!!男一匹になってしもうたと舟の艫に行き用を足した。
その時無人の和舟が一隻流れて来た。海老名君が中磯の舟だ、拾うてやれ、ということでこの舟に私が乗り移る。次第に潮も小さくなったが港に入港できず西の浜へ舟を着け上陸した。
浜筋では家、納屋、加工場などほとんど流失して見る影も無い。急いで我が家に向かう。家は健在で浸水もなく、前の道路まで潮が来た跡がはっきりとしている。家族の安否を気づかって昌寿寺山へ走る。病身の母も父も弟妹たちも元気で休んでおり一安心した。
眼下の田圃では浮遊物が山のごとく押し寄せ、目を覆う有様で犠牲者も一名ありました。幸にも我が家には被害も僅少だったが、沖で舟の中から西浦の町を眺めつつ安否を気づかう心境は何にも例えよう無い心細さ、二度と思い出したくない。
(旧姓加藤)
物凄い地響きと共にガタガタ、バリバリと揺れ出しました。
大地震です。当時は父、兄、私と三人の生活でした。津波のことは全然知らず、兄は大したことは無いと言ってまた床につきました。
その時です。近所の後戸さんが「津波が来るぞー」「井戸の水が噴き出しているぞー」と大声で叫んでいるのを聞き、飛び起き玄関の雨戸を開けたが開かない。裏口に廻るも積んであったオロサが倒れてきて引戸が開かない。また玄関に廻り雨戸を叩き割り三人が屋外に飛び出したが、既に近所の人々は逃げて誰もおりません。梶田の角まで来たら浜の方向から潮が押し寄せて来ました。「助けてくれ」と誰かがセイロにしがみつき流されて来た。
しかし助けることもできず夢中で昌寿寺山めがけて逃げた。
瀬戸川橋まで来ると橋の上まで潮が来ており、三人が手を取り合って無事渡り山に駆け登りました。避難することが一刻遅ければ命を落す瀬戸際でした。下の田圃では「助けてー助けてー」と何とも言いようのない悲鳴が各所から聞えてきて耳を覆いました。しかしどうすることもできませんでした。
夜も白々と明けて眼下を見ると我が家、近所の家々も無事で安堵の胸をなで下ろしました。しかし真下の田圃には浮流物が山のごとく流れつき、何とも言えぬ悪臭が漂っており、一人の犠牲者が発見されました。あれから五十年過ぎた今でも走馬灯のように脳裏に甦ります。
昭和二十一年十二月二十一日、当時私は機帆船第二益栄丸の船長として機関長、甲板員と共に本船に乗組んでいた。
同日は天候快晴海上平穏で絶好の航海日和であった。私は同船に木材を満載して、阪神方面に運搬する予定で木材の積出港である高知県安芸港に早朝到着するため、午前四時十分ごろ牟岐港内西船溜りを出港した。機関も好調で快適な航海を始めたが、出港後間もなく船が出羽島西方を航行中、突然船底付近で「ドドンドドン」という感じの衝撃があった。船橋で安心して操舵していた私は直ぐ機関を停止とし、他の二人と共に船外付近海上を調べたが船は惰力で動いており、海上も平穏を保っていた。衝撃の直後は出羽島の岩礁にでも乗り揚げたかと一瞬思ったが船の位置は岩礁のある場所では無いので、これは大地震だと確信した。三人で四方を監視していたところ牟岐の町の灯火が一瞬のうちに全部消え、続いて浅川の全灯火が消えた。
何かの異常を感じ直ちに船を反転し牟岐港へ引き返すことにした。牟岐港口に来た時はもう小型漁船や倉庫の屋根、ドラム缶など多量の浮遊物が流れ出していてこれ以上、船の運航は危険と思い、西の浜沖で錨を入れ停泊した。その後も駅の貨物と思われる荷札付きの物など、種々雑多の品物が次々と付近を流れて行った。夜明けと共に西の浜方面を見たら旧堤防外にあった舟納屋、網納屋、加工場などは総て流失したのか跡形も無くなっていた。
抜錨し浮流物を避けながら西船溜りに入港繋船した。船溜りには一隻の船もなく付近を見ると中の島岸壁沿いの民家はほとんどの家は一階が流失し、二階が残った状態で大川橋の欄干に魚網が相当量ひっかかっていた。小橋脇の牟岐町警察署の屋根には機帆船の船首部が突込み押しつぶしていた。
私は家族や我が家が気になり急ぎ帰ることにした。満徳寺は外見無事であったが亨楽座は押しつぶされ、屋根には小舟が乗っていた。八坂橋に至る旧国道に入ると浜側にあった家屋のほとんどは全半壊の被害を受けており、国道を塞ぎ、通行が困難であった。
ようやく家にたどり着いたところ、玄関の土間中央に、防火用水槽として戦時中から、玄関の外に置いてあったコンクリート製丸型防火水槽が約十センチメートルの敷居を越えて、ドンと居すわっていた。潮位は床上約三十センチメートルまで来ており壁や襖に浸水跡を残していた。
家族は地震の直後、津波の恐れを感じて八坂橋を渡り山まで逃げたが、逃げる際に古人からの言伝えに、「津波の時には家の四方、開け放して逃げれば、潮は家の中を素通りして建物はそのまま残る」と聞いていたので、四方開け放して逃げたそうだが結果的には戸締まりをして逃げた方が、家の中が荒らされず良かったかなあと思ったりしている。
当時私は海部高等女学校の一年生でした。南海道地震発生は二学期末テストの日で、午前三時ごろから起きて勉強しておりました。当時伯父が徳島の学校へ毎日一番の汽車で通学していたので、祖母がいろりで火を焚きお茶を沸かしていました。ものすごい揺れで祖母はあちらこちらとひょろけながら台所からほうろくを持って来て、いろりの火にかぶせました。私は外へ飛び出しました。
当日父は夜釣りでスルメ掛けに行って留守でした。祖父は地震があまり大きいので、津波が来るかも分からないから杉谷の杉本(母の実家)へ逃げて行くようにと言って、家族七人が上の町を走ったように覚えております。天理教会の付近についたころ、浜の方からゴーという音が聞えてきました。
母の実家まで行くと、あまりにも静かで津波など嘘のような気がしました。でもしばらくすると知り合いの人たちが全身びしょぬれで青白い顔で逃げて来ました。家の前では大きな焚火をして濡れた着物を乾かしたり、借り物の衣服で暖を取っておりました。びっくりして見ているうちに夜が明け、父が尋ねて来てくれ子供心に安心し嬉しかったです。我が家のことを尋ねると土間に少し潮がはいり、芋壼にも少々の潮が来てたとのこと。それじゃいつでも家に帰れると思うとすぐにでも帰りたくなり、母に早く帰ろうと言ったことを思い出します。
学校のことが気になりましたが、テストも無く二学期は中間テストだけの通信簿でした。当時はバス通学していたのですが浅川の入口の粟ノ浦までしかバスが行かず、粟ノ浦から大里(海南町)まで歩いて通学しておりました。浅川の津波跡を見て再度津波の恐ろしさを知りました。死者を担架で運んでいるのを見たり、上級生二人が亡くなり悲しみにくれ、今でもその方々の顔が目に浮かんできます。
ゴーウとものすごい音と共にガタガタバリバリと大地震、立つこともできず右往左往する子供たちに服を着せることが精いっばいでした。私はちょうど妊娠五か月の身でした。「母は強し」と言いますが私も揺れ止むと同時に、一番下の子供を引っ提げて屋外に飛び出した。ところが父ちゃんと長女、長男が出てこない。
やかましく言うとゆっくりと出て来た。「外は案外寒いなあ」と父ちゃんが言う。気をつけて見ると天窓が飛び散り青天井となっていた。あちこちの戸もはずれ、そこらじゅうに品物が所狭しと散乱している。私は逃げることに懸命、父ちゃんは案外のんびりしていた。そのうちにタンガ(弁天組)の人が大八車を引いて早々と逃げていると思ったが、よく気をつけてみると大八車の音ではなく津波の浸入する音だった。
外を見ていた父ちゃんが急に「あの潮見てみい」と言う。見ると早、西の方から泡のごとく白い潮が飛んで来る。その早いこと、早いこと。何どころじゃない。私は二女をおいごも着ずにやっとのこと背負い。長女をおぶった父ちゃんが「この手にしっかりつかまっておれよ」と私の手を引いた。ところが長男の好二が見当たらない。「好二、好二」と呼んでも音も沙汰もない。もうこうなったら見捨てて逃げようと私が言うと、父ちゃんは動こうともしない。「隣の久岡のおじちゃんについて好二は逃げたんと違う」と言うと「じゃあ………」と言って逃げ出した。潮はどんどんと来ている。
第一波は亀田さん宅前で引潮となり、父ちゃんが「どこへ逃げるんなあ」と言う。私は「上の家へ行こう」と、父ちゃんが「そりゃいかん。山へ逃げよう」と言うことで、八坂橋めがけて一目散に走った。
国道は人の群でなかなか進まない。八坂橋の下はもう白波が逆巻き、ゴウゴウと無気味な音を立てていた。橋を渡るとほっと一息ついた。よく見ると近所の友久ヨキエさん、桝田ミツエさん、久岡隆一さんと共に好二がいた。「お前どないして逃げたんなあ」と父ちゃんが聞くと、「皆逃げよったんでついて逃げた」と言う。
まあ何にしても一安心した。昌寿寺山の頂上では暖を取るため、一か所焚火が始まった。大谷の田圃の方では「助けて、助けて」と悲鳴が聞こえるが助けてやることもできず、ただ呆然と寒さを堪えることしか考えられなかった。
そのうちに東の空が明るんで来るし、津波も次第に小さくなり家の安否が気に掛りそろそろ帰り始めた。我が家に帰るまで数軒の家が国道に倒れていた。もぐったり乗り越えたりして、ようやく家に辿りつくも屋敷に家がない。隣の久岡さん、亀田さん宅まで押し流され、全壊してしまっている。
家財はどこへ消えたのだろうか。常識で考えると瀬戸川の方向へ流れると考えたが、この津波は西側のタンガ(弁天組)の方向から、瀬戸川と東の浜筋方向に別れて潮が動いたことが、家屋や家財の流れた方向でよく分かった。そのうちに久岡吉蔵さんが「お宅のアルマイト製四升釜が家の前まで流れて来ていた」と持って来てくれ、「あの付近へ家財が流れて来ており、早う取りに来いよ」と伝えてくれた。また斗櫃に米を保存していたが、国道まで出て東側に流れ浜田さん宅玄関まで流れ込んでいた。お蔭で家族に死傷者もなく本当にありがたかった。
昭和二十一年十二月二十一日。これは忘れることもできない厄日である。私は商用で徳島へ行くべく午前四時前に目が醒めた。
持参する品物を揃えていると、「ゴウー」とものすごい地鳴りと共に大地震となり、立っていることもできない有様である。
家内は身持ちで大きな腹をかかえていた。時計は四時十分すぎであった。「これは大変だ、外に出るか」と家内に言うと、家内は「外は瓦が落ちて来てよけい危いぜ」とのこと。この時、浜の納屋の二階に寝ている弟、妹のことが気にかかり、とっさに家を後にして浜の納屋に来ていた。「泰典、千代子」「はい」「起きているか」「はよう出てこい」「津波がくるかも分からん。兄ちゃんは」「兄ちゃんまた寝ている」「早う起こせ」二人はあわてふためいて二階から降りて来た。「大谷の龍馬の家へ逃げて行け」と指図して浜へ出た。
浜では四〜五人が家から逃げて来て焚火をしている。「おまはんら津波が来るぜ。早う逃げなんだら」と言い残し家に帰る。
家内は出産用具と子供の寝具を整えて待っていた。「さあ逃げよう」と我が家を後にした。西念寺前まで来ると西の東地区から逃げて来た人たちでごった返している。元木のあわえから千代子が泣きながら逃げて来た。兄ちゃんの所へ行こうにも田圃の中ははや潮が来て歩けないとのことであった。
家内と千代子を連れ大きな包みをかついで八坂橋を渡り、現在の私の冷蔵庫前まで逃げのびた。橋の下は見えないがごうごうと音を立てて潮がこんでいた。大谷の田圃の方で「助けて、助けて」と悲鳴が聞える。しかしどうすることもできない。耳を覆いながら待つこと一時間余り、次第に東の空が明るくなってきた。
坂をくだって来てまたもびっくりした。まず我が家の方を見た。国道まで家が倒れ歩くことができない有様。道路より南側はほとんど倒れて完全な家は一軒もない。ようやく我が家にたどり着く。母屋は国道に倒れており、屋敷跡には南隣の亀田の家が居坐っている。防潮堤から外は、あれだけあった加工場や舟小屋、網納屋は一軒も無くきれいな浜と化してしまった。私の加工場も一棟だけ西念寺前まで流失して来て二階だけが居坐っており、残りの加工場は跡形もなく流失してしまった。親類からの差入れや
炊出し等で腹をつくった。わずか二時間余りの間に西浦の町は一大修羅場と化してしまい、戦争には負けるし財産はもくずとなり、これから先どうして復旧させたらよいか頭の中はまっ白となってしまった。しかし落胆しては駄目である。何が何でも石にしがみついてでも、家族が生活して行かねばならない。幸い兄弟姉妹が一致団結して家業に励み明るいきざしが見えてきた。
あれから数えて五十年、西浦で九名の尊い犠牲者が出ましたがその中に私の祖父も含まれております。
(旧姓井村)
当時私は牟岐郵便局に勤めており、西浦女子青年団の役員をしていた。二十一日朝、連合会長の富田さんと共に一番列車で徳島ヘバレーボールを購入に出市する予定で、五時前に起床し炊事場でお茶を沸かしておりました。突然大きな地響きと共に大地震となり、立っていることもできないほど揺れました。あわてて竃の火を消し身仕度を整えたが、気が動転してしまい家の中にこもっておりました。
私は津波に対する知識など毛頭ありませんでした。外で誰かが大声で叫んでいるのに気が付き、西側の出口から五歳の妹の手を引いて戸外に飛び出しました。ところが暗くて充分見えませんが、西の前方から真白になって潮が押寄せてくるのが分かりました。「アリャ」と思うも束の間にこの潮に呑まれてしまい、手を引いていた妹と共に屋内に押返されてしまいました。私の家は西浦の浜では一番高い所にあり、水産加工をしておりました。多くのセイロがうず高く積まれており、そのセイロの間に足を挟まれ、妹と共に仮死状態となり、時のたつのも知りませんでした。
ましてや大きな津波が三波も来たことも……。ふと気が付くと誰かが私の体を揺さぶってくれておりました。その人たちのお蔭で姉妹が生きかえることができ、昌寿寺山まで運んでくれました。
焚火で暖をとり、汚物を多量に吐きやっと正気に返りました。
後で知ったことですが家屋兼加工場でしたから、逃げるとき一階を全部開けたらしいのです。このため、階下にあった加工用道具類は全部と言ってよいほど流失してしまいました。家屋の倒壊は免がれ二階の物は流しませんでした。
弟もこの時流され、久佐木さん宅の角まで土桶に乗って流され、電柱にしがみつき難を免れました。
地震の発生は早朝の四時過ぎでまだ真暗であった。私の家族は両親をはじめ五人家族であった。当日は沖に出ていた釣客が早朝浜に帰る予定になっていたので、家族の者は幸い皆起きており、釣客が家を去って半時間くらい経ったころだった。ゴウーとものすごい音と共にガタガタ!!大地震だ。今にも家が倒れそうだ。あわてて屋外に飛び出した。しかし立っていることもできず、ただ抱き合って土地に座り込んだ。その時父が「早う山に逃げ、津波がくるぞー」と大声で叫んだ。家族や近所の人々は裏山へ逃げ込んだ。父は後を確認しているうちに津波に流され、運よく流れて来た舟にしがみつき九死に一生を得た。津波が込んで来た時のバリバリとあの無気味な音、この音を聞きながら裏山に逃げることが精一ぱいであった。
しばらくして東の空が明るんできた。引潮時に下山して我が家を確認する。家は残っているが中はメチャクチャで付近一帯は瓦礫の山と化していた。浜の入口に立ち沖を見ると引潮時には浜は四〜五十メートルも干上がり、舟は至る所に干上がっている。沖には流失した家屋や家財、浮流物で満杯、東浦沖の一文字防波堤の上には底曳網船が乗り上がっている。そのうちにこみ潮となり見る見るうちに港いっぱいに浸水し、また引き潮とくり返すこと数回、次第に小さくなっていき気持ちも少々落ちついてきた。山を越えて西浦に出た。西浦地区のうち浜筋、瀬戸川筋、満徳寺下の内港付近は全滅状態だ、小橋の上には機帆船が三隻仲よく乗り上げている。その当時牟岐漁港で完全に残っていたのは東浦沖の一文字防波堤だけだった。
今から約半世紀前の昭和二十一年(一九四六)十二月二十一日の子の刻の終わりに近づいたころであったが、不思議なほど、鮮明に記憶していることがある。それは当時十二歳で国民学校六年生の私が尾篭な話で恐縮だが、西の中の旧富田重雄氏宅の古い土蔵の壁に向かって寒さと恐怖におののきながら放尿していたという忘れ難い記憶である。
そのころ私は、この土蔵の前の出口家(現福岡家の駐車場)に祖母と母と三人で住んでいた。私の祖母アサノの実家、西岡家は二軒隣にあり、そこには東京で戦災に遭った二十一歳の叔母菊美が、ガランとした古びた広い家に一人で寝泊りしていたので夜は一緒に泊っていた。その時代の便所は母屋からかなり離れた所にあり、恐ろしくて玄関から旧国道を隔てた土蔵に前述の行為に及んだ次第である。
おりしも有り明けの寒月が耿々と照り輝き、その月明かりは美しさを越え、時々迷走する稲妻が無気味さを倍加し、筆舌に尽くし難い恐怖心に駆られ、私は金縛りにあった不動明王のごとくに身じろぎ一つでぎずに立ちすくんでいた。
それからおよそ四時間半後の明け方、私は現在の居住地である昌寿寺山頂の麦畑に避難して来た二百名にも達する人々と焚火で暖を取りながらも、冬の夜明けの寒気にうち震えながら轟音と共に眼下に襲来した巨大な水塊に魂を奪われていた。それは普通最大と言われている二回目の津波だったと思われるが、海面が異常に膨張したかと思うと、無数の海坊主が海辺近くの家並みを蹂躙している光景はさながら阿鼻叫喚の地獄絵のようであった。これが死者五十二名、倒壊家屋二百六十五戸、半壊家屋百六十二戸、流失家屋百九戸等甚大な被害をもたらした大惨事、M八・一の南海大地震により来襲した大津波であった。そして流失されたり全壊あるいは床上浸水のため住むべき家を失った人は多数この地で焚火をしながら寒い幾日を過したのである。
順不同で申し訳ないが次に前途の立小便の箇所から、地震発生時及びその後の様子と昭和二十一年の牟岐町の師走の有様を記憶の糸をたぐり寄せながらまとめてみたい。
それは大地が割れ裂けんばかりの激震であった。西岡家の表座敷で就寝していた私は仰天して飛び起き寝惚け眼を擦りながら子供特有の、身軽さで、いち早く道路に飛び出した。傍らの家屋や電柱が今にも地に伏し、倒壊せんばかりの激動が数分続いたのだろうが、その間は荘然自失、ただ恐ろしさで、うち震えたに相違ない。地震発生後から津波の来襲するまでの時間は約二十分と観察されているが、その間に私にとって生涯忘れることのできない強烈な思い出がある。それは旧宮繁氏宅の西隣にあった富出重雄氏宅所有の別棟(現祖川行雄氏宅)の南側の庭にあった井戸に釣瓶を投げ込み、カラカラと音がしたのを聞き「井戸水が無いぞ!津波が来るから早く逃げろー」と大声で叫んだ人がいた。その人物は当時その家に借家住いをしていて牟岐駅に勤務していた多田清美氏(現在小松島市在住)と思われたので聞きあわせたところ、地震直後の件は記憶にないが「二〜三日前から井戸水が少なくなってきていた」という証言を戴いた。私の記憶違いなのか多田氏が忘却してしまったのか今となって確める術がないのは、いささか残念である。しかしいずれにしても井戸水が数日前から枯れ始めていたことが確認された。
またその直後、浜の方から漁業者らしき人で「津波じゃ津波じゃ」との絶叫を聞いた。声の主は川崎吉蔵氏か富田重雄氏の声であったと思われる。さあ、それからが大変、転ぶように家に走り帰り、その旨を伝え何は取りあえず、祖母と私の二人が先に家を出た、全体的にはかなり、早い避難だったと思われるが、その時には既に多くの人々が八坂橋方面や、北の方向に動ぎ出していて、大八車のガラガラという乾いた音を背に聞きながら新開堂脇から福岡鉄工所横を経て昌寿寺山に駆け登ったのであった。
その途中現在のNTT宿舎近くで「助けてくれ」と言う耳朶を打った叫び声は今も忘れ去ることはできない、その老母と覚しき人は西の西の南部幸一氏宅近くのあわえに住んでいて犠牲者となった桝田レイさん(俗にオレイ婆さん)ではないかと推定されている。それはともかく母トクノと松雄叔父それに菊美叔母の三人が昌寿寺山に登って来たのは私たち二人よりも時間にして十分も後だったであろうか。玄関からは潮のため出ることはかなわず止むなく朝日会館(現木村宅)のあわいを通って花野米店横から浜内氏宅の横を経由して、昌寿寺山頂に至ったが、この時には福岡鉄工所付近の道路には潮が来ていた。また昌寿寺の登り口には大勢の人が集まり、宮繁先生の話では人々が殺到していて登られず今の隣保館横の禿山の方に迂回して逃げたそうだ。そうすると同氏の避難した時刻は母一行よりも少し後であったこととなり、その短時問内での混雑ぶりが想像される。
昌寿寺山頂に逃げた人たちは西の中の東側半分と西の東の大半の人々が逃げて来ていたようだった。また、先般叔母に所用があり電話した折、私の全く未知だった事実が浮かび上ってきた。それは前述の助けを求めていて犠牲者となったのは桝田レイさんではなく、西の西の川添テイさんの母で青木トヨさんではなかったかということである。
と言うのは私たちより後から登って来た松雄叔父が必死で助命を請うて絶叫していた老女を下山して救助したということを妹の菊美叔母が幾度も兄から聞いたと電話口で熱っぽく語ってくれたからである。
叔父松雄は五年前に他界していて確かめようもない。川添テイさんは百歳近くまで生存され昨秋他界されたが娘の政子さん(当時十八歳)の話によれば、震災の前日、東浦に住んでいた祖母のトヨさんは郵便局での用件を済ませて娘の婚家である川添家にやって来て、遅くなったので、その夜一泊し翌朝の大地震に遭遇した。地震発生後、程なく祖母、娘、孫娘の三人は手に手を取り合って八坂橋方面に避難をしたが、その橋の手前で津波に襲われ離れ離れになり、後から押されるように親類の田中氏宅に来てトヨさんがいないのに気付いた、多分水死したと半ば諦めたが朝になって一縷の望みをかけて捜査を続けていたところ、昌寿寺の庫裡に寝かされているのはトヨさんではないかと人伝に聞いて無事なトヨさんを発見した。
うす暗い部屋に横たわって手当をうけている、傍らに鍼医者の岡田万二氏と昌寿寺住職の二人がいた。御礼を申し述べて連れ帰ろうとしたが火傷による水膨が酷く歩行ができなかった。なお七十歳近くの老女で動転していた祖母を助けてくれた相手が誰であったか、ずーっと不明で約半世紀後の今になり始めて分かったということであった。ただ不思議に思われるのはトヨさんが救助された後、いつ、どこで、火傷したのかという点である。寒さに凍え死にそうなので焚火に近づけ暖めすぎたのではあるまいか?。その間の事情は現在も不明である。
私たち、家は二十一日からしばらく檀那寺の昌寿寺の庫裡に泊めていただいたが狭くて夜分も横になれない状況だったので、私と叔母の二人は、家が住めるような状態に復するまで、花野米店前の出口新一氏宅でお世話になった。とにかく、そのころの牟岐町の光景は言語に絶する。国民学校(現小学校)の校庭や大川橋の上には何屯という船が横転していたり、川長の田圃には小舟が幾隻も流れ込み、牟岐港内や役場付近も目を覆うばかりの惨状であった。私の住んでいた浜崎に限定しても旧国道を含む海岸寄りの家々は全て流失し、全半壊、床上浸水のいずれかの大被害を被っていた。
散乱した家屋の無惨な残骸、潮水に濡れた家具等が道々にあふれ見える物すべて異常な有様であったが奇妙なことにそうした視覚面の印象よりも消えやすい嗅覚による、それが遥かに強く残っている。浸水のため文字通り味噌も糞も一緒になって四散した品々から発する異様な臭気、とりわけ乾燥しにくい畳から出る異臭、悪臭は他に比類すべきものが無く今でも強烈に鼻を打つ。
寡聞にして非才の私の言語、知識、感覚を遥に超越して表現する方法を知らない。
そして半世紀、大震災の痕跡はほとんど町内には見られない。
その形跡を象徴的に表現しているのが最近随所に設置された津波の水位を示す碑であろう。それはともすれば忘れ勝な津波の恐ろしさを人々におもい起こさせ日ごろからその対策と心の準備の必要性を訴えている。
住民の生命、財産を守るため、年月、経費を要しても是非防災対策を講じ実現してほしい、それが行政の最大の責務であるはずだ。
当時は牟岐浦字浜崎一九五番地の木造二階建て、家族は祖母七十二歳、父五十一歳、母四十七歳と前年海軍から復員した私二十三歳、弟二十歳、妹は旧海部高女一年、末弟は牟小三年で計七名構成でした。
あの夜妹は二階で次の試験勉強で南側に、私は北側の部屋、他は階下で寝み、弟はするめ釣りに海へ出て不在でした。グラッグラッと大きく揺れてギチギチバリバリと震う、一瞬この家も戦争でやっと残ったのにこれでつぶれるのか、大地震だと妹に声をかけ雨戸を開けようとしたが駄目、段梯子の揺れが止まるや妹の手をひき降りた。停電で真暗戸外へ出て近所の人たちと恐怖を分けあったが、「津波が来るぞう」の大きい声に急ぎ帰宅して逃げねばならない。
祖母を連れて妹弟で三人は昌寿寺山へ急げと父の指図、母は胴巻きに貴重品と位牌を持ち、続いて祖母等を追った。父と話して前と後の雨戸は海水が流れるように開けた。箪笥の引き出し下二段を出して二階へ運び、さあ脱出に当たって昨夜配給のきざみ煙草やキセルとマッチを持った。暁暗を走る道に背後からゴーゴーと音が迫ってくる。全く後を振り向かず、逃げる人々と共に福岡鉄工所を左折し、昌寿寺の山道を目指したが人の群れで登れないので北側に回った。そこで家族揃ったわけ。妹の証言によると、私は大布団をかついで来たのでこれをかぶった由(背後も見ずに一目散に走ったのはそのためだったが、夢中で覚えていなかった)。
やがて海水が瀬戸川を逆流して付近が湖水のようになりまた引潮となった。駅の方から汽笛が響いたのが大きな安心感を与え、焚火をして輪になって災害の恐しさを話しあったが、そこで私の配給タバコは皆さんのやすらぎの一服となり、煙と共にすべて無くなったが憩いの役に立った。
(註)気温一度、日の出午前七時三分
満潮午前三時
夜明けを待って自宅がどうかと急いだ。浜内さんの横の路面が雨後のように濡れていた。潮が流れたのだろう。帰宅すると雨戸を開いたため海の潮が流入、床上約三十センチか畳と座板や家具が散乱し泥土がたまっている。畳や建具は使えないが家屋の現存を神仏に感謝した。裏の川崎ミチヨさんは波にもまれたが、私宅のコンクリート塀が手にさわり、私宅へ越して脱出した由(川崎さん宅は三名亡くなった)。戸外へ出ると「助けてくれと言いよるぜ」牟岐津神社の鳥居南側の倒壊した家屋用材や壁に押しつぶされた下から女の幼児の泣き声がもれる。近所の人や青年団員らとひとつひとつをはぎとるように廃材を除く。二歳か三歳かこの子は泣き声と共に助かったが、喜びもつかの間その母の大場つたえさんがその子をお腹の下に抱いて外圧をしのいで、幼ない生命を守り絶命した。母の強さ、母の愛をつぶさに教えられた。
その時点で津波の惨状は分かったけれど、人的な被害等知らなかった。家族でするめをかけに出た弟の安否、どうだろうと不安がひろがった。
海上にいた弟(一九八八年没)は友人と前夜に出羽下へ出漁、スルメは大漁だったが明け方に海水がふくれ上り、船のエンジンをかけたような音がひびき、東方の空に発光現象が見られた。そのうち出羽小学校への石段に、提灯の灯が続くのが見える。さては津波かと直感し帰りを急いだが、浮流物が舟に当たるなどで、朝七時ごろにようやく西浦の浜に安着した。弟は「父母や兄弟は死んだやろうな」と思うし、こちらは「海上の弟は流されて哀れ海の藻屑となった」と歎いていた矢先であり、互いに無事を喜んだ。その時も海面は不安定で沖の一文字堤防が海面に浮き沈む変動を繰り返し、大小の余震がありデマが流れ、人々の不安がつのる朝だった。
復員の翌年二十一歳の時でした。当時スルメイカが大漁で、終戦後の食糧難のこともあり、一般の人もイカ掛けに行っていました。
十二月二十日夜、小舟で内妻の沖へ出て漁をしていました。十二時過ぎに内妻の浜に帰り、舟を浜に上げ、夜も遅く寒かったので、中の島の自宅には朝帰ろうと思い、現在の民宿しらきやの前に住んでいた姉の家で寝ていました。
夜明け前、強烈な地震があり、全員屋外に出たが揺れが大きく、立っていることができず、地面が割れるのではないかと思い、畑の柵にしがみつき、どうにか揺れが終わるのを待ちました。寒い夜で、地震に未経験だったので、津波のことなど念頭になく、連れと服を来たまま床についた夜は静かでした。
私の耳に何か「ザー」という、木に吹きつける風のような気配がしたのです。はじめ外に出た時は、風が無かったのに、これは変だなあと思い、急いで外に出た。なにげなく西の春日神社の方を見た。現在の内妻川を渡っている新国道の辺りが、真白にふくれ上っているのです。これは津波だと思い、大声で「津波だ逃げろ!」とみんなを起こし、取るものも取らず、子供を連れて国道の方へ避難した。後で分かったのですが、「ザー」という音は、波が浜の砂利を押し上げる音だったのです。幸いにみんな助かりましたが、姉の家は跡形もなく危機一髪でした。
中の島の自宅も心配でしたが、道中が暗く、旧国道は遠くて道がどうなっているか分からず、夜明けまで待ち、東が白みかけたころ、中の島へ向かった。
八坂橋までくると、ゴミで一杯、これでは家があるのかなあと一層心配になりました。どうにか小学校の前まで来たが、平岡食堂の横の小橋の上に大きな船が横たわっていて通行止、しかたなく小学校の校庭に廻って、川向こうに立っている我が家を見て一安心。その後、家の者とも連絡がつき帰ってみると、家の中は足の踏み場もなく、一時ぼう然としました。母の話だと津波のことは頭にあったので、荷車を仕立てて、荷物を少し積んで早目に逃げたので、潮にもあわずに無事中村の知人宅に着いたそうです。
地震・津波は、海岸に住む我々には切っても切れないことで、このたびの体験を聞いたことから、次のことを念頭に置くことが必要だと思います。
一、一刻でも早く逃げる。
二、地震の後は、玄関の戸を締めずに逃げるまで開けておく。
三、どうしても道がふさがった時には、無理をせず、二階のある家は、二階に逃げる。逃げる途中で死亡事故にあった人が多い。
四、避難するコースは、避難所に向かって一番広い道路を。近道でも狭い道は家屋の倒壊等を頭に置く。
以上が私の南海道地震にあった時の体験です。なお当時は食料難で、流れてきたサッマイモを焚火で焼いて食べていた時、玄米のおにぎりをどなたかにいただき、その嬉しさと味は、今も忘れられません。今も分からないその方に厚く御礼申し上げます。
大津波の前夜は弟とスルメ釣りに沖に出て帰り、春日神社下の内妻川口に舟を入れようとしたが今夜は潮がよく引いて川口ヘ入れることができない、止むを得ず前の浜へ舫綱を長くして舟を繋ぎ家に帰り、床にはいって、まだ十分体の暖まらない時に、ものすごい地鳴りと共に大地震となりバリバリメリメリと無気味な音に目が覚めた。
大地震はかなり長い時間ゆさぶり、体験したことのない大きさに家族一同飛び起きて来て、揺れ止むまで待機して、屋外に飛び出した。前の皆谷豊さんと「今の地震はえらい大きな地震やったなァ」と話した。「こりゃ、もうこれだけじゃ、心配なかろう寝んか」と一同家にはいる。この時には津波の来ることなど誰一人として話す者はいなかった。皆が家にはいり座敷に上った時であった。外で大声がかすかに聞こえ、耳をすましてよく聞くと、対岸の坂千代の爺さんが「潮が来よるぞー」と叫んでいた。
こりゃ大変だと、裏口から着のみ着のまま裸足で飛び出した。
逃げる際に川口の方を見る。
昔から内妻川は「流し」と入って丸太を大水を利用し川口まで流して来て積んであった。この材木が潮で流される音、堤防を越して落ちてくる潮の音、川を逆上する時に小石を鳴らしてこみ上げてくる音、ガラガラ・ゴロゴロ・ゴウゴウ………。テレビで見るナイヤガラの滝のごとくに聞えた。
真暗がりであるのに、白く泡立つ様が見えたのが不思議でならなかった。幸いにも自宅から山までが近かったので足も濡らさず、白木松蔵さん宅裏山(現在の阿佐東線の鉄路)まで一目散に逃げることができた。
その時である。父が「オイ!!馬を置いて来たなァ」と言う。
当時私は十七歳の青年であった、「俺が馬を連れてくる」と馬小屋まで走る。馬は馬小屋でしょんぼりと立っていたが轡を持っていっても相手にしてくれないばかりかおじけて震えている、馬の背中に手をやると背中までびしょ濡れで、おまけに馬小屋の中に大きな杉丸太が流れて来ていた。もう少しでも潮位が高かったらお前の命まで奪われていただろうと思うと急に涙が出てきた。首に綱を掛け「ハイ」と声をかけて引き出すと、ついに出てきた。
この時またも潮がこみ始めてきた。皆谷国光さん宅前の楠の木の下まで連れて逃げて来た。そのうちに東の空が次第に明るくなってきた。丸山の方を見てまたもびっくりした。
潮位は国道の路面から一メートルもないくらいまで、はっきりと跡形を残している。あの潮位では国道裏の峯野宅や島屋敷方面まで浸水しても不思議ではないと感じた。
内妻川を上った津波は島屋敷へ渡る橋の下の堰まで来ていた。
また昨夜イカ釣りに行き、浜に繋いだ舟は内妻橋を潜り、島屋敷側の土手を越えて、私の田圃まで錨を引いたまま、漂着しており、津波の威力に感嘆させられた。
内妻では皆谷豊氏宅が流失、浦岡氏の納屋が半壊、私宅が床上浸水の被害を受けたが幸にも一名の死傷者も出さず一安心した。
夜も明け津波も次第におさまり浜に出て見ると、沖は見渡す限り藁類・セイロ・家財・ドラム缶等が下がり潮に乗り浅川方面に流されていた。
津波の晩は、恐ろしくて自宅で寝ることもできず白木さん宅の軒先を利用させてもらい夜露をしのいだ。小さな物音、予震にも身震するほど、神経が高ぶっていたが、時の経過と共に薄れていった。
光陰矢のごとしというが、月日の経つのは早いもので、あれから五十年経過したが内妻地区の今後の教訓として大地震が発生したら必ず津波が来るので近くの山か高台へ避難することと、学説によれば近い将来必ず来襲すると言われているので避難路を作り尊い生命と貴重な財産を守るよう子孫に伝え残しておきたい。
(旧姓田中、当時出羽島在住)
ドドーンと海鳴りのような音を暁の眠りの中で感じた。ちょうど誰かが床下で揺すっているような上下動、大地震だと直感し起きようとしたが立ち上れない。そのうちに横揺れに変わり何分間揺れたか恐怖のあまり時間の感覚が無くなっていた。
やっと揺れがおさまり、家族の安否を確め合い斜めになった柱時計は四時二十分で止っていた。
戦後の食糧難で天井から吊してあった干芋の篭が落ち、足の踏み場がなく、慌てて拾い集めた。
ラジオもなく全く情報が分からない。大地震の後には津波が来ると子供のころにお爺さんから聞いていたのが頭にあり、裏の堤防へ海を見に行く、まだその時は海辺は静かであった。対岸の牟岐を見ると五剣山、胴切山に灯が点々としているので牟岐の人々は早、高い山へ逃げていると思ったが後で分かったことだが、これは炭焼窯が破裂して燃えていた灯であった。
二十一年の冬はスルメイカの大漁でカーバイトランプの集魚灯の漁火が美しく輝いていたのが印象に残っている。
堤防から家に帰るなり、消防団長の島本八郎さんが「津波がくるぞ!!早う逃げー」と大声で叫び島民に知らせて走り去った。妹たちに余所行きの服を着れるだけ着るようにとタンスから放り出した。ご飯のオヒツを包んでいるうちに妹三人は外に飛び出し走って逃げた。父母と三人で外に出たらもう潮が下の道まで浸水し漁協のドラム缶がぶつかり合い無気味な音がしている。
押し寄せてくる浪頭が暗い中で白く光って見えた、誰かその潮の方へ歩いている。母と二人で引張ってくると、家族からはぐれ一人となった隣のお婆さんだった。潮はもうそこまで来ており、山の方へは逃げられないので家の前の鎮守様(鎮守権現)の石垣に大きな椎の木があり、近所の逃げ遅れた人たち四〜五人が根元に登り潮を引くのを待っていた。
島本のお婆さん(息子が消防団長で救助に出て家には年寄り、子供が残っていた)が孫を背負って避難中逃げ場を失い腰まで濡れ綿入れのネンネコが水浸しとなり石垣に引揚げるのにすごく重かった。
子供のころから遠方の地震で高潮程度の津波は経験していたが、押し寄せてくる津波には足がすくみ流れの早い中で膝坊主までつかると、とても歩けない、引潮時には多量の浮流物を運んで行く。
やがて東の空が白みかけたので再度堤防に上って見ると島の周囲の海岸は不思議なほど、水位が上っていない。
堤防を逃げた人たちは足も濡らさず山へ逃げれたのに、港の周囲の道を逃げた人々は濁流の中を泳ぎ、子供たちは家の格子に掴まって難を免れた人が大勢いた(そのころの家の表には格子のはいった家が多かった)。
出羽の港は巾着港で台風時には牟岐の漁船が避難してくる良港で、狭い入口からのこみ潮で港の水位は上昇し、引潮に漁船は投錨したまま外海へ流されたが、幸にも島の近くで発見され、遠く土佐沖まで流れたのも全部戻ってきた。漁業者には船は生活の命、幸い大きい船が入港しておらず、もしも大きい船がいれば道路まで上り浅川のように家屋や港湾に多大な被害を与えたと思う。
すっかり夜も明けて流失物を除けながら妹たちの安否を気使い山へ捜しに登ると観永寺に大勢避難しており、寒さをしのぐため、お墓の花を寄せ集め焚火して暖をとっていた。
一年生の妹は寝巻一枚で寒さに震えていた近所の子供に自分のオーバーを貸してやっており、助け合う心が嬉しく感じられた。
地震直後、舟が安全だと舟に避難した者もあったが、消防団長に津波の報せで急きょ丘に上がり難を免れた者が何人かいた。
海を見ると、対岸の牟岐から浅川は地続きのごとく一面茶色と化し、家財や浮流物で埋めつくされ、歩いて渡れる程被害が大きくただ驚くばかり……
家に戻ってみると床下浸水で畳の裏が濡れている程度、台所の方は床上浸水で味噌も糞も一緒になり畳の上で小魚が逃げ場を失い、跳ねていたのが印象的だった。
避難時に玄関の戸を開けたまま逃げたので、土間の物は何一つなく流れており、その後の履物に困った。
一番苦労したのは島に数か所ある共同井戸の水脈が狂い、細々しか出ない水を貯め、婦人会で順番を決め汲み水を分ち合っての生活を体験する。
出羽島ではお婆さん二人が犠牲となった。一人は山へ避難中、引潮に足をとられ港に落ち遠い大平洋に旅立ったまま今でも帰らず、もう一人は宵に牟岐へ渡り親類に泊っていて津波に逢い大牟岐田の田圃の中で死体で発見されている。
私は当時二十一歳。あれから五十年、高齢者となった今、約百年ごとに必ず来るという津波に対して、隣近所に声を掛け合い、港の周囲の道よりも堤防から高台へ避難するよう孫たちに語り聞かせておくことが私たち体験者の義務ではないかと思い、また使命ではないでしょうか。
(当時出羽島在住)
今年も十二月二十一日がま近かです。五十年過ぎし今も恐しかった津波の惨事がまざまざと目に浮かびます。私はその時十七歳でした。
朝方の眠むたい時刻で夢うつつ、あー地震や!と目はあいたけど起き上がりもせず、もう止むかと思っていたら、ますます揺れがひどくなります。
そのころ未だ天井板も張ってない納屋の二階が気にいって、私の部屋にしていました。父が仕事の合間に天井板を張ってくれるつもりで、木材を梁に渡して上げてあったのが、ドタンバタンと落ちて来るし、布団をかぶって小さくなっていると、下から父が大声で、「この大きな地震に何しょんや早よう下りて来い」とどなるので飛び起きました。階段はミシミシ揺れるし、足はすくんで動かれずモタモタしていると、父が中途まで上がって来て、私を引きづるようにして下ろしてくれました。「こんな大きな地震やと津波が来るか分からん」と母が言うと、「チイは早よう逃げ!」「ぞうりをはいて早よう早よう」と両親にせきたてられて外に出ましたが、津波やったら家が流れてしまうのやろか、何か持っていかなと思い、部屋にもどると、宵の家内中の洗濯物がたたんであり、大あわてでそれをひっくるめて、それだけ持って飛び出しました。
道々人の波に押されるように暗い山道を手さぐりで、誰かさんのちょうちんの薄明かりを頼りに、夢中で坂を上がって波の怖さも知らずに逃げました。師走の寒さはちっとも感じませんでした。
やがて東の空もあからむころ、そろそろ下りかける人の後について、私も両親どこやろかと恐る恐るお寺まで下りてみると、「お母やん、お母やん」と泣く子やら、じいやん、ばあやんと呼ぶ声、沖より引返して来たお父さんたちが、奥さんや子供の名を呼んで家族を捜すのに大騒動です。私も半泣きになって両親を捜してうろうろしていました。
庭で焚火をしているので行ってみると、濡れた人たちが大勢火を囲んでオッシャイ・ヘッシャイです。その中に両親を見つけた時の嬉しかったこと、一お母やん」と飛びついていけば、母もびっくりして、「どこにおったん、早ようあたらしてもらい」と中にひっぱりこんでくれました。「おったか、おったか」と父は私の肩を抱いて自分の胸で風の垣をしてくれたものです。
火にあたりながら、沖から引返して来たおっちゃんの話によると、「今日は潮の流れがむちゃくちゃ早いな、おかしいな」と言いながらふと島の方を見ると山に火があっちもこっちも見えるし、その火が上に上に登っていくので、これはただごとでないと引返して来たんや」と言っておりました。
後で気がつけば、母の着物は火に焦げてぼろぼろ、私が初めて縫った本身の袷やったので、縞柄や色は今も忘れません。戦後一年経っていてもまだ食物も十分でなかったので、私の出た後も両親は、米麦はもちろん押入れの梅のつぼやら手当たり次第に二階に上げたりで暇どり、裏口に出るのと同時に波が押しよせて来て腰までつかったとか。父はそれでも波をかきわけてでも前に走ろうとする時、母は子供のころ祖母より聞かされた「津波の時は前に出んと裏に上がるんや」と言ったのが頭にひらめぎ、父をひこづって裏に上り、土手伝いにお寺に上ったそうです。昔の話を聞いていなければ二人共に押流されてどうなっていたか分かりません。頑固な父も津波の話が出るたびに、「あの時は春枝にひきづられて助かった」と一つ話にしておりました。—安政の津波には、土手に切干大根を干してあったのが、そのままあったので裏は大丈夫!—と聞かされていたそうです。
「いつかまた、忘れたころにやってくるので、おばあさんはもう会わんけど春枝はようおぼえとき、それから火の始末忘れんよう、なんぼあわてても素足で飛び出んように必ずぞうりはいて」と折にふれ聞かされたのが、とっさの時に思い出して本当によかったです。
やっと夜が明けて家にもどってみると、どこから片付けてよいやら、「あいた口がふさがらんとはこのことや」と母、何しろ水洗便所でないのでそこらあたり一杯で、「どないしょ、どないしょ」と立すくみました。父はご近所まわりして前のおばあさんが見当たらんというので、家の片付けどころでないと飛んでいき、みなさん総出でくまなく捜しましたが見つからず、海の方も何日も何日も捜しました。ニコニコと私たちにもやさしかったおばあさんはとうとう見つからんままでした。もう一人四軒向こうのおばあさんは、たまたま牟岐の親戚に泊っていて流され、出羽島では、おばあさん二人の犠牲者が出ました。
家は相当傷んだ所もありましたが、軒までつかっても流れた家はありません。私の家はちょうど襖の引手までつかりました。なかなか張り替も間に合わず長い間、「ここまでつかったんよ」と言うように線が入ったままでした。両親の布団もずぶ濡れかと思ったら畳の上に重い物がなかったようで、浮き上がって濡れずに助かりました。タンスの中の母のよそ行きの着物が全部つかって、特に留袖の紋も裾模様も裏のモミが染んでしまってあわれなものでした。私の一張羅の着物は幸に一番上に入っていたので無事でした。着物の洗濯など後まわしで、毎日毎日床下をはぐって、畳を干したり何日かかったかそれは大変でした。大分日がたってから、大八車を借りて辺川の川まで父と着物の塩出しに行ったり、いろんな目に会いました。
その後、赤痢患者があっちこっちで出て、島でも何人かの人が亡くなりました。私の育った家は安政の津波の時に新築してまなしやったとか、二回も津波に会ったわけで、建替えの時住みなれた家こぼしを心淋しく眺めておれば、近所のおじいさんが「津波に二回もあったのはこの家だけや、それでも無事やったのにつぶすのは惜しいナー」とそんな声もあり感無量でした。これだけ進歩しているのに、津波も台風のように予測できればいいのにとつくづく思いました。
五十周年を機会にまさかの時に、安全な近道を家族みんなでよく、よく話し合いましょう。いつか役立つ日はあって欲しくありませんが、天災はいつ来るか分かりません。私の体験したこと感じたことを一筆したためました。
(旧姓島本、当時出羽島在住)
昭和二十一年十二月二十一日早朝、大ぎな地震で目がさめました。すぐ止むかと思って布団を被っていましたが、あまり長いので家族は皆外へ出たようでした。外から祖父の「早よう出て来い」と言う声を聞いて起き上がりましたが、大きく揺れるランプが落ちないかと気になって外へ出ることができず、その場で必死で服を着ていました。地震が止んで家族が家に入って来た時は、全部服を着終わっていました。父は「こんな大きな地震の後は必ず津波が来る。お前たちは向かえのおばあさんくへ先に逃げとれ」と言いながら、自分も身仕度をして漁協の方へ出て行きました(当時父は出羽島漁協に勤めており、消防団の役等もしていた)。
私は当時六年生、弟(四年生)、妹(一年生)と三人で学校のカバンを背負い、上から落下物があるといけないと父に言われ、小さな布団を四つ折りにして頭に乗せ、二人に離れないように両方から私の半纏の裾を持たせ、途中で転んだりもしましたが、小学校下にある祖母の家へ逃げました。岩本さんの角を曲ると漁師のおじさんたちが五、六名港へ船の様子を見に来ていました。その中の顔見知りのおじさんが「お前らどこへ行っきよんな」と言うので、「津波が来るや分からんけん、おばあさんくへ行つきよる」と言った記憶があります。まだその時は港の中の様子も分かりませんでしたが、私たちが逃げるのが早かったので島の人たちの様子も分からず、漁師のおじさんたちに会っただけでした。
祖母の家に着いて囲炉裏で暖まり、やっと落着いたころに下の方が騒がしくなり、足を濡らした人や着物が濡れた人たちが学校への石段を上って来たので、津波が来たことを知りました。
明るくなって叔父が私たちの様子を見に来てくれました。家にいた家族は土間に潮が入って来たので、隣にある鎮守権現さんへ上ったそうです。全員無事だと言われ安心しましたが、私たちが家を出た後、しばらくして私たちの後を追って家を出たはずの母がいないのに気づき、大騒ぎになりました。
当時母は病気上りで体力が落ち、足も弱くなっていたので人並の速さで歩けなかったらしく、途中までいっしょに来ていた人たちは先に行ってしまい、後から休みながら来ているうち、港の南角の川島さんの所から家の間の溝の中を流され、もう駄目だと思った時に目の前に小窓が見えたので夢中でつかまり、窓から中に入ったら足が着いたので、流されまいと必死でつかまっていたそうです。波が引いて気がつくと、新町の奥村さん宅の台所の流し台の上、幸い近所の人たちが気付いて、当時山の中腹にあった診療所に連れて行ってくださっていたことが分かり安堵しました。
昼前になって家の様子を見に行こうと思って石段を下りて、約五十メートルぐらい行った所で道路がえぐり取られて、漁船が乗り上げていました。やっと通り抜けて逃げる時に転んだ所まで来ると、軒が全部落ちていました。出羽島では家の流失などはありませんでしたが、天井ぐらいまで波が来た所が何軒かあったようです。洲鼻の方は津波の被害はなかったようでした。
家に入ると土間は例えようもなく、汲み取り式トイレに海水が入り、スガケの芋壼の籾殻と大便がいっしょになって入りこみ、足の踏場もない有様でした。今思い出してもゾーッとします。私たち子供たちも後片けの手伝いで、何日も大変だったのを思い出します。
後日飲み水として利用していた小学校への石段の上り口にある池が、地質の変動か水を汲み出して大掃除をしてからなかなか水が貯まらず、時間制になったりして不自由な日が続きました。出羽島の家庭では、大部分の家に屋根から雨水を受けて貯めるタンク(防火用水を兼ねていた)があったので、海水の入らなかった所は、その水を洗い物に使用していました。
ドンセの浜には牟岐や浅川方面から家具の破片や衣類などが漂着していました。幸いにも私は波の恐怖がないので、後の島の様子だけしか思い出せません。これも父や祖父たちが、必ず津波が来るからと、私たち子供だけでも急いで避難させてくれたからだと思っています。
島の周囲からは津波は押寄せず、小さな港の入口から入って来たので、中で広がり勢力が弱められたそうです。今のように周りの堤防も高くなく、整備もされていなかったのに、子供心に外から波が来なかったのが不思議に思ったくらいでした。
津波の恐怖を体験した者には、地震のたびに少し大きいと津波が気になるらしく、主人は(家と母、叔母を無くし、自分も九死に一生を得た)私があまり地震に驚かないので「出羽と牟岐では地形が違うし、津波もあれ(昭和南海津波)が最大とは限らない」と言います。
昨年の阪神大震災など全国あちこちで地震があると、私たちの一生のうちにまたこちらにも地震や津波があるかも知れません。
この文を書く機会にもう一度改めて津波について家族で考えてみようと思いました。
昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分、突然の大地震だ。私は上の町の現在地に父母・妹・姪と住んでいたが、「アレ地震か」と思って布団の上に座ったが、縦横に大きく揺れ出す。
父はすぐに入口や表の戸を一杯開け放して前の畑道に出ている。
妹や姪も表から出たらしい。母は大黒柱に向かい、地震の揺れに合わして、「世直し、世直し、世直し」と大声になったり、小声になったりで唱えている。私が庭で履物を探していると父が「何しよんな—早う出て来い—」とどなってどこかへ行った。地震の大きな揺れはなくなった。母等は家の中へ、暗いし寒い。町の方が騒がしくなった。呼び声、叫び声が聞こえてくる。津波が来たらしい。人の避難しているざわめきが伝わってくる。山田や杉王さんの方へ逃げて行くようだ。
私も役場へ行くため、上の町を南へ走り、路地を下の町へ抜ける。郵便局付近は電柱が傾き倒れている。電線が垂れてもつれているようだ。小学校前の広い道は、何か大きな物が一杯あって進めない。大屋根のようだ。瓦の上を手さぐりで這う。ようやく一つ越すとまた大屋根だ(後で分かったが杉口の傘屋さん・天野さんの家が津波で、階下が壊れて屋根がそのまま押し流されて来たものだ)。夢中で小橋迄行く。大きな船がのし上り(手繰船等三隻)暗いし、前方も分からず役場行きは無理で、回り道をして新町に出た。
藤倉さん宅付近の空地で、人々が焚火を囲み話しをしている。
ふと見ると小さな裸の子供を焚火の端に寝かしてある。「どうしたん?」「流れていた」「こんな所に寝さしていたら大火傷する」と私はその子を抱いて、上の町の町立病院へ走った。ちょうど中内先生がいてすぐ診て「駄目や死んでいる」と言った。溺死である(この子の母親も亡くなっていた。駅へ行く途中に流されたという)。中内先生に後をお願いして帰宅した。
家の囲炉裏の端に、若い男の人が座っていた。父の話では、商業組合の倉庫(今の桝富薬局)で仕事をしていたので、大工道具を見に行ったところ、大西さんがいたので背負って帰って来たとのこと。父は大西さんが泊っていたことを知っていて案じて行ったことだと思う。恐らく帰途路地を上の町へ上がる時に大津波が来襲、前述のように二軒の大屋根等を押し流して来たもので、本当に運がよかった。一瞬遅れていたら二人共亡くなっていただろう。
朝食をかき込んで役場に向かう。中之島地域は大惨状である。
西の港近辺の建物は、壊れ流されている。役場も東南側は内部まで津波でメチャメチャ、残ったものは公会堂に移している。役場業務は公会堂に移る。役場西側の健康保険組合は健在、私の仕事場所はここである。私は本年四月末、台湾から復員した。時々マラリア、三日熱が再発し、何日か臥床するが平素は元気である。
日和佐保健所付で牟岐駐在員として勤務している。
大川は、二・三メートルぐらいの高潮が白い波頭を立てて川上へ逆流、登りつめるとサーッと引けるだけ引く状態を繰り返し、またも高潮が来るようで、まことに不気味である。夜釣りの漁船が町の異変に気付き帰港途中津波に乗り、大川橋の上を越して川長地区の田んぼまで運ばれ座っている。
東浦の観音寺川付近の家々が第二の大きな津波で流されて、多くの人々が、川の中で亡くなっている。女の人が多く、水の中でたゆとう黒髪が哀れであったとの大惨状が伝わる。
父は町内の大工さん仲間を役場前広場に集まってもらい、寝棺づくりの突貫工事を始めた。平素は棺桶であるがそれだけ犠牲者があれば、とても桶は間に合わない。父は寝棺の作り方を知っていたので、大車輪で製作して、次々と間に合わして行く。
役場では、この災害状況を日和佐地方事務所に連絡報告しなければならないが電信・電話は断線、汽車不通、道路の損壊状況も不明で車も駄目、行くにも徒歩覚悟でと人選していたが、皆それぞれ業務が大変とのことで行く者がない様子、それではと私が志願した。幸い町職員の木本米夫氏が自転車を提供してくれた。
日和佐までの道路事情は分からないが、八時ごろ出発した。関から川又の人々は、まだ浜や町の災害が伝わっていないので、行き行き道筋の人々に「早く助けに行ってくれー」と叫びながら走った。寒葉坂峠へもう一息の所で、道の真中に何か落ちている。拾ってみると飯行李である。重い。開けると麦飯が一杯に梅干が入っていた。付近には人影もない。「有難う」と誰にともなく礼を言って坂を下る。落合を抜け、山蔭を川に沿って走り、やがて西河内の家々が見える所まで来た時、目前が山崩れである。
山頂近くから赤土と岩石が道路を埋め、乗り越えて川まで崩れ落ちていた。幅は二〇メートルぐらいか、付近には迂回しても対岸に渡る所も見当たらない。時間もない。「エーイままよ」横切ろうと自転車を担いで崩れの中へ、岩を避け赤土に足をとられて自転車を滑らし、上へ下へと必死になって横切る。ようやく向こう側の道に出た。泥んこだ。自転車は異状なし、休む間もなく走る。西河内の山鼻を廻ると日和佐の町が見えてきた。
桜町はまことに平穏であったが、橋の袂の三角屋根の小さな家が全壊していた。厄除橋は右岸側の橋桁が四分の一ぐらい残り、後は流されていた。渡船が用意されていて直ぐ向かい側に渡してもらい、日和佐地方事務所に走り込む。正午ごろだったろうか。
日和佐町は、人家にほとんど被害はなかったようだ。責任者に牟岐町の、「地震と津波の被害、惨状」を報告し、早急なる救援作業人員の派遣と物資の援助方を要請した。このことは事務所職員にも伝わり騒然となる。保健所にも寄って報告。防疫薬品、救急用品の早急手配方を要請してようやく落着く。でもゆっくりできない。帰り道が気掛りだ。西河内の山崩れ場所に来たが二次の崩れもなく、帰り気分もあってゆっくり越した。何時ごろ帰町したか覚えていないが、町長に復命した。さすがに疲れて戦争中の決死的伝令気分ということか。
翌日海上運送便で、第一次救援物資が到着する。伝染病予防のため、町衛生課・健保組合等の職員共々で消毒液、DDT等の薬品の配布に従事する。
隣町浅川が牟岐町以上の被害であるとの報せで救援作業班が組まれた。私も参加する。トラックで走行、粟の浦より徒歩、道路も何もない。ただ河原である。伊勢田川の橋も流れてなく、ずっと奥の田んぼに漁船が何隻も座っていた。天神下から町へ、海岸沿いは特に酷い。町の中央部に行き不明者の捜索にあたる。倒壊家屋の屋根梁桁等の上物を取除く作業はなかなかだ。ようやく入口近くの床下で泥まみれのおじいさんの遺体を見付け収容する。
浅川の被害も大変であった。早く帰町する。
私は防疫器具、薬品も整ってきたので町内の津波による浸水地域の家屋内、特に便槽及び周辺の消毒作業を始めた。味噌も糞もいっしょに流れて伝染病の根源になっているからだ。毎日早朝から日一杯消毒入りのタンクを背負って、西浦、中の島、天神前、東浦と消毒液散布である。各地区何回も行った家もある。この作業に不眠不休とはいかないが一か月を掛けた。町には正月もなかった。お蔭で町には伝染病患者は一人も出なかった。町医の泉先生が「良かったなあー、よく働いてくれた」と労わり褒めてくれた。私も自己満足であったがそれは私たちの働きのみではない。次の好条件が伴ったからだ。
一、時期が一番寒い時節であった。
二、各戸の早期の消毒剤の使用散布。
三、再三の町民への予防接種と各人の自覚。
四、私たちへの防疫作業への積極的協力。
しかし、町職員が予防接種を余り受けないので、協力するよう町長と意見対立があった。その後出羽島で赤痢に数名の人がかかったが大したことなく済んだ。港内で食器類から他のものも一緒に洗っていたからだろうという。
本当に予想もできない天変地異の大災害が起きることをお互い知るべきである。地震と大津波は百年目ぐらいに起こると記録にはあるが、当時の体験者は生存していない。私たちも生存中には、このようなことには遭遇しないと思う。そこで故人も私たちに、それぞれ何かを申し伝え残したように、私たちもこの貴重な体験のひとつでも子供や孫たちに伝えて行くのが、子孫繁栄のための大きな使命であると思う。
今回私の父が地震と同時に入口や表の戸を一杯開けたというのは、家の建具が違い、柱が傾くと戸が開かずに出れないということだった。良きにつけ悪しきにつけ、いろんな体験を言い伝え、また書ぎ残すべきである。
昭和二十一年当時牟岐駅構内には、石炭台、給水柱、転車台、乗務員の休憩室、炭水手の宿舎等があった。最終で着いた機関車は乗客が降りた後石炭台に停車し、満炭満水して始発の準備をしてから乗務員は構内の宿舎で泊り、私たち機関士は給水柱の上側の民家で泊っていた。
二十日最終の機関車はC一二-一七三号で、この機関車に乗ったら人を刎ねるか敷くかで、縁起の悪い機関車と乗務員は嫌っていた。私は戦時中山陽本線の列車に乗車、終戦後は徳島に帰って県内の国鉄に乗車していた。空襲は体験していたが自宅は山川町(旧川田)で津波など全然知識がなかった。
さて一番列車の機関助手(十六歳)と見習(十五歳)は発車一時間前に機関車に乗り、出庫準備をするよう規程づけられていた。十二月二十一日朝もいつものように助手が四時二十分ごろに「準備ができた」と起こしにきた。ちょうどその時寝ていた部屋が大きく揺れて柱時計が落ちてきたので、ふざけて相撲をとっていると思い「こりゃ、静かにせんか!」と叱ったら「椙原さん、地震や」と言われて飛び起ぎた。急いで鞄と携帯品を持ち外へ出たら給水柱が大きく揺れていた。
駅舎へ来る途中暗闇の中に東牟岐から西牟岐の方へ「津波じゃ、津波じゃ!!」と叫びながら提灯を持って動いているのが見えたので、何事が起こったのかと不思議に思った。直ぐに駅から徳島事務所へ電話をかけたが通じない。とにかく自動車もなく鉄道だけが頼りの時代で、時間どおりに列車を動かすよう二番ホームに機関車を着けて発車の準備をした。乗客は男性が一人乗っていた。
駅の待合室の中へも津波がきており、駅前付近には漁船が流れてきていると聞いたが、とりあえず切符、重要物等を客車に積み込んで辺川駅まで行くことにした。依然電話は通じず被害状況も分からない。保線区員は辺川駅までは行けるとのことで、一〇〇メートルぐらい先までは異状もなく確認して定刻(五時三七分ごろ)に発車した。災害時には窓を開けて運転するよう規定されていたので、注意しながら運転した。
五時四〇分ごろ河内小学校裏付近までくると、最初の鉄橋の手前で誰かが雷管四個を据えて鳴らしていた(当時は非常用の懐中電灯もなかった)。鉄橋の手前二メートルで急停車飛び降りて見ると保線区の臨時職員がおり、鉄橋の橋台部分が地震で落ち込みレールが浮いて吊橋のようになっているとのこと。直ぐに機関助手を「鉄橋が壊れている、六時に列車をバックする」と牟岐駅まで報告に走らせた。
六時にバックを始め信号機まで来て停車、青信号に変わるのを待ってホームに入った。駅舎の中にも波が来ており、列車を停めて降り駅前に出て見て驚いた。七〜八○トンの船が横倒しになっていた。鯖やスルメイカが飛び跳ねており、駅前付近は家も少なかったが壊れたり、トイレの汚物が道路に溢れ片山製材の原木や漁船も流れて来ていっぱいになっていた。
依然徳島への電話は通じない。自動車も通らない。陸の孤島となってしまった。さて食べ物に困った。朝食は昨夜持って来た弁当を食べたが、牟岐駅には米の蓄えはあまりなかった。機関助手たちは町の食糧営団へ行って濡れた糯米を一俵もらって二人で竹竿で担いで帰って来た。駅の女子職員が炊き出しをしてくれた。
昼飯も晩飯も握り飯にたくあんだった。
二日目も電話は通じず、三日目の夕方非常電話で話し中の音が聞え出し、ようやく徳島機関区に通じた(鉄道電話は普通、運転、非常の三種類通話があった)。「椙原です」というと、「生きとったんか」「生きてぴんぴんしている」「どんな状況か」「口では言えん」その時の現況状況記録はくわしく控えていたが向こうは「津波」がピンとこない。幸い牟岐駅には石炭も水もあった。
牟岐駅待機となったがじっとしていても仕方がない。被災した保線区員も家の片付けが終わり、牟岐側からも線路の修理をして行こうと五日目から始めた。
牟岐駅で握り飯をつくってくれ機関車で現場まで運び徐々に直していった。徳島側からも直してきていた。
赤河内駅(現北河内駅)の北側の鉄橋の修理が最後だった。四国総局の阿部施設長が視に来て私も機関車で赤河内駅まで行ったが、鉄橋の下に枕木などを高く積み重ねて、機関車だけで試運転をしてくれと言われた。「心配ないんですか?」と問うと「心配ない」「ではあんたも一緒に乗ってつかさい」と言うと施設長が「僕も乗りますわ」と一緒に乗ることになった。私は「国から預っている機関車で安全第一だから、最高責任者が一緒に乗ってくれたら安心する」と言って鉄橋を渡ったが、機関車だけでも鉄橋がしわった。強度を補強してくれと要望して、また牟岐駅まで引返した。
十九日目の夕方ようやく自宅に電話が通じ安全を報告した。剃刀も持っておらず髭茫茫頭髪ものび放題で正月も帰れず二〇日ほど牟岐にいた。
終戦後で列車の便数も少なく当夜徳島〜牟岐間には列車がはいっていなかったので、徳島より全線時速十五キロで帰って来い
と命令され、四時間あまりかかって減速運転でようやく徳島駅に到着した。
当時私たち国鉄職員は使命感に燃え、二十日間家のことは考えなかった。お客さん安全第一を目標に勤務した。五十年たった今日思い出すのは、あの災害を知らしてくれた保線区員のことである。残念なことに名前が分からない。会ってお礼をのべたい感でいっぱいである。
○当日の乗務員
当時年齢 出身地
機関士 椙原友之 (二十歳) (山川町)
〃助士 長尾文夫 (十六歳) (徳島市)
〃見習 川村義信 (十五歳) (阿波町)
車掌 阿部幸夫 (山川町)
牟岐駅助役 亡福島熊吉 (徳島市)
(当時灘在住)
当時私は、県立渭城中学校(現在の城北高校)の教員で、地震の前日、牟岐へ帰省しており、翌日は出勤のため牟岐駅発の一番列車に乗るべく未だ薄暗い黎明の道を駅に向かって急いでいました。ちょうど大牟岐田の丈六地の田(椿谷から百メートルぐらい町へ寄った付近)の側へ来た時、それはそれは全く突如として、南方の海上の空に真横に一大閃光が走ると同時に、大地がゆらゆら大揺れに揺れ出したのです。その時はまさか地震だとは気が付きませんでした。ただひどく歩きにくいなあ、何事が起こったのだろうか、進駐軍が大きな艦砲でも撃って大演習でもやっているのかなあ等と思ったものでした。ともかく早く駅へ着かねば汽車に遅れるとの一心から、しゃにむに足を早めました。今から思えばその時が、昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分であったのです。
町まで来ると未だ薄暗く、全体がひっそりとしてわずか二、三人の人が家の外に出ているだけでした。そんな中を懸命に歩いて、ようやく牟岐駅に着きました。やれやれやっと汽車に間に合ったと思いきや、そこにい合わせた数人の人が、「津波だ!」と言って走り出したのです。私も後から付いて杉王神社の境内に登りました。そこにしばらくいたが、何事もなく汽車も出るというので数十分遅れの一番汽車に乗りました。汽車はしばらく走った所で、土砂崩れがあって不通のため、再び駅まで引き返しました。私も止むなく灘へと帰途に着きました。
しばらく歩いて驚いたことに、大川橋の少し上手の右岸沿いにあった家はことごとく流失し、更に驚いたことには大川橋の上に漁船が二隻も乗っかっているではありませんか。あんな舟をあんな高い所まで押し上げた波は、少くとも高さ六メートルはあったに違いない。もしも自分が五分遅れていたら、必ず大波のため犠牲になっていたに違いない。よくも助かったものだと、大きな命拾いをした思いでした。自分がこの橋の辺りを通った時、沖には津波の大波が真白な牙をむいて、ごうごうと大きな音を立てていたに違いないのだ。それなのに自分は耳が遠いのと汽車に遅れまいとする一心からそんな異変を顧みる余裕はなかった。誰か一人私と同じ汽車に乗るために急いでいて、津波に流されて亡くなられた方があると後日聞きました。
大川橋を通り越して更に進んでいくとまたびっくりしました。
福松のお菓子屋さんの前に、以前はずっと海岸寄りにあった草ぶきの小屋が、そのまま流れて来て、福松さんのまん前でドンと座っているではありませんか。未だ未だ驚くのは早かった。更に進んで町の東端、橋本商店の所まで来ると、当時日の出橋という小さい橋があり、そのそばに真壁さんがありました。真壁さんのお宅はもちろん北に並んでいた坊小路の家並が流されて、大小の破片が大牟岐田の田の中一面に広がって埋めつくしているではありませんか。その下には犠牲になられた方のなきがらが幾つもあったと聞いています。それにしても大川の西岸といい、坊小路といいとにかく大波や津波の時は、川のそばは極めて危険であることが分かりました。
私が大牟岐田から駅まで歩いたわずか二十分ぐらいの間に、ものすごいことが起こっていたのだなあと思いながら家に帰ってみると、またまた驚くことが起きていました。塗りかえたばかりで、今朝まで美しかった表座敷の壁が何と無惨に幾筋にも、大きな亀裂が入って泥が一面に畳の上に散乱しているではありませんか。
裏の納屋に入ってみるとそこにも同じようなことが起きていました。家族たちは私が駅に向かって走っているころ、町の人々が津波が来たと言って大勢灘へ逃れて来たので、凡夫はどうなったのだろうかと心配したそうです。
翌日改めて西の町まで行ってみると、その当時は警察署が現在の役場の西側にあって、役場との間に幅七メートルぐらいの川があり、その橋の上にも船が三隻乗っかっていました。
このような大異変は、我が牟岐町に限って関係ないと思っていたが、このたびは、何時何事が起こるか分からないという思いを強くしました。
牟岐町全体で五十二名の方々が犠牲になられたとのことですが、その中には私の知人もいました。牟岐川岸にお宅があったキャンデー屋の石川さんのおばあさんもそのお一人ですが、この方は私の縁談の世話をしてくださっていたのですが、亡くなられたばかりに、私も結婚が遅れました。また石川さんの近所で今は亡き今津恒雄さんのお宅がありました。彼は私の小学校の同級生で、小松島高校の先生になった方ですが、津波には勝てず、屋根の上に登ったまま田の中へ流されて行ったそうです。
私の父の里が海部町の中山で、この年の末に見舞のため浅川を通りました。その時の余りのことに呆気にとられたのは、何と道路渕の田の泥がことごとく流され、その跡には人の頭程もある大きな石が流れ込み、二度と米作りができない河原になっていることでした。浅川は、その湾の形の関係で、牟岐以上の大被害になったようです。
(旧姓井内)
私は昭和二十一年一月に中支より復員し、二月に法務府事務官(看守)に採用された。当時は戦後の混乱で犯罪が多発し刑務所が満員となって、施設が破裂状態だった。そこで牟岐大島は野生の栗や柿がいっばいで、格子なき牢獄としては格好の場ということで、収容者約六十名、看守四名と共に楽園を求めて一日二合の配給米全部を携えてこの地に渡り、伐採作業に従事した。
当時大島頂上には松茂海軍飛行場の看視区域としての兵舎跡があったが、窓ガラスはほとんど壊れて海風が吹き抜けていた。中腹辺りに旧住居跡があり、明治三十年ごろまでは数軒暮していたが生活に不便なことが多く、島を離れて対岸の古牟岐へ移住したと聞いた。その住居跡辺りに地主の青木様と雌鳥一羽、その横の格子なき牢屋に私達六十余名が生活して居た。
大島港は水清くして波静か、赤、青、黒色とりどりの魚が遊泳し、海底まで澄みきって見えており、島の南側の沖合付近にはイカ釣り舟が多数漁をしていた。私たちの住んでいた部屋の窓から上は、見渡す限りシイの密林で、落葉の下には万という多数のカニ(体長三糎)がはっていた。
このシイの木を伐採し薪に束ねて木馬ですべり降ろして、港から機帆船で大阪方面へ積み出すまでの仕事だった。当時は塩が不足していたので、港の近くで鉄板桶で薪をたいて塩づくりに精出した。その横辺りでは牟岐の人が炭を焼いていた。このように災害発生の前日までは、大島は平和な日々だった。
ところが思いもよらぬ異状事態が発生した。忘れもしない同年十二月二十一日午前四時ごろ、私は突然異様な海鳴りの音に眼をさました。ゴオーと長く尾を引く大音響でとても無気味だった。
その直後ドスンと地響きがして、震度七はあったと思われる縦揺れがして、島全体が大きく揺れた。私たち職員の必死の静止命令にもかかわらず、収容者たちは全員室外に飛び出した。一寸先視界零、真暗闇の中の人間の狼狽、あちこちの崖の下に落ちて呻く声、重傷二名、軽傷七〜八名だった。下の方から炭焼の人が「救けてくれー」と大声を発しながら、私たちの宿舎目指して命からがらはい上ってきた。全員必配で頂上に駆け上り、夜が明けるまで呆然と立ちつくした。駆け上った処は海軍兵舎辺りだった。島の周囲海も森も一面真暗闇で、隣の者が誰やら分からなかった。
その時遥か東方水平線の彼方、横一線にさざ波が白く光って見えた瞬間、空天より海に向かってもの凄い稲光りがした。途端にそれはそれはこの世の物とは思えないほどの大音響でゴウオゴウオと海鳴りがして、マットを巻くような影の物体が段々大きくなりつつこちらに向かって近づいて来た。これがすなわち津波だった。世界広しと言えどもこの光景を見たのは、恐らく私たちだけだろう。数分はかからなかったと思う。大島の標高は知らないが半分は浸ったと思われる。二〜三十メートルはあっただろうか。
この間五〜六分間の出来事だった。
夜が明けて判明したのだが、大音響は島の頂上に数百年も坐っていたと思われる畳二十畳もあろう大岩が、数十メートル下に平面のまま落下した時の音と揺れであった。
当時は通信網はなく、交通も大島から牟岐港へは一時間余りを要する小さいポンポン船が唯ひとつの手段だった。私たちはこの後が大変だった。怪我人を治す薬も人もなく、収容者A君の右手の掌が黴菌に犯され、野球のグローブのようにはれあがり、大声をあげて痛がった。私は剃刃を火に灸って消毒の真似をして、彼の指五本を縦にすーっと切り膿を出した。ところが翌日指はまたはれあがり、何ら救ける手段もなく途方にくれた。腰を抜かした者は寝かすだけの方法しかなかった。
食べ物も補給二〜三日前の出来事だったので少なかった。カシの木を割って中にいるカミキリ虫の蝋を取り集め、鉄板で焼いて全員で食べた。収容者の一人はカニを手当たり次第捕えて、ハサミで口唇をはさまれながら痛い痛いと言いつつ食べた。一番心配し困ったのは、港に死んで漂流していた属名北マクラという毒ふぐを、一人で知らぬ間に生で食ってしまったのを知ったことだった。もう死ぬかと心配して寝かして案じていたのだが、不思議なことに何の症状も出なかったのは、どうしたことだったろうか。
さて地震発生後の四海の状況といえば、五〜六日間は二メートルを余る三角波が火柱のように一面に立って荒れ狂い、牟岐港付近はもちろん大島付近沖合にも一そうの船影すら見当たらず、島からは牟岐への連絡もとれずにただ毎日毎日山の上で呆然と立ち、不安とデマが入り交り、遠くに見える牟岐の町の数条立ち昇る煙を見て、いかにも見て来たかのように「あれは死人を焼いているのだ。これは大変なことだ。戦争以上の被害だ。我々は誰も救けに来てくれない。このまま全員死んでしまうのだ。」と思い、日がたつにつれお互いが疑い合い、弱肉強食の世界へ入りつつある感がした。私も全く鬼畜のような風貌と心になっていた。
一週間後に、所長が小松島の漁師に頼んで、島へ物資を運んでくれた時でさえ、私は港で睨みつつ敬礼することさえも忘れていた。所長曰く「あれは何だ。あの目付きは何だ。あれでも刑務官か。直ぐ本所へ転勤辞令を出す」と相当腹と立てていたのを思い出す。
昨年も阪神大震災で大きな被害を受け、また各地で地震が多発、津波警報もたびたび出されるが、当時の私たちの大島での生活文化状態とは比較にならないが、被害を少なくするためには、最小限の食糧、電池、応急薬品、飲料水の確保、低地や危険な落下物の下にいないこと。釣舟、釣客への情報周知と防災対策も考えておくべきである。あの南海地震のような大地震の発生にあらかじめ予防策は至難だが、現在は情報をより速く探知、日ごろからの訓練によりパニックに落ち入った時こそ、良き指導者が冷静に誘導すべきで、パニックが災害よりもこわいと私は思う。
方々の体験を要約しました。ご協力ありがとうございました。
○岡本チヨ、和子さん(宮田)
私の家は床上一〇〜一五センチ位まで浸った。北側の小川さん宅の前から岡本さん宅の方へ廻り、竹内さんの畑から、大久保さんの畑(現在駐車場)、今津さんの畑(現在サンライン入口の駐車場)へあがり、せんど山(西山トンネルの上)へと逃げた。
○角田フジエさん(大牟岐田、当時は小松家の裏で現在道路)
床上一メートル位まで浸水し、裏の観音寺川側の柱と庇は波でとんでしまった。海蔵寺へ逃げたが胸まで浸った。(平成八年三月逝去されました)
○鳥井トシエさん(大牟岐田)
新宅だったが床上まで津波がきた。裏からせんど山へと逃げた。
○網干敏子さん(灘中山在住、当時宮ノ本浜筋に家があった)
肩位まで浸って海蔵寺へ逃げた。
○宮内孝さん(当時宮ノ本、現在西の山在住)
地震最中に観音寺の庭へ避難した。地震がゆり終るとすぐに観音寺川より波がきて、弟と二人で坊小路を通って灘道へ避難した。宮崎宅横のコンクリート塀の蔭で一時波をすごした。母は一度家に帰ってから西の山の方向へ逃げた。自宅は床上一メートル位浸っていた。祖母は隠居(分家で観音寺の前)市太郎叔父の家の二階にあがり、そのまま二階に居て助かった。叔父の家の玄関には漁船が突込んでいた。
現在中島亀一さん宅(東部保育所前)で地盤は当時のままである。
○浅田敬郎さん(当時宮田、現在中村本村在住)
当時七間町角(現在のわかば精肉店)だったが自宅横の七間町は道路上約一メートル位波がきた。
〇一山トヨミさん(宮田)
地震後すぐにせんど山へ逃げた。浜から誰かが「津波がきよるぞー」というのを聞いた。後から逃げてきた人たちはみんなぬれていた。私の家はコンクリートの庭から一メートル位波がきており、タタミやフトンはそのまま上へあがっていた。
前の大藤の倉の瓦が地震でたくさん落ちた。庇も落ちてやりかえた。住吉丸が二隻沖の防波堤にのりあげた。
○志津節子さん(旧姓大竹)(本村)
私の家は中の島で、前は町役場で裏は港だった。津波がきた時は家族がばらばらで逃げた。私と母が家の外に出た時はもう波がきていて何処へも行けず、役場の窓をあけて中に入り一
メートル位高い所にあがっていたが、波がきて役場の中を流された。物にあたらなかったのは、波の高さが机の高さよりも三倍ぐらいは高かったからだと思う。便所あたりまで流されてきて、そこから公会堂の二階へ引張りあげてもらった。
夜が明けて波が引きだしてきたら、役場の前はさつまいもがいっばいだった。
家は屋根の上を運搬船が走って、小学校と平岡食堂の横の橋の上にすわっていた。
終戦のころ、古牟岐カメノコなどの砂浜は波うち際まで広く美しく、海亀も産卵に上がり田圃まではいったり、カメノコの人家まではいってきて驚いたこともありました。ホウノキが浜にたくさん生えて、上の方には堤防代わりに松の木やまさきが生えており、松の木の下には使っていない小舟をのぼして藁で囲ってありました。ヒラエの浜や砂美の浜も同じで、東浦の小網(いせえび建網)の漁師の人が小屋を建てて、網干しや修繕の仕事をしておりました。道路も開通しておらず、海から船で行くか、潮の引きをみて浜伝いに東浦へいったりしておりました。また遠回りですが灘の地神山越えの山道もありました。
昔の古牟岐の話をしてくれたおばあさん二人に南海津波に遭った話をしてもらいました。
(小島シカ、島崎テルさん談、聞取り者、大平・中山)
◎小島シカさん(93歳)の話
その夜は主人はいか釣りに大島へ漁に出ており、私は四人の子供と寝ておりました。朝方に大きな地震が揺れ出しました。子供をつれて家の大黒柱を抱えていましたが、大地震では地割れがして危ないので竹薮が安全と聞いていたので、裏の島崎さんの横の竹薮へ小さな女の子を両脇に抱えて逃げて行きました。しばらくして揺れがおさまったので、「大地震が揺れば必ず津波がくる」といわれていたのを思い出し、一度家まで帰りました。すると誰かが「津波がくるぞー」ととえていたので、すぐに書き物や食べ物を少し持って裏の小島由蔵さんくの山畑へかけあがりました。何回も津波が押しよせてぎましたが、恐ろしくて畑の上からみんなで見ていました。家には波が入りこみ、タタミも浮き上りました。家族は皆無事に逃げ怪我人もなくホッとしました。
浜の松の木の下に囲ってあった小舟は、平瀬さんの田圃へ流れ込んでいきました。主人は大島の港でイヵ釣りをしていたが、舟が浮いてきて何ごとかと思って帰ってきて驚いたが無事でした。
◎島崎テルさん(86歳)の話
主人は下関市へ手繰船の出稼ぎに行って留守でおばあさんと私たち母子五人の家族でした。大きな地震でした。すぐに子供たちをつれて家の南側の畑の中ですわっていました。津波がくるか分からんと心配になり、裏の家の島崎の文おっさんに聞いてみたら「このべた凪に何がくるんなあ」と言いながら通っていったので安心していました。しばらくすると隣から「津波が来るぞ」ととえてくれたので、大事なものでも持って逃げようと家の中へ取りにはいったら、はや西側のカメノコの浜から津波の第一波がシャアシャアとあがってきました。早く逃げようと思ったが流れてきた舟に通り道をふさがれてしまって逃げることができません。第一波は小さかったのでそのまま道で待っており、引いていった間に急いでいったん浜へ出て、ホゥノキの下を廻って裏の山畑へ逃げました。
前の浜西さん一家も一緒でした。おばあさんときよみと昭は先に逃げており、上の畑から「おかあちゃん、おかあちゃん」ととえていましたがどうすることもできず心配でしたが皆無事でした。
二回目、三回目の津波は大きくタタミの上まで波はあがりました。タンスも引き出し二段目ぐらいまで浸ってしまいました。引き潮もえらく恐ろしかったです。台所のかまどで大きな鍋にするめを炊いてあったのがそのまま浮き上って、また元どおり座って鍋に潮も入っておらず食べることができました。しかし便所も何もかも一緒になって汚なく後が大変でした。
浜にのぼしてあった船は出羽下まで流されていましたが、数日後親戚の人が津島沖でひろってきてくれました。下関に行っていた大竹芳蔵さんたち親戚の人がすぐに帰ってきてくれ助かりました。
カメノコの他の家もほとんど床上浸水でしたが、山が近かったので全員避難し無事でした。
西地区は舟曳場側にあった石積みの塀が壊れ、海に近い家は四〜五戸床下浸水したそうです。道路は大分奥の方まで波がいっています。小島ヒロミさんの話では、小島長蔵じいさんが「津波がきよるのって、下水の蓋を上げて逃げえよー」といってくれたので、蓋を上げて逃げました。津波は西地区の道路へはいってきたが、下水の中をとおって奥の方へいったので、屋敷にはいらずに助かりました。
中町、東地区は被害がなかったようです。
坊小路新町名詮衡委員御依頼の件
極寒の砌貴殿益々御清栄の事と拝察申上げます。
さて昨年末南海を襲いました大震浪により、当町は特に甚大な被害を蒙りました旧称坊小路地区の災害復旧工事も、各位の絶大なる御援助によりようやく完成の域に達し、来る一周年記念日には竣工の喜びに接する運びと相成りました。
この時に際して、新しく生れ変った新興の町にふさわしい名前をつけようという地元の人等の熱誠なる総意に基き、新町名を募集致しました。
今同はできるだけ全町的に募集し、決定して頂くことになり、新町名詮衡委員を御依頼申上げます。 (中略)
募集の結果は別紙の通りであります。最も適切と思われる町名を三つお選び下さい。新しく生れ変った坊小路の将来を祝福して名前をつけて下さい。決定の暁は極力御愛称下さい。
昭和二十二年十二月十七日
坊小路復興工事事務所
別紙には、応募数百三十二票による次の町名が候補町名になりました。
日出町 立和町 昭和町 新道 民生町 新小路 相生町 新興町 旭町 寺町 入船町 昇栄町 明神町 戎小路 明美町 東雲町 栄町 潮小路 日喜町 佳良町 新東町 一新町 戎町 春日町 東新町 震興町 平和町 寿町 曙町 潮町 蔡町 若宮町 新生町 川添町 協和町 復興新町 築地 復興町 栄和町 新開地 新栄町 亀山町 新興街 喜楽町 蛭子町 観音町 繁栄町 永楽町 美里町 橋本町 新日出町 東町 美好町 大生町 新地 新町 福町 宝町 青昔 幸町 昇町 大平町 朝日町 大道 一番町
私は旭町、東新町、幸町に○印をつけている。その後の詮考で「旭町」がめでたく決定されました。
地蔵様は何百年以前の物と思われます。御頭はとれ、左右の手もセメンで修理してあります。御堂は別紙図の如く三同かわりました。そしてあの恐しかった南海大地震津波で墓石もみんな大牟岐田に押し流され、足のふみ場もありませんでした。
一面の墓石の中で探す事は、浜辺の砂の中で米粒一つを探す様に思いましたが、私の一念が通じたのか胴体が出て来ました。しかし肝心の御頭が見つからず、これも砂の中で米粒を見つける感じがしましたが、それはそれは一生懸命に般若心経を御唱えして探しました。不思議にも見つかりまして、早速仮屋根を建ておまつりしました。
それから埋立工事が始まり、皆様の御芳志により今日に至っております。今の御厨子は頭の上からかぶせてあります。その時忘れもしません近所の真崎槌蔵さんが手伝って下さいました。今は保育所が出来て、周辺の人も家もかわっていますが、幾百年も前より私達を見守って下さる南無地蔵様、合祀されている大青面金剛童子、庚申様をおまつりしており、信仰されております。
「祈る観音寺の地蔵尊、皆なもろ人に幸たまわれよ」
(中の島、故高知次之吉様(当時東浦在住)より、東浦故真崎トミエ様に届けられた手紙より抜粋しました。)
去年伊豆で群発地震が、またサンフランシスコの大地震もありました。最近フィリピンのバギオで大地震がありました。どうしてこんなに続いて地震が起こるのでしょう。
ぼく(布施)の父は昭和二十一年十二月二十一日に生まれる予定でした。しかしその日マグニチュード八・〇の南海大地震が起こり、津波が三回も牟岐の町を襲いました。祖母はそのショックから出産が遅れ、翌年一月五日に父は生まれました。
家も人もすべてを奪う恐ろしい地震、そして津波、私たちは生活の安全を守るにはどうすればよいのでしょう。そこで身近に起こった南海大地震を中心に調べ、それを今後の教訓にしようと考え、研究を進めることにしました。
「備えあれば憂いなし」といいます。私たちは過去の経験を生かし、少しでも被害を少なくするために、地域ぐるみでこの問題に取り組んでいくことが大切だと思います。
指導 中村亨教諭(出羽島出身)
(資料表は省略しました。)
おかあさんもむかしつなみがきて、そんなことがあって、おかあさんもみんなもたすかったといっていました。
ぼくはつなみがきたら、なみよりはやくいけるかなとおもっていました。ぼくはちょっとはなしをきいてわかりました。
そして山にのぼったり木にのぼったりすれば、たすかるかもしれませんね。
ぼくはきょう、なか山せんせいのおはなしをきいてこうおもいました。
ぼくはおはなしをきいて、むかしそんなことがあったのかなとわかりました。
なか山せんせいは、あんなことをまだおぼえていたので、ぼくもあのおはなしのことをずっと、おぼえていたいなとおもいました。
なか山せんせいはみんながしんで、とってもかなしかったとぼくはおもいます。
わたしのうまれていないときにつなみがあったことを、わたしのおじいさんにきいていたけど、どのくらいおそろしいかはしりませんでした。だけど中山さんのお話を聞いているとすごくおそろしいのがわかりました。
わたしのひいおじいさんはつなみでなくなりました。学校の石にひいおじいさんの名前がかいてあります。
中山さんとてもいいお話をしていただいていいべんきょうになりました。
今日は南海大しんさいのおそろしさがよくわかりました。津波で五十二人の人が死んだと聞いておそろしかったです。南海大しんさいは関東大しんさいよりひどくないと言われていたので、
もっと弱かったのかなと思っていました。実さいに体験した人の話を聞いて、とてもおそろしかったです。
それとおどろいたのは、ほいく所のあたりが一番ひ害がひどかったことです。ぼくの家は保育所の前だから、その時おばあさんたちはどんなんだったのだろうかと思います。
津波は時間がたってからくるところもありますが、はやかったら五分ほどでくるということがわかりました。
いつくるかはわからないけど、地しんがおこるのが近づいているといわれています。だからいつでもにげれるようにしておきたいと思っています。
ぼくは地震とはおそろしく、たくさんの人の命をうばっていくものだとしりました。
そんな地震でも、とめることができないのでしかたないと思います。しかもいつくるのかわからないからこまります。
つなみがきたら人はみんなのみこまれて、死んでしまうとはかわいそうです。
地震がおこったら、高い所ににげるということはわかってても、本当におこったらできないかもしれません。でも、やっぱり、本当は地震はおこってほしくありません。
ぼくは地震のおそろしさをしりません。でも話を聞くと「地震のおそろしさをしらない人ほどかえっておそろしい」と言っていました。ぼくは本当にそうだなあと思いました。
ぼくは、地しんのおそろしさは、おばあちゃんに聞いて、知ってるけど、今日の話を聞いて、津波のことが特におどろきました。
津波は、地しんの後にすぐ来る大波で、波が向かってくる時は、そんなには、おそろしくないが、引き返す力が強いと言っていました。中山先生の牟岐町の地図で赤い所が一番家が流されていたとおしゃっていたけど、それは、ぼくの家の辺りだったので「げっ」と思いました。家に帰っておばあちゃんに聞いてみたら「昔の家は、石を積み重ねていたから、地ばんが弱いから家がかんたんに流されたけれども、今の家は、そんなに、かんたんには地ばんは作っていないので、そんなに心配しなくてもええよ」と言ってくれました。が、ぼくはやっばり心配です。
これからも、地しんや津波が来た時、まずどうすればよいか考えます。
ぼくは南海大しんさいのことをよく祖母に聞いているのですが、今回の話を聞いて地しんのこわさが身にしみてわかりました。
最近、海部か海南町で、南海大しんさいの時の絵本を作るというのをテレビでしりました。こういう地しんなどの大きなさいがいは、親から子、子から孫へと次々とつたえていかなくては、いけないものだと思いました。
地しんはいつおきるか今では、おおまかにしかわかりません。
だからいつ地しんがきてもいいように地しんの知しきをもつのと、家族でどこににげるかを考えておかなくてはならないと思いました。
私は十月十六日に津波、じしんなどの話を聞いてとてもびっくりしました。いままで私は津波やじしんのこわさを知らなかったけど、話を聞いてこわさを知りました。じしんがきたら窓をあけて机の下などにかくれたり、津波がきたら高いところににげたらたすかるといままで思っていました。でも机の下にかくれたり高いところににげたりしても、命をうしなったりけがをするということを知って、「津波やじしんってこんなにこわかったのかなあ」とつくづく思いました。話をしてくれた二人の人はじっさいに津波にあったりしているそうだけど、私がもしそのころ生きてて津波にあったら、話をしてくれた二人のようなことはたぶんできないと思います。この話を聞いて津波やじしんのこわさとともに命の大切さも教えられました。十月十六日に聞いたことをしっかり頭にいれて、もし津波やじしんがおこったときに役立てたいです。二時間話を聞いたのでつかれたけど、この話を聞けて本当によかったです。
○富田武校長よりお礼のことば
昨日の防災訓練の折には、講師としておこしくださり、ご指導をいただきありがとうございました。
子どもたちによくわかるように資料を用意し、体験を交えたり、また河内小学校の子どもと結びつけたりして、お話しくださり、誠にありがとうございました。
子どもたちはもちろん私たち大人も、あらためて津波の恐ろしさを知りました。また避難の重要性と当日の避難訓練の意義をも体得できたものと確信致しております。災害に対する心構えや避難時の注意もお教えいただき、「備えあれば憂いなし」の気持ちにもなっております。
ご指導いただいたことを非常時に生かせるよう、今後も学習していこうと考えております。今後ともよろしくお願い申し上げます。
翌七年度には六年生全員が岡田啓教諭指導のもと共同研究を行いましたので概要を紹介します。
今年は一月に思いもよらない阪神大震災が起こった。私たちの牟岐でも約五十年前に南海道地震の津波の影響を受け大きな被害をうけたことを知った。そしてその前にも約百年おき位に大地震や津波による被害をうけたことも分かった。地震はいつ起こるか分からない。約二十年後には前より大きな地震が発生するともいわれている。
そこで今後の地震と津波への備えとして、昭和二十一年におきた南海道地震と津波について、牟岐町への影響を中心に調べてみることにした。
(1)南海道地震津波について
昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分三十二秒に南海道を中心にして、日本の大部分が強く揺れた。そしてこの地震によって相当の被害を各地に与えたが、幸に烈震ほどの大きな被害を与えた所はほとんどなかった。マグニチュードは八・一で、今年の阪神大震災のマグニチュード七・二よりも大きかったにかかわらず地震による被害が少なかったのは、震源地が遠い海底であったためで、今年のような内陸の地下で活断層が動く内陸直下型地震でなかったからである。しかし、阪神大震災では、津波による被害はなかったが、南海道地震では津波による大被害が起こり、四国や和歌山県で多くの町が荒廃の町となったのです。
その時の状況は次の通りである。
(1)震源地について
この地震の震源地は、和歌山県潮岬南々西約五十キロメートルの沖合と推定されている。これは、当時の各気象台、測候所の発表がまちまちで、後日の修正などもあって混乱しており、あくまで推定である。
(2)震度
震度は5の強震、被災者の話によると、家の中の物が大きくゆれ、たおれたり落ちたりする道具もあったという。しかし、家などの建物はまだ無事だった。余震もいれて総振動は三十五分六秒である。
(3)地震前の気象状況と前兆
地震の前は、普通の天候が続いていたが、その前の日の夕方は西の山の上に赤紫色の雲がたなびき、何か気味が悪かったそうだ。また、その年は、スルメイカがよくつれ、その前日もよくつれていた。他に、一週間ぐらい前から井戸の水がふきだしたりまた、別の家では井戸の水がにごったりもしていたという。天候は晴れ、気温は一・三度、風向き風速は西北西〇・七メートル、その他、外はうすく氷がはっていた。
(4)津波の様相
地震規模も安政の南海道地震よりも少し小さかったので、津波の大きさも安政の津波より小さかった。しかし、それでも和歌山県、徳島県、高知県の沿岸の町では津波による大きな被害が出た。
(ア)牟岐の津波
牟岐では、津波の第一波は地震の揺れがおさまってから十分ぐらい後にやってきた。海水が下からふくれ上がるように見え、しだいに水位が高まり、潮の流れはゴウゴウと鳴って勢いよく押しよせてくる。第一波がしばらくして引くと第二波がやってくる。
引く時は常の水面よりも二メートル近く引く。そして第三波がやってくる。各波の中間では、逆に潮が大きく引くのである。第二波と第三波が最も大きく第四波、第五波とだんだん静まっていった。
牟岐湾は典型的なU字形であり、その上奥行一キロメートルばかりの小さな湾であるから津波作用が大きくなり、波高は五メートルぐらいまで上がった。波は、中央の牟岐川、東の観音寺川、西の瀬戸川をさかのぼり、堤防をのりこえ家の床上まで浸水し、浜のいりこの加工場や低地の家をさらっていった。大川橋は完全に波にのみこまれ、十数隻の漁船は橋をこしていった。また、大きな機帆船が二、三隻平岡食堂横の橋に押し上げられた。牟岐小学校の校舎もたおれかかり、運動場は船や自動車、材木とまるで河原らしい。海南町浅川についで大きな被害となったのである。
(イ)浅川の津波(省略)
(ウ)その他の地域での津波(省略)
(2)地震、津波はなぜ起こるか。(一部抜粋)
◎津波の特性として、波はくり返してやってくるが、第三波までの波が最大波高を示す。また、マグニチュード六・五以下の場合はほとんど今までに津波は記録されていない。つまり逆にいうと、マグニチュード七以上は必ずといってよいぐらい津波が発生するということになる。
しかし、小さな揺れの地震でも大きな津波がやってくる場合がある。それは、マグニチュードの大きさと震度とは別だからである。同じ規模の地震でも、地震のあった場所が遠いか近いか、また地震の時にその人がいた場所によっても震度の感じ方が違ってくるからである。規模が大きな地震であっても、海底の隆起や陥没のしかたによっては、ヌルヌル地震(低周波地震)といって揺れかたの小さな地震がある。このような津波の性質も知っておく必要があると思う。
(3)実際の体験について
実際に南海道地震津波を体験したおじいさんやおばあさんに体験を聞かせてもらった。
(4)現在の町民の地震や津波への関心と今後の対策について
牟岐町内に住む60人(牟岐地区30人、河内地区30人)に地震、
津波のアンケート調査を行った。
(地震、津波アンケート)
牟岐地区30人 河内地区30人
一 あなたは地震のこわさを本当によく知っていると思いますか。
二 あなたは地震が起こったらひなんする方法を考えていますか。
三 あなたは地震が起こったらひなんするための道具を用意していますか。
四 地震にそなえて家の中の家具などを整理していますか。
五 津波のひなんする方法を考えていますか。
その結果から次のようなことを感じた。
(一)地震、津波について大部分が関心を持っている。
(二)河内地区よりも牟岐地区の人は、地震、津波からの避なんの方法を考えている人が多い。
(三)牟岐地区、河内地区の人の多くが地震や津波の時の避難道具や家具の整理などが不十分である。
阪神大震災が起こってから地震津波に対する関心が強くなってきていると思うが、まだまだ直接自分も関係あると考えていない人が多い。
◎今後の対策としては、「地震津波の記録を残す会」が中心となって、町といっしょに地震津波のこわさを全町民に知らせていく、地震、津波に対する避なん場所や避なん路を作っていく予定である。津波の潮位標も今年の八月に西地区に四本を新しく立てた(東地区は既に五本立っている)。また、来年には、牟岐地震津波の体験集ができあがる予定である。
◎協力してもらった人や参考にした本
・牟岐町南海道地震津波の記録を残す会のおじさんたち
・津波の体験をしているおじさん、おばさん
・アンケートに答えてくれた牟岐地区、河内地区の人たち
・牟岐町教育委員会の人たち
・「牟岐町史」、「津波におそわれる」「あおぞら」「阪神大震災記録集」
南海震災の翌年十二月に牟岐町震災史編纂委員会が『牟岐町震災史抄』を発刊されましたが、その序文に「尚本史は未完成であるから向後継続事業として増補訂正し真に町民の災害防止必携録として永く保存される価値あるものとしたいものである」と故富田重雄氏が述べられております。
それから四十九年目にしてようやく念願の「南海道地震津波の記録『海が吠えた日』」が発刊できることになりました。震災史のなかの貴重な体験を再録、富田氏の「回想記」より『南海津波遭難記』を掲載させて頂き、遅まきながら先輩の期待に添えたことを報告し、ご冥福をお祈りいたします。
南海津波遭難記
故富田重雄
「回想記」より
昭和二十一年十二月二十一日未明、グラグラという音に目を覚ました。電灯は消えて真暗闇で棚からガタガタと物が落ちてくる。妻はあたふたと飛び起き三人の子供をゆり起し、貴重品を風呂敷に包み子供(二女幸代、二男欽二)に防寒着を着せ、表座敷より裏の前裁へ下り、長女月代を促して機敏に八坂橋の方角へ逃げて行った。当時長女は十七歳で海部高女四年生、長男正人は十四歳海中二年生、二女幸代は小学五年生、二男は二年生であった。私は様子をうかがっていたが振動が止まらない。次の間に寝ていた父に声をかけ、「地震じゃ、地震じゃ」と大声で連呼した。
すると「心配せいでも、もっとしたら止むわい」と言いながら、又も寝床へもぐり込まんとする。
私は無理に起こし身仕度をさせ、オーバーを着せて首巻をさせ手を引いて戸外へ出て、三十米程北進し浜内の土蔵あたりへ来た時又もや大揺れがしたと思うと、ガラガラと大八車を千台も突くような轟音と共に津波が襲来し、我等を追いかけてくるように感じたが、幸いにも浜内の辻までを限度として引き汐に転じた。この汐の為近所の人や妹達が犠牲となったのである。私は急いで父を誘導して昌寿寺山に避難した。暗がりの坂を登っていると足元
にうごめく者がいたが、後で聞くと櫛木さんが病気衰弱の為山頂へは行けず、途中でへたばっていたとの話だった。山頂へ来てみると五十名程が焚火して待避していた。
夜が明けるにつれ視界が開け、西浦の浜筋の家屋は倒壊して惨状を呈している。妹ツタエの婚家大場のお母さんが私を見つけ心配顔にかけ寄り、「私は先に逃げて来たが、ツタエと長女儀子五歳と二女加美子二歳が逃げ遅れているから、見届けて来てほしい」と懇願された。
私は山を下り街へ出たが誰一人として通行していないし、全家避難し人影はない。ツタエの住む借家は全壊し、前にあった山車小屋も破壊され、格納してあった山車胴本は津波に押し流され、牟岐津神社の玉垣と鳥居の所に阻止され、中儀のセイロや篭が雑然とおおいかぶさっている。私は大声で「ツタエ、ツタエ」と探し求めたが何の反響もない。そこへ宮繁道弘君が見廻りに来た。
同君は当時青年団長をしていたので、災害状況調査のため巡視に来たのである。そこで二人で協力し丹念に捜したところ、山車の底の方にセイロにおおわれ着物の端が見えた。セイロを数枚めくってみると、ツタエが加美子を背負ったまま気絶し、その上に儀子が重なっている。引き出してみると幼児加美子は絶命していたが、ツタエは体温を感じ、儀子はかすかに呼吸をしている。道弘君と二人で戸板に乗せ法覚寺へ運んだ。ここは安政の津波にも浸水を免れた所で、土地が高く本堂も広大で安全なからだ。本堂へかついで火を焚いて暖をとり人工呼吸を施し、儀子を小西医院へ送った。当日は寒気がきびしく本堂はガラッとして冷え込み、私一人だけがツタエの蘇生を祈りながら、懸命に人口呼吸を続けたが効果はなかった。そこへ安藤静正師が戻って来られ何かと手助けされたが、医師を呼んで来ると言って出て行かれた。十分程して佐木山医師が馳せつけてくれたが遂に駄目だった。すぐに親子の遺体を毛布に包んで安置し、儀子の事が気になるので小西医院へ行ってみると、儀子は命をとりもどしベットに移され、足許ヘアンカを入れスヤスヤ眠っている。傍には小西の奥さんが付添われ、「もう心配ありません」と言われ、私は急に心のハリが弛みとめどなく涙が流れた。
午前七時過ぎに家へ帰ってみると、南隣の漁業組合の事務所が半壊して我が家に押しかかり、南側の戸や屋根が毀され畳は浸水によりビショ濡れとなり、柱六尺五寸(二、二米)の高さに潮の形跡が残っていたし、床下には土砂が流れ込み店の商品も泥水で汚染され惨憺たる光景であった。幸い土蔵は異常なく殊に二階の家具や客用の蒲団に被害は無かった。
そのうち家族が戻って来たのでお互いに無事を喜び、全員法覚寺へ行き死者ツタエと加美子の通夜の準備をした。時々余震があり不安である。当時はラジオや電話も普及しておらず、殊にこの震災により通信は杜絶され電灯は消え情報不明のまま、寒さと食糧難の上、家を失った罹災者達は途方にくれたのである。堤防外の煎納屋や網納屋は流失し、牟岐津神社の前通りは全壊家屋が累累、死者も数名あり消防団により法覚寺の境内へ運ばれて来る有様は悲惨であり、痛ましい限りであった。
私達はその夜血縁者が集り本堂で通夜をし、翌日仮埋葬をすませた。
余震はまだ続いている。私は家族を灘の親戚喜田本家へ避難させ、用心の為独りで家に残り、いろりに火を焚いて一夜を過した。第三日から飯田のばばさんの好意により家族全員飯田の釜屋を仮住居として二日程起居し、昼間は家の修理や整理に当ったのであるが、赤河内青年学校の職員と男生徒数名が米三升を持って見舞いに来て、土砂の搬出、畳の乾燥、屋根、雨戸の修理消毒など機敏に奉仕してくれたので、一日で片付き翌夜から家族全員家へ戻り平常の生活に復したのである。その時の生徒たちの厚意は天使のように思われた。
津波当時不在の大場正一君が大阪より帰り、後始末をして母と儀子を連れて引き揚げたのは歳末だった。儀子はアンカの熱さで足に火傷だけで元気になっていた。あれから三十四年その儀子は現在箕面市で二児の母となり幸福に暮している。
津波の様相
楠本七蔵氏談話
夜釣りから帰って舟を浦崎の鼻に錨を下ろし、帰宅して飯を食べ終わり一寝入しようと蒲団を敷いた時に大地震があったので全家屋外に飛び出し、しばらくすると自分の持船が流れて来たので津波の襲来を予知し、直ちに橋の上から近所へ「津波じゃ津波じゃ」と叫んで避難をさせた。この時の上潮は第一回目であって、地震後十分位の時間があり道路上一尺位の浸水であった。
この潮は七分位で引いて行ったが、やがてゴーゴーという物凄い音響を立てて海面よりどす黒いうねりで潮が盛れ上った様になって第二波が襲来した。自分は第一波引潮と共に位牌を持って家の背後の小高い所にいて目撃していたが何とも言えない凄いものであって、この潮の為殆んどの家は倒壊されたバリバリバリ、ガラガラガラという音が交錯して思わず目を蔽た。やがて引潮となったがこれまた物凄い激流となり近所の家はこれが為に流されて行った。第三回は自分は目撃しなかったが所によってちがうらしい。
一 遭難記
(イ)津田役蔵氏と永田勝君の乗組小舟の遭難
(A)永田勝君語る
前夜大里沖に出漁中地震前大島方面より日和佐方面に幾回も強く光って居た。やがて上下に振動する地震にびっくりする。すると潮は早い流れで出羽方面に流れる。びっくりして碇を揚げ牟岐港に向う。既に牟岐港には陸の火であろう、点々と動くのが見える。舟は沖の防波堤の上を越え港の灯台へつくと急速に流れ、灯台の上にて転覆す。二人は離れ離れになって流される。頭を上げると既に新開飲食店の下に流されて居た。強い流れの為に更に流され大川橋下をすれすれに川の畑(竹の鼻)まで流される。やっと安心と思うと今度は引潮の為福松の下まで流され幸にして助かる。其の間私は常に潮の中にもまれていた奇跡の生還記である。
津田役蔵氏は東部漁業会下に流され多数の人に助けられて数時間たき火で暖ため助かった事を附記す。
二 遭難記
(イ)一山幸一君語る
此の朝十数人の乗組が二隻の手繰船で出漁準備中空は曇って黒白とサバ雲の状態で何だか恐しい様相であった。機関始動で全員「デッキ」上に有り一山君は「ブレッチ」に有り。すると大きく振れる。一山氏は「エンジン」の動きと感ずかず全員は地震と知り帰宅す、途中漁業会前の「セメント」が破れる音がしていた。
一度帰り直に船に帰る。其の間十分間位船につくと同時一回目の津波が寄せる一分間位の間見る見る漁舎がつかって行く、港内につないでいた大小舟は全部岩壁の上に浮ぶ「とも綱」の緊張の為に舟は全部止る。此の時には陸では泣き呼ぶ声が聞えていた。
その時三、四人の人が小舟が沈んで助けてくれと乗り来る、引潮となり相当長い間引いて行く時碇を二丁投下せり、同時に「エンジン」始動して次の瀬に備うと今迄ゆるく引いていた潮は急に一度にどっとおして来る為沖の堤防にて止る(是は捨石に一丁の碇が止った為である)時沖の堤防の捨石が全部見えていた。四人の内既に二隻の舟で四人しか残らず他は帰っていた。二人は捨石を伝って山に上る。一山君と吉岡兄と二人が次いで渡って行くと再度のこみ潮のため見る見る捨石がつかる。びっくり二人が船に走る。四十米位走る内堤防上が潮に洗わる。此の時の潮の高さは堤防上三、四尺位、陸を見ると山に焚火が点々とし空は黒白と光る様な異様な雲であった。
参考(イ)潮の来る状態は風呂に這入る時湯がふえる様な状態であった。
(ロ)「直後感ず」局部的事を考え直前のみにとらわれず大局的に考えねばならない。然して事を処す事必要、一山君の場合碇をやらなければ手繰船二はいは助かったかもわからないと語る。
(一山君語る)津波の前日出羽下より室戸岬に向って薄暗い時刻に赤く雲が焼けた様になってゐた。
三 遭難記
(イ)森氏語る。
森氏は最初の津波の引潮について浜に行く(最初の津波は森氏のでぼ石まで来ていた)浜に行くと全部の船は定位置と変り全部集結していた、直に大綱にて繋ぐと同時に二度目の潮で今津迄後退、引潮について行くと他の船は全部流失森氏の船だけ残っていた。更にげん重につなぐと同時に三回目の上潮が来る。此の時は道路に乗り兼ねる高さの潮であった。この引潮について船にのり四回五回の潮は朝まで船に居れり。
参考、潮の高さ一度目の潮で漁舎のひさしつかる。森氏が船を助かった原因は去年十月四日の時化で船を破壊して居たのでとも綱の強靭なる必要を自覚して五分のロープにて厳重につないだ為なり。
(註)第一回目の潮の時森氏の宅の前にバッテリーの60Wの電球をつけた為多数の人がせまい路を山に逃げた事はバッテリーの効果を大いに知る。
宿直していて(津波の追憶)
当時の牟岐小学校宿直 八幡與三郎
ガタガタゆるぐ物音で熟睡の夢を破られた真暗闇の宿直室。地震だ、而もひどい、なかなか止まらない。ガバとはね起きて電球を探そうと立ち上る頭上にグワンと火花が散る程硝子戸が倒れかかった。やっとスイッチを探しあてたがつかない、宿直部屋がぐらぐらと揺れる、危い、枕元に確かに服オーバーを置いて寝たのだからと思ってジヤケツにズボン下のままつかんで廊下にとび出た(つかんだのはオーバーだけだった)かすかな明るさの中にぐらぐらゆれる校舎を望んでいたがゆれは益々激しく立つことが出来ずついにかがんで伝い板にしがみつく。非常口をと思って玄関口を開けようとしたが駄目だ。大変だ。箱の中だ。ここよりも小使室の出入口がいいかもしれない。小使さんや武君も心配だしと思って職員室の下駄箱で手さぐりに草履をはく。この時分揺れは全く止んだ。「オバサーン、オバサーン」「エーイ」と返事がある。入口の戸をあけようとしたがあかない。おばさんがローソクをつけた。ガラスは一枚もないし戸はまるで菱形である。やっとこぜ開けて「ひどかったな」時計を見ると四時二十二、三分の位置で傾いている。しばらく雑談をしていたが起きるのにも早いしもう寝よう、外の様子はどうだらうと理科室の横まできた時ゴーという異様な音が港の方から聞える。津波だ!肌寒いまでにピンとくる。
「オバサーン……津波だ……にげ!」とどなって入口迄引返した時にはチャブチャブチャブチャブと気味の悪い水の音が聞えてくる。
「津波だァー津波だァー」とどなりながら郵便局をまがって下の町を真一文字に駅に向って走った。後からおしよせる様な叫び声、三浦先生宅附近では大川堤をきって浸入する激流の不気味な物音、足もとまでチャブチャブチャブと異様な物音がゾッとする程気味悪い恐怖感をもっておしよせてくる。無我夢中で駅まで走りついた。くらい。未だ安心出来ない。杉王神社まで走った。寒い!オーバー一枚膝までビショぬれである。どこからかたき木を集めてたき火を始めたゴーゴーという音は依然として絶えない。薄明りになった。学校へ来てみて驚いた。校門の石、石垣は跡かたもない。東校舎四教室はペシャンコ。西校舎は倒れかかっている。
やっと校長室に入る。壁は落ち窓はこわれて宿直室は畳が吹とび寝具も何もない。座板さえはぐられている。職員室は校長室より流れこむ海水の為、め茶くちゃ。中庭は倒壊した校舎の木材の為一面修羅地獄だ。小使室あたりもひどい。運動場に出る。なんと船が四、五艘、警察の自動車、材木、まるで河原だ。
浅川の自宅が心配になり歩いて帰った。大砂海岸まできて驚いた。「こりゃあ、ひどい」心はみだれ、家族の安否が気になり、誰かが犠牲になっているのでないだろうか。女手一つで乳飲児からの子供四人をかかえているのだからと思うと、いいようのない気持だった。自宅は見るも無残に流失し、泥沼と化していた。ぼうぜんと立ちつくしていると、誰かが「みんな無事で山の上に逃げている」と教えてくれた。よく助かったものだ。無一物になったが、家族みんなが無事だった。有難くて涙が湧き出てきた。
ただ一つ貸してあった小舟だけが残り、住む家も無かった。家も家族も無くし、遺体を探す人々の姿を見ていると、なんで流失した家財など探すことができようかと思い、ただぼうぜんとして屋敷跡で火をたいた。甘藷芋を拾いながらこれからのことを考え悩み、自棄的になる毎日であった。
あれから五十年、牟岐小学校は立派な校舎に建ちかわり、牟岐も浅川も立派に復旧し、当時の悲惨な痕跡は見あたらない。しかし、敗戦後の混乱時に県南の地に壊滅的な被害をもたらした、あの南海津波を決して忘れてはならない。
海部郡下の地震津波の歴史を見ても、「凡そ百年か、五十年の周期で勃発する。」とある。心すべきことである。
震潮災被害要覧
一、家屋(表—3)、四、船舶(表—7)五、農作物(表—8)、
六、林産物(表—8)七、道路、橋梁、港湾(表—6)
(右は村上教授「牟岐の地震津波」3、牟岐における昭和南海地震津波の被害の実態、に記載されているので省略)
二、罹災人員(表—2)に記載されているが、再調査により訂正分を次の表で()内に記載する。
三、死亡者氏名
八、行方不明者氏名
出羽島堤 タダ(女)75歳
救援物資受入表
聞ならく当社の草創は鎌倉尼公政をしろしめす此牟岐の主某は奈良の生れになん有りしさるから古京の神を勧請して今の神主八乙女これが礼のとをつ親供奉し侍るといへりしかはあれと時移り
代久しくてくはしからねはしらぬ昔月にやとはん宮所
今の社は元亀二年に牟岐兵庫介虎房再興し侍り(委有棟桁)其後阿淡の大守御修覆遊しき万字の御紋棟木に彫付る事此時より寛文と元禄の年中には氏子等破壊を補ふ
しかるに宝永亥の年初冬四日未の刻大地震振て人皆肝を冷し魂も消なんとすかかる時は必津波の災ありといひ伝え古き書にも見へしか果して刻を隔す静なる海原怱騒て洪波怒かことく東西の浦里を過て仏閣民家七百余宇流れ失せ老若男女百拾余人溺れ死す神主阿部丹治義成波を侵神殿に走り昇りて尊影をもり奉り辛うじて後の岳に上る社は潮にひかれて遥の沖に出る事二たひ三度遂に寄来りて境内に留る挙て神威を信し徳光を仰き国の君に訴へ神林の樹木を賜て宝永七寅の年に修造し侍る
依寸志不願愚蒙
飯田正悦書
正徳元辛卯歳仲秋望日
抑も当社、来由を尋ぬるに建立已往、其代幾世なるか詳ならず、茲に宝永四亥十月四日未刻土地震ひ起って即時震潮沸く事高山の如し、当郷民家十五、六宇、津波の為流失す、然りと錐も社壇、水際を去る一丈三四尺、一宇の社も安穏にして流れず、神慮の加護恐るべく貴む可し、其此内妻の庄、石ケ平を波の限りと為す、後人に之を伝へんが為に、故老の所望に依り筆を加ふる者也、今の社床は氏子相談にて新に地盤を構ふ也
寛保三亥九月吉日
嘉永七寅年翌年安政
元年と改号
嘉永七寅年十一月五
日大潮之記
出羽島貞之助
嘉永七寅年十一月四日朝五ツ半頃、大地震俄に潮の狂い之有り当島港の内へ指し込み潮常の潮時より高き事五尺余り引潮の低き事壱丈余り其の日の八ツ半時頃迄止む時なく、盈干の潮の勢い鳴門潮時の如し。
夫より夕方に至りて少々宛治まり候、右四日朝地震塩の狂い之有り候に付当処観音様へ祈願いたしおみくじを入れ候処いよいよ以て用心堅固にいたし候様にとの御事にて皆々あらまし山の上に仮屋を建て家物綱具財面々に運び其の夜山の上に夜を明し候。
尤も右四日の日天気殊更はれ渡り結構成る日並の事故漁師とも沖出でいたし漁業いたし候程の事にて右変事沖間にては少しも相分り申さずとの事にて候、漁師共四日の夜少々漁業いたし帰り候懸かり。
明くる五日天気の模様前日の通りはれ渡り四面八方一点の雲も之なく海中至極穏やかなり右の懸かりにて候之共前日の運に就いては観音様のおみくじ何故皆々用心いたし五日の日は沖出でも致し申さず不思議の思いをなしいか成る事やと皆人疑いをなし彼是油断いたしおり候処。
其の日の七ツ半時頃俄に大地震ほどなく海中鳴り出し其の厳しき事譬え方なく大木はたおれる如く大地は破れる如く海中より鳴り出す其の音大筒の如く切にぶんぶんと鳴り出し半時余りにして海中波の高き事大山の如し暫時に大潮過巻き来り当島家宅大半流失いたし候。
大潮の高さ二丈余り其の夜中に地震三十回余り就いては其の夜月の入り際に大いに海中又々鳴り出し、大地震其の節の地震には当島などゆり込むかと思いの事に候。
明くれは六日当処漁頭林七船壱艘すの鼻の岩に巻き付きおり候に付き其の船に取り付き若者とも乗り込み外の舟流失致しおり候を助け帰り候。
翌日七日牟岐青木氏を尋ね候処青木は無事にて大潮は座切りにて御座候。
就いては当島見舞として米弐石下され御上様より御手当として拾弐石余り下しおかれ候。
追々舟綱等も御借付遣わされ候。
扨て其の後旱魃にて当処渇水に相及び甚だ難渋致し候。
翌年安政元年と相改め正月二月に至りて今もって少々宛地震折々御座候。
先年宝永の大潮より当嘉永七に至る迄年数百四十八年目なり。
右は後鑑の為あらまし之を筆記す。
別にいわく。
当島は不思議成るかな観音の御利益をもって老若男女に至る迄壱人も怪我等御坐なく候。
尤も当処にても州鼻の方は、潮も低く候て座上壱尺五六寸にて居宅には少しも痛み之なく候。
牟岐西浦は浜辺庄屋辺庄屋を始め流失いたし候併し中村辺は格別の痛みも之なく候。
東浦はすべて流失いたし候。尤も漸く岡屋の土蔵快蔵店の土蔵外に家宅壱軒だけ残り候。
扨て牟岐浦にて死人の数、西浦に四人、東浦に拾四、五人程死亡いたし候。
尤も是等の人々は欲心に迷い右地震最中に山より下り或は米或は僅かの鍋釜金輪等に目がくれ候て取り戻り候人々にて御座候故。
兎角にも大地震致し候之は飯米を一番に用意いたし外の物は見放し壱度山へ逃げ候上には弐度と山より下り候儀等吃と致しまじく事。
右流死の人々には皆一旦山へ逃げ幸いに命を助かりおり候に欲心に迷いまだまだ潮は気遣い之なくなどといい候て山より下り候
人々ばかりなり。返す返すも心えべくは此の一大事なり。
尤も右等の変事の節などは兎角山へ逃げ候方、上分別に御座
候、処により候ては舟に乗り候て如々流死いたし候。
扨て右等の変事には牛馬を壱番に追放し遣わし候事是又一に心
得べく、時に右大変の中にても平生慈悲善根信心の人々には格別
に功徳の事之有り候事。しかじか見及び候懸かりにて御座候故
子々孫々に至る迄兎角信心一に心懸けるべく事。
一 海部郡にては靹浦日和佐浦此両浦は大潮入り申さず少しも痛み御座なく候
宍喰浦は浜辺人家大半流失いたし候
浅川浦は壱軒も残らず流失いたし灘目中にては大痛みにて御座候
由岐木岐も大半流失死人も多く之有り候右五日の地震にて徳島内町大火、稲田加島御両家丸焼け小松島町も同断、丸焼にて御座候安政元年二月下旬之を書く。
海部郡牟岐東浦 津田屋喜右衛門自作
されば、去る嘉永七寅十一月四日、いつもよりいたって暖気にて一天澄み渡り漁師はさより網に沖出ありける内、昼四ツ時地震ゆり出し暫らく有って浜先壱丈余りの汐満干しけれ共此の内、年によっては潮の狂いし事も有りけるゆえさしておそれもいたさず、其の中にも怖おそれたる人々には山へ食物着類鍋釜諸道具などを持ち運び何れも此の処にて夜を明しける。
其の日暮方に及んでさより魚少々ありけるゆえ魚商人は山より下り家毎にさより三千五千壱万斗も買い取り、干物にしける。
漁業に出たる人々は、じかたの者ども山々へ逃げ行き候騒動をしらず、何れも不思議致し沖合にては地震潮のくるい是なきよし、其の日昼七ツ時西に当り雲大いに焼け沖の方一面に腰巻したるよう成る薄き雲有り、何とやらもの凄く相見え其の夜は火の用心を恐れ家毎に大体壱両人宛不寝の番を致し、浜先は非人に言い付けかがり火を焚き番を致させける処に、夜五ツ時分頃より夜明け迄に三四度地震ゆりけるゆえ、井戸を度々見に行けども変わりたる事少しもなく。
翌五日極晴天にて波立ちなく風もなく、殊の外暖気なれども漁業には出ず、昨日山へ上げ置し家物諸道具を我が家へ持ち運び、大笑いにていづれも家の掃除などを致しける処に、其の日は日の光さえずうこん色に相見え有りがたくも、天よりの御告げにてあれども、是に心付くもの壱人もなく只いつものごとくに居ける。
所にされば昼八ツ時頃、沖合震動して諸方鳴り渡り天地も砕けるばかりの大地震、前代未聞の大変諸人魂も消え入るばかり、又は珍事ぞと思ううち、瓦屋根は瓦飛び散り、地中一円に響き破れ、七ツ時に津波に相成り、其の烈敷事中々言語に延がたく、着類諸道具も打ち捨て、命からがら八幡山海蔵寺観音堂背戸山西岡畠或は灘村川長村其の手寄々々へ逃げ去り、山にて見物しける処に浜先の家々数百軒土蔵にいたる迄黒煙り立ち、土石を飛ばし只ぐわらぐわらと将棋の駒を倒すごとく、家一軒も残らず流失す。
中にも土蔵四五ケ所計相残り、凡そ潮の高さ三丈余、又は山々の麓へ指し込み候潮先五六丈とも相見え、元来津波は大海の高潮とも見えず出羽島小張のはな、または浜先より相起り地中よりは水を吹き出し、流死の人数弐拾余人。
其の夜は格別寒気強く夜四ツ時頃、亦々沖あい鳴り渡り大地震ゆり出し最早山々も崩れ今も命を失うかと、其のおそろしき事中々筆舌にも尽しがたく、いかなる者も気もたましいも飛び散り、慾も徳も打ち忘れ人毎に一心に南無阿弥陀仏を唱へ家内は手に手を取り替し、数千人の人々今も落ち入るかと思ううち夜明け迄十四五度も地震ゆりながし、又々津波上がりけれども夜の内故見えず。
翌六日強慾非道なる者は、夜の内よりたいまつを灯し、人より先に山より下り拾い物数に致し、山々には流家の古道具を拾い来り、小家をこしらへ候えども、水一向なく谷々亦は灘村川長村の田地の縁にて泥水を汲み来り、漸く相浚ぎけれども米、酒、味噌、醤油、塩に至るまで、売人なければ、是に難儀いたしける津波は満干三度宛あり、是を一番潮二番潮三番潮と先年より言い伝えあるよし、然るに二三日経て御上様より粥の御施行并壱人に付き、黒米三合宛廿日間御救米、下しおかれ、誠にもってありがたき事にて露命をつなぎける。
しかれども、此の内手元相応にくらせしものは帳面に赤印を致し、御役人衆より、相渡し申さず心なき人々は、日々着物色々拾いもの致しける処に、御上様よりご吟味つよく、日和佐浦御郡代様より御政道方御役人御配にて、小家々々を御改め仰せ付けられ、捨主へ御取り返し下され候えども、拾い人は包み隠し皆々出し申さず、大体は引き潮に流れ出、夫々行方知れず。
扨て又浜先に登し置き候船、或いは湊に繋ぎし漁舟売船数百艘并網類または溺死の人々旅人共弐拾人余田の中谷々沖間へ流れ出、日々是を尋ねけれども茅葺の家根、山の如くに流れ上がり其の混雑中々目もあてられず富貴なる方、質屋には着類諸道具に至る迄土蔵に入れ置き、戸仕舞致し逃げ去りけるゆえ猶もって大損、貧なる方には何一つ流さず人々の捨たる物を拾い取り、徳は得たれども年月立つにしたがい矢張りもとのごとくに相成り何れも以前に変わりたる事なく是までの通り家業を致し暮らしける。
されども日により絶えず昼夜に大小の地震三五度もゆりける。
其の冬年号改元有りて安政元年と成り、八九歩通りは山にて目出度越年致しけれども兎角地震の気、相止まりがたく折々ゆりける此の時、米相場九拾文全相場七貫文銀札百文土地通用壱匁は先年より九拾文遣い、扨て漁方には流れ残りの海老網に海老おおく漁事あり、大魚小鯛などもありけるゆえ、魚商人も船にけがなきものは是を買い取り商売しけるに上方も入船数なく相応の儲に相成り、其の後山々より地盤の我が屋敷へ下りて、仮小屋をこしらえ、其の道々の家業を仕けり。
春は大魚小鯛、夏秋鰹魚、冬はさより鰯など時に漁事相応に是あり。
夏秋鰹節古来稀なる値段にて目方拾貫目に付き銀四百目余りも致し商人も相応の銭儲けはあれども商売道具すくなきゆえ是に難儀いたしける。
しかるに御上様よりそれぞれ御見分ありて、漁師へは船網の御拝借浦々共に仰せ付けられありがたき事に候えども商人諸職人へは御借し付け是なく、又壱両年経て建家料としておもたる漁師漁頭へ銀札四百目、中漁頭へ三百目、舟子へ弐百参拾目、小商人にも弐百三拾目宛是も浦々共御拝借仰せ付けらる、其の上は分限に応じ足し銀をもって家普請致し、これより町内なみよく御上様より御縄張有りて、頭立商売人居屋敷七拾五歩より六拾歩、五拾歩三拾歩二拾歩漁師漁頭へ三拾歩舟子一円に拾弐歩半宛、其の暮らし方相応の割符に相成り、津波以前に相求めありし屋敷は御取り上げにて買方の損となりけり。
且つ又津波潮先懸かりの田畠にいたる迄、其のいたみに応じ五ケ年四ケ年三ケ年と御年貢御免仰せ付けらる、百姓も豊かに暮らしける。
夫のみならず東西両浦とも浜先に数百間の波除土手出来しける。
まことに未曽有の大変にていづれも手と身には成りたれども年経るにしたがい地盤に少しも相替る事なく渡世をたのしみ暮らしけるとぞ目出度けれ。
時に慶長九辰年十二月十六日津波にて潮の高さ拾丈余、それより百三年を経て宝永四年丁亥十月四日海部辺りにては壱丈余といえども当浦にては三丈余とも往古よりは言い伝え有り。
即ち海部靹浦町内の石に彫り付けありしをここに写し置き候。
宝永より当嘉永迄百四拾三年に相成り慶長よりは弐百五拾年振りに三度も有りけれども其の前々には浦中に書記是なきゆえわかりがたく、右様成る大変数度ある事ゆえ中々百年振りにかぎり申さず、いつにても大地震ゆり出し候えば、食物は勿論着類、鍋釜、其の外雑具心に任せ草履、草鞋などを用意し逃げ退き必ず四五日は山にて見合わせすべし。
横道を構え油断致し候えば不覚を取り後悔すべし。
後人決して笑う事なく右一条を相守り申すべきと前文にものべるごとく、御上様より下々御憐れみ有りて御手当または御拝借時々仰せ付けられ候故、取り続き申す儀に候間広大もなき御慈悲の有りがたきを忘却すべからず。
是は子々孫々心得のため愚筆にて書き記し置き候。
実に此の度の津波も夜中なれば死人怪我人おびただしくあれども昼中ゆえ死人も数なく怪我人壱人もなき事を思えば、いよいよ神仏の御加護ならんと、いづれも天を拝し有りがたく喜悦しけり。
前文にも申す如く大地震なれば、人の誹諺をかえりみず、兎角山へ逃げ退くべし、かへすがへすも相心得申すべく候。
津波の前に希有成ること数々ありとしての文は以下中略し項目だけ掲げる。
前年四、五月頃家毎に毛虫多く発生のこと。
仝年六月浦賀へ黒船四艘来航のこと。
銭屋五兵衛、異国の交易路見のこと。
七月より八月槍星、彗星出現のこと。
全年九月大阪安治川ロヘ、おろしや船来航し、筆者の見物談と警備の状況など。
跡にては津波の前ぶれにても有りなんと皆々打ち寄り咄し合いしける。
是に依りて大変などには前々に天よりしらせある事ゆえ疑惑なく、何れも正直をまもり信心あるべし。
此の度の津波後にも信心堅固の家の専ら、繁栄するを見て知るべし。
一 西浦分、人家弐百余軒、土蔵納屋亦は漁船商船網類にいたる迄、東浦同断に残らず流失、また中村の内五六拾軒ばかり流失、出羽島人家六拾余軒、其の外納家漁船網類流失、其の内居宅拾五六軒ばかり相残り申し候。
一 大島家数弐拾軒余、此処は小高き場処ゆえ潮先漂よいしばかりにて壱軒も怪我なし。
以下後文省略し項目だけ掲げる。
海部靹浦石文の写し。
宍喰浦永正九、慶長九、宝永四の地震津波の文書の写し。
アメリカペルリ提督、書翰の写し。
安正二乙卯年正月
摩尼山 満徳寺 法印宥雅上人代
昨丑年諸国共大ひでり。
時に嘉永七甲寅年十一月四日朝四ツ時至極天気宜敷候、当院へは西由岐浦の一向宗光願寺の僧甚房と云う仁、折り節来り響応いたし之有り候処。
俄に大地震樹木枝をならし井水濁り水瓶に汲み置き候処の水座へことごとくこぼれ、海には潮くるい候由申し来る。
之依り諸人東西の山を求め家物を運ぶ。愚院も記録過去帳神仏残らず薬師堂へ運び其の夜は薬師堂にて守護す。
明五日晴天昼過ぎ迄何事もなく潮直り候由申し来る、諸人本宅へ又々家物持ち帰り候様子、之依り寺を空仏にいたし候も本意ならずと夫々寺へ運び本堂へ入り香花等を備え納経等相済し候。
折りから怱然として地震昨日に倍して動す是七ツ少しすぎの事なり、又々諸人あわて山々へ登るに東西を失う程なり。
此の時当院には弟子弐人源親廿四歳玉探十一歳道心壱人喜秀房五十一歳家来忠八四十三歳女房おわな三十九歳娘おかな十七歳、此の内弟子弐人は早々薬師堂へ走らせ喜秀房居合わせず忠八は夫婦共来り候え共女は此の時役にたたず故山へ走らせ忠八に古記録過去帳を持たせ我は本尊を奉守。
玄関へ出れば早津浪出羽島へ入ると見えて大煙り立ち道進み捨て薬師堂へ登り見返れば一円津波打ち入り船家共流れる趣、是を見て杉尾山へ登り夜四ツ前に百々呂山へ登る、月の入り又大地震津波又打ち入り津波七ツ過ぎのより一尺ひくし。
七日百々呂山より薬師堂へ来り見れば薬師堂石段下より二ツ目の上迄津波入し跡あり、本堂へ至り見れば東の方へ一間不足にじりくりは皆流れ僅か残り本堂の仏一つも減なし。
庚申天神是二つ流失損す是は外がわに安置せし故なり大玄関に仮殿をいたし住吉宮を安置せし是は本堂の下檀に不思儀に損なわずいます。
牟岐津宮流れ損、蛭子大黒天合殿西の浜に安置の処流れ損、然れども蛭子神躰出羽島にあり大黒天は西浜にあり牟岐津神体は杉谷にあり。
依りて役人浦人安政二乙卯正月寓居薬師堂へ来り、先住吉宮は牟岐津宮の地内に殿を建つ、牟岐津宮は本地に殿を建て、蛭子大黒天合殿元地に建て度趣、尤も此の度の事故神主等迄には伝え申さず候間棟札にも御除け下され候様と申し来る。
指し懸かり候儀尤もなりと存じ氏子の意にまかし正月廿八日夫々遷宮おわんぬ。
又右心得のため跡書をいたし置くものなり。
(1)天武十三年十月十四日(六八四・二・二九)の津波M八・四
(2)仁和三年七月三十日(八八七・八・二六)の津波M八・六
(3)承徳三年〈康和元年〉一月二十四日(一〇九九・二・二二)の津波M八・〇
(4)正平十六年六月二十四日(一三六一・八・三)の津波M八・四
(二)江戸時代以後の津波
(1)慶長九年十二月十六日(一六〇五・二・三)の津波M七・九
(2)宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)の津波M八・四
(3)嘉永七年十一月五日(一八五四・一二・二四)の津波M八・四
三 牟岐における昭和南海地震津波の被害の実態
(一)津波の来襲状況
(二)被害状況
(1)人的被害
(2)家屋被害
(3)堤防、道路、橋梁、港湾の被害
(4)船舶の被害
(5)農作物、林産物の被害
四 昭和南海地震津波の実態調査と津波の挙動の考察
(一)調査方法と津波浸水高
(二)津波の再現
五 昭和南海地震津波と同じ津波に対する現況における安全性の検討
六 次に来る巨大地震による津波に対する心構え
七 あとがき
平成七年(一九九五)一月十七日、午前五時四十六分、マグニチュードM七・二の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生、その犠牲者は六千名にも及び、道路、港湾、建物の他、ガス、水道、電気などの生活の生命線にも大きな被害を与え、およそ二年を経た現在も被災者の後遺症は癒されていない。地震による被害は、都市機能が高度化するほど、これまで経験したことのない新しい被害を生むことを実証した。
徳島県でも昭和二十一年(一九四六)の南海地震に対する記憶が次第に風化しつつあるが、今一度この地震やそれに伴う津波の被害を思い起こしてみることは意義深い。
昭和二十一年十二月二十一日、午前四時十九分、紀伊半島沖で発生したマグニチュードM八・一の南海地震による徳島県下の被害は、死者二百二名、全壊家屋六百二戸、同流失四百十三戸、同半壊九百十四戸に及んだ。そのうち沿岸部での被害の大半はこの地震により併発された津波に起因するものであった(『徳島県災異誌』)。
この地震から、今年は五十年の節目にあたる。今、地震学者の間では二十一世紀前半にも次の南海地震の発生が確実視されている。その地震は、昭和二十一年の地震よりも規模が大きいと推測されており、この地震に備え万全の防災対策が望まれる。
徳島の県南部とりわけ海部郡の沿岸域は古来より津波の被害を受けてきたところである。牟岐もその例外ではなく、津波の襲来は避けられない位置にあり、防災体制を確立して、被害を最小にする努力を怠ってはならない。
牟岐に限らず、昭和南海地震・津波の体験者は次第に少なくなっている。二度と地震・津波で尊い人命が奪われないようにと願いつつ、体験者によって地震・津波の脅威の実態を次世代に語り継ぎ、災害に強いまちづくりを地元民の手で行おうとする自主的な動きが各地でなされるようになってぎている。
牟岐町でも「南海道地震津波の記録を残す会」が精力的な活動と多くの時間をかけて生々しい体験を記録し、後世に伝えようという努力がなされている。本書がまさにそれである。
徳島県沿岸は、津波ばかりでなく、台風による高潮、高波、洪水などの自然の脅威にさらされており、常に防災対策の強化が必要な領域ともいえる。
ここでは、体験者の記録をよりよく理解していただくために牟岐を襲った、又は牟岐を襲ったと考えられるこれまでの地震津波について概説し、地震津波の実態を解説することにした。次いで、牟岐を襲った昭和南海地震津波の再調査の結果を示し、集落を襲う津波の様子を再現、もし同じ津波が当地を襲った場合、現況では大丈夫かどうかについても検討した結果を示すことにした。最後に、津波防災の基本的な考え方を示し、行政と住民が一体となった災害に強いまちづくりが必要なことを強調した。
四国の沿岸域を襲う大津波のもとは南海トラフと呼ばれる海溝の近郊で発生する巨大地震である。これは、フィリピン海プレートが四国を乗せたユーラシアプレートの下へ潜り込むとき、プレート(地殻)の二つの接触面が破壊されることにより起きることが分かっている。引きずり込まれたプレートが破壊されると、その反動で上に乗っている海水は急激に持ち上げられ、あるいは急激に落下する。水面ではその変動に応じて「膨らみ」、あるいは「へこみ」を生じるが、重力の作用でそれが四方に波として伝わる。これが津波である。
したがって、プレートの沈み込みと、二つのブレートの接触面の力の解放が繰り返されることを考えれば、ある一定の周期で巨大地震が発生することが容易に分かる。四国や紀伊半島などの沿岸域ではこうした海溝性の地震が百〜百五十年の間隔で発生している。
江戸時代以前は南海トラフ沿いに起きた巨大地震による津波の記録が少なく、牟岐が津波に襲われたという記録はないが、震源の位置、地震の規模や他の地の記録などから牟岐でも津波の影響を受けたはずである。そうした可能性がある津波を挙げると次のようになる。
太平記によれば、紀伊半島沖を震源としたこの地震による津波が海部郡の由岐を襲い、「由岐では千七百戸の家屋が流失し、六十余名が流死した」と伝えている。被害数については疑問視されているものの、由岐が被害にあったことは事実であり、それならば牟岐にも大ぎな被害があっても不思議ではない。
江戸時代以降の津波については、以下三つの津波に関する史料数も多くなってくるので、徳島での津波の状況を含め牟岐の被害の様子を次に簡単に述べておこう。
午後八時頃、房総半島南東沖と室戸岬沖の二つの震源を持つ地震が発生、これに伴う大津波が犬吠岬から九州に至る太平洋沿岸の広大な地域に大きな被害を及ぼした。この地震と津波で最も被害が大きかった四国のなかでも、徳島、高知両県の被害が突出している。
海部郡宍喰の犠牲者は、千五百余名とも三千八百余名とも古文書に記され、靹浦では百余名が流死したと北町の大岩に刻まれている。
牟岐では、東の浜は流れたが犠牲者はなかった(海部郡取調廻在録)。『牟岐町史』(一九七六)には満徳寺が流失したと伝えており、最低でも六メートル以上の津波高であったと推定できる。
この地震のマグニチュードMは七・九で、地震の規模からすれば後述する宝永や安政の地震に比べ小さかったものの、広域にわたり大津波の被害を受けたのは、〝ぬるぬる地震〟といわれ、地震の規模は大きくないのに大津波を発生させるいわゆる〝津波地震〟であったと近年いわれるようになっている。それならば、これまでの常識「大きな地震を感じたら大津波を警戒」することだけでなく、「大きな地震がなくても津波が来る恐れがある」ことも念頭に置かなければならない。
午後〇時三十分ごろ、紀伊半島沖を震源とする巨大地震が起きた。この地震による被害は、東海道、南海道、北陸、山陽・山陰にも及び、津波は伊豆半島から九州に至る太平洋沿岸、大阪湾、播磨灘、伊予灘まで被害を及ぼしている。
高知県の被害が最も大きく、徳島県でも以下のような大きな被害を蒙っている。
宍喰では十一名の流死者を出し、願行寺が床上六十センチメートル以上も浸水、同寺の南の畑には百五十石以上もある船が流れ込んだという記録が残されている(『震潮記』)。
鞆浦では死者こそ出さなかったが、津波が三回やってきたと大岩に刻まれている。
浅川では家屋は全滅、山際にあった千光寺だけが流失をまぬがれている。この津波による流死者は百四十名(観音堂地蔵尊台石)とも百七十名(大地震洪浪見聞筆記)ともいわれている。
牟岐では八幡神社の奉納板額に「海原忽騒て洪波怒が如く、浦里を過て仏閣民家七百余宇流れ失せ、老若男女百十余人溺れ死す」とあり、七百戸余りが流失、百十余名の溺死者があったことが分かる。この津波は杉尾神社の石段下およそ四メートルのところまで来たようである。また、内妻では河口から約二キロメートルの石ケ平まで潮が来た(満徳寺記録)。満徳寺及び洞雲寺も残らず流失したようである(『牟岐町史』)。このことから、この津波は平均海面より六〜七メートルの高さに達したと考えられる。
その他、木岐では七名の流死、由岐も「溺死多し、両浦亡所」(谷陵記)とあり、由岐はこの津波で壊滅状態になったことが分かる。
橘でも「下福井、橘浦、答島村より流れ出る家、海上に満々たり、流家屋根に人々上がり泣き叫ぶ声山彦にひびき、数万騎の大敵ときの声より物凄く」とある(『野村家伝来記』)。津波が引くとき、流されている家の屋根の上で泣き叫んでいる光景が生々しく描写されており、津波の悲惨さに胸が詰まる思いがする。
この津波では、志和岐、伊座利、椿泊、富岡、黒津地なども被害を受けた。徳島の城下では武家屋敷が二百三十戸、民家四百戸ほど地震で全壊したが、津波による被害はなかったようである(谷陵記)。
十二月二十三日午前八時ごろ、遠州灘を震源とするM八・四の「安政東海地震」が発生した。その三十二時間後、すなわち十二月二十四日午後四時ごろ、前日と同じ地震の規模をもつ巨大地震が紀伊半島沖で発生した。これを前日の地震と区別して「安政南海地震」と呼んでいる。これらの地震は「嘉永七年」に起きているのに、「安政地震」と呼ぶのは、嘉永七年十一月二十七日をもって「嘉永」から「安政」に改元されたためである。
この地震・津波の被害については各地に詳細な記録が残されている。
徳島県全般の被害についてもかなり多くの記録が残されているため、古文書からの史料の基づき整理した結果を表−1に示しておこう。
宍喰の元組頭庄屋、田井久左衛門の『震潮記』は、この地震.津波の状況を知る上で大変貴重な文献であり、徳島ばかりか他の地の様相も記されている。なかでも宍喰の様子は浸水図まで詳細に残している。
また、鞆浦の善称寺の住職による「大地震洪浪見聞筆記」には、鞆浦、浅川の様子が記録されており、貴重な地震・津波史料である。
ここでは、牟岐の津波の様相についてのみ述べよう。
まず、この表から、内妻〜東牟岐浦までの総家数の合計を取ると八百三戸になり、流失と壊家の合計は六百六十二戸である。したがって、出羽島を除く牟岐全体の八十二パーセントの家屋が流失又は全壊したことになる。さらに、西牟岐浦は全百七十五戸流失、東牟岐浦も三百五十七戸のうちたった三戸が残っただけでという壊滅的な被害を受けていることが分かる。流死者は西牟岐浦で二名、東牟岐浦で二十六名とも(「中財家文書」)、二十三名(男十五、女八)(『震潮記』)、牟岐の安政碑には三十九名となっている。
満徳寺の記録によれば、「薬師堂石段下より二つ目の上まで津波が来た」こと、また牟岐町史には、「八幡神社、牟岐津神社流失、法覚寺では床にカンナ屑が上がった」という言い伝えが残されている。これらのことから、川沿の津波の高さは五メートル、河口近くでは六〜七メートルに及んだものと推定できる。
昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分、M八・一(近年、M八・〇とされている)の地震が紀伊半島沖で発生、世にいう「南海道大地震」である。この地震と津波により徳島県下は大きな被害を受けた。この地震・津波については多くの記録が残されているが、個々の集落となると詳細なことはわかっていない。
ここでは、牟岐について被害の実態を資料に残された記録から述べてみたい。
当時の牟岐の駅長は、「津波は、始めから上げ潮で、陸に氾濫したのは一回だけ、何回も川の中を押し引きした」、また町の助役は「地震が止んで服を着換えて外に出て百五十メートルほど走って郵便局まで来ると潮の音がして津波だという騒ぎがした。
潮が上げるのに二十分、引くのに二十分ほどかかり、午前九時に津波は止んだ」と語っている(南海道大地震調査概報:中央気象台)。東牟岐では大川橋を渡った付近で家屋には一・八メートル浸水し、津波の高さは平均海面上四・五メートルに達したものの流失は免れている。観音寺川沿いでは川を遡上した津波のために六十戸ほどの家屋が流失、河口では四・一メートルの津波の高さになったようである。また、同調査概報の聞取り調査によると牟岐では「海岸線にある家が二階まで浸水しながらも流失を免れ」たり、「二隻の大型漁船と一隻の中型漁船が頭を並べて町役場と隣家の間の空地に押し込んでいるのに家がほとんど壊れていなかった」ことなどから判断して、津波の流速は遅くじわじわと満ちてきたようである。
平成五年、昭和南海地震による津波の実態調査を「南海道地震津波の記録を残す会」(中山清会長)を中心に住民の協力を得て実施した。
測量調査に先立ち、被災者から津波来襲の様子、被害状況及び現存する津波の痕跡などの聞き取り調査を行った。その後、平成五年八月及び十二月の二度にわたり浸水高の実測を行い、八十五個の測点を得た。
その位置を図−一に、浸水高の結果を表−九に示す。
図−二は、昭和二十一年当時の地形と平均海面(T.P.で表す:厳密には牟岐の平均海面はT.P.+〇・二〇メートルである)からの地丁
盤高を等高線で示している。東牟岐の観音寺川沿い、西牟岐の小学校付近は地盤高が二・五メートル以下と低く、それに対し、東牟岐山際の宮田及び西牟岐の法覚寺付近は集落内でも比較的地盤が高いことがわかる。とくに観音寺川沿いは、現在では嵩上がなされているが、地盤が低かったため大潮の際などにも頻繁に浸水被害を被っていた(『牟岐町史』)。
図−三は、現地調査から得られた平均海面からの津波の浸水高の分布を示したものである。図中の斜線部は、住民の証言により明らかに浸水を免れた地域を表している。浸水状況を見ると全般に海岸線付近で五メートル以上、山際に面した小河川の河口では更に上回る浸水高となっている。そして、海岸線沿いとともに河川沿いで浸水高が高くなるという傾向を示している。さらに、詳細にみると、東牟岐では地盤の低い観音寺川を遡上したことが等高線よりわかる。また、八幡神社前は牟岐川の河口にあたり山際であるため浸水高が大きくなった。なお、海蔵寺下では四・○メートルの浸水高となっているが、これは観音寺川につながる暗渠の口があったためである。
他方、西牟岐では、津波は瀬戸川沿いに侵入し、住民の証言によると平均海面上六・○メートルにある八板橋の上を乗り越えた船が大谷方面へ流されたとのことである。同時に瀬戸川を溢れた津波は八坂橋の付近から集落の西側を襲い多くの家屋を破壊している。海岸沿いには当時、現在の防潮堤から二十メートルほど陸側に堤防があったが、その隙間からも侵入してきたようである。
浸水高分布をみると、津波は牟岐川沿いに内港に侵入し、地盤の低い北側へ溢れ、さらに川を遡ったものは、牟岐川の西側の低地へも浸水させたようである。内港に面した満徳寺での浸水高は調査の最大値七・一メートルとなっており、周辺の値が五メートル前後であることから考えて、飛び抜けて大きな値となっている。内港から満徳寺にかけては比較的急勾配で地盤が高くなっているため、内港から西側へと侵入した津波がここをはい上がり、高い浸水高となったと考えられる。
図−四は、最大浸水深、すなわち地面からどれだけ浸かったかを示したものである。海岸線付近で二メートル以上、小河川の河口では三メートル以上浸かっている。また、地盤高の差により海岸線から侵入した津波による浸水は内陸まで至っておらず、河川沿いや内港からの浸水は内陸まで及んでいる。西牟岐では、避難に際し山際へ向こうには瀬戸川を渡らねばならないが、法覚寺の付近は地盤が高くなっているので、この津波の規模であれば避難先としてはこちらの方が比較的安全であったのかもしれない。
図−五及び図−六は、それぞれ東牟岐及び西牟岐における家屋被害及び津波で流された遺体の発見場所について中山清、福岡千年両氏が調査された図画を再製したものである。
東牟岐の観音寺川沿いでは、低い地盤のために津波の侵入に耐えられず多くの被害を受けている。全半壊の家屋は川沿いに分布し、ちょうど川に囲まれるような形となっている場所では、約六十戸すべての家屋が全壊している。更に、河口右岸(註:川の流れを背にして右側)の様子から津波が地盤の低い海岸線から直接陸上へと侵入したことがうかがえる。死者については、二メートル以上の浸水深となり全半壊した家屋での死亡がみられ、その居住地と発見場所の位置関係よりおおむね北東の方向へと流されたようである。この遺体の発見場所は津波が陸上で押し引きを繰返した最終の結果と考えてよいので、陸上においても引き波よりも押し波の方が強かったということになろう。
西牟岐では堤防前面に建てられた水産加工場や船小屋が、直接津波の襲来を受け、ほとんど全滅している。浜をはい上がった津波は堤防を乗越え、あるいはその隙間から侵入したが、堤防背後では被害の程度も軽減されている。瀬戸川沿いでは河口の狭窄部で被害の程度が著しかった。
両地域における全半壊家屋の分布は、観音寺川沿いでは海岸線より二百メートル、西牟岐では同じく百メートルの地点まで及んでいる。このことから、観音寺川沿いの地域では地盤が低いために津波による浸水深が大きくなり、多くの被害を出したことが分かる。
現在では、地震の発生から沿岸を襲う津波の挙動を数値計算により再現することができる。
南海地震津波を再現した結果について以下に述べる。
図−七に、数値解析から得られた湾内の津波波形を示した。地震発生後から水位が数十センチメートル上昇した後、約十五分でわずかに水位が下がり、その後急激に水位を増大させている。約二十七〜二十九分で水位は最大となり、湾口で約四・五メートル、港奥の観音寺川河口及び瀬戸川河口では約五メートルになっている。湾内では地震発生後水位の上昇が見られるので、これを第一波とみなした目撃者は第二波が最大といっているものと思われる。しかし、以後ここでは二十七〜二十九分後のピークを第一波と呼ぶことにする。図から第二波以降は水位は次第に減衰していることが分かる。周期については「上がるのに二十分、引くのに二十分」との目撃談があるが、本解析から二十五〜三十分程度であったと考えられる。
図−八は、地震発生から十九分〜三十三分後までの津波の様相を示したものである。湾内の流れの状況、平均海面からの水位上昇量の分布が示されている。
地震後十九分では、津波による湾内の流れを見ると東防波堤に妨げられながらも、津波は湾奥へと侵入している。牟岐川では流速は大きくないが引き波となっている。
二十一分後には、既に西牟岐の海岸付近で浸水が始まり、この領域の水位は比較的高くなり、牟岐川の河口、内港へと流れ込んでいる。東へ向かった津波は陸上へ溢れることができず、東牟岐の海岸沿いに進み東防波堤の方へ流れ、堤防の背後に循環流を作っている。
二十五分後には、湾内の水位は高まり、牟岐川へ津波が押し込んでいる。
二十九分後には、湾奥で津波の第一波が最大となり、湾内の水位は全体的に大きくなったが、湾内の流速は大きくない。牟岐川河口の狭窄部では津波が両岸の低地へ溢れ、それらが川へと流れ込んでいる様子が分かる。内港背後の低地では、内港からの浸水と牟岐川からの浸水が重なり、浸水域を北西へと拡大しつつある。
東牟岐では、海岸線全域からの浸水が見られ、海岸線から山際にかけて地盤が高くなっているために観音寺川沿いの低地へと浸水は拡がっている。一方、西牟岐の海岸線付近からの浸水には方向性は認められず、瀬戸川沿いから集落の西側へと回り込む流れも見られない。
三十一分後には、湾内では津波は引き始め、牟岐川や陸上ではまだ押し波の勢いは衰えていない。そのため、東牟岐の集落では流勢は衰えているものの浸水は依然として続いている。
西牟岐でも同様な傾向が見られる。
三十三分後には、湾内の水位が急激に減少し、東防波堤の先端部では引き波の流速が大きくなっている。
図−九は、湾内、陸上の各地点における最大流速を示したものである。図を見ると、湾内の流速分布は東防波堤の存在により岸・沖側でそれぞれ押し波、引き波時に流速が卓越するという特徴が見られる。特に陸上の氾濫の様子に注目すると、各点の最大流速は全体的に押し波となっており、流速は三m/s程度である。また、この図から、西牟岐の海岸から陸上に侵入して牟岐川へ流れ込んだり、牟岐川から溢れた津波が北西へと浸水させてゆく様子がうかがえる。観音寺川沿いでは、北東から北方向へ流れ込んでおり、これから遺体の流動も説明できる。
現在の牟岐港は、沖防波堤、東西の防波堤が設置され、風波による静穏度が保たれている。西牟岐の海岸は、昭和二十一年当時の堤防より二十メートルほど海側には防潮堤が築かれ、東牟岐にも海岸線の背後五十メートルに沿って堤防が存在している。また、東牟岐の海岸線沿いと西防波堤の背後には埋立により船揚場などの港湾施設も整備されている。
この現況地形をもとに、四、と同様の計算を行った。
図−一〇は、地震発生から十九分〜三十三分後までの津波の様子を示したものである。
現況地形では、東牟岐の堤防、西牟岐の防潮堤双方とも津波の越波は見られない。ただ、堤防の隙間や堤防と護岸との間から、あるいは小河川沿いの低地からの浸水が認められる。また西防波堤背後の埋立地及び牟岐川河口左岸(東側)には船揚場に隣接した廃油処理施設があるが、どちらも浸水域に含まれている。特に後者は、河口狭窄部で川岸に護岸も設置されていない低地であり、流れによる圧力が大きくなる地点であることを考えれば、火災の引き金となる危険性がある。
図−一一は、現況における最大水位の分布を示したものである。陸上では、東牟岐の堤防前面、内港の南側及び小河川沿いに多少の浸水がみられるが、現実には防潮堤の扉や河口の水門が閉鎖されれば、それほどの浸水被害は生じないと思われる。
図−一二に、現況における地盤からの最大浸水高の分布を示した。瀬戸川河口付近、内港の南側で二メートル程度、東牟岐の低地では観音寺川河口で二メートルの浸水が、また山際ヘかけて一メートル以下の浸水が見られる。しかし、先に述ベたように防災施設の機能が働けば、被害は最小限に抑制されよう。ただし、防潮堤や堤防の前面は海岸線や河川沿いからの浸水で二〜三メートルほど水に浸かり、船舶や倉庫群への被害を被る可能性は依然としてあることに注意を要する。
以上、港湾構造物が津波で破壊されないとして計算したもので、現況の構造物は津波を対象として設計されておらず津波の流体力を考えれば安心してよいとはいえないことを指摘しておきたい。
一般に地震の規模が大きいほど人的・物的被害も大きくなるが、人的被害は、地震の発生時刻、事前の兆候の有無などのほか、地震・津波の知識、避難経験訓練参加の有無など個人の防災姿勢にも左右される。
今、問題は、社会環境が大きく変化し、構造物の強度は増しているが、道路・鉄道・港湾などの運輸交通施設、建築構造物、電気・ガス・水道などの生命線、情報・通信システムなど規模が大型化、形態が多様化、複雑化しており、それに伴う被害の危険要素はかつて経験したことがないほど増大していることである。また、こうした社会環境のなかでひとたび火災が発生すれば危険物と化する自動車や化学物質貯蔵施設などが氾濫しているために、過去の地震・津波以上の大惨事につながる可能性がある。
牟岐についていえば、これまで津波被害を受けてきたために津波ばかりが強調されがちであるが、昭和南海地震では震度は五であったものの宝永(一七〇七)や安政(一八五四)の地震では、この地方の震度は六という値にもなっており、いうまでもなく地震に対する備えが必要である。これに加え、津波に対する備えが必要ということである。
防災対策の基本は、まず地震・津波に対してそれらに耐えうる強い構造物を作り、地震や津波といった大きな力に耐えること、津波だけを考えても防波堤や防潮堤で集落を守るというハード面の整備が第一である。どのような構造物でも設計時の力以上の力が作用すれば壊れるが、ひびが入っても完全に破壊しないねばりのある構造とすることも可能となっている。現在の防潮堤、防波堤が壊れないと仮定して津波の計算を行ったが、その限りでは津波の制御効果はあった。しかし、防波堤自体が津波を想定した設計がなされていないので、破壊することがあれば集落を守ることはできない。また、防潮堤の開口部、小河川開口部水門などが地震・津波時に確実に機能するよう現況での構造物の早期点検が必要である。
防災施設ができれば安全度は確実に向上するが、「これで安心」と過信してはいけない。防潮堤などは、それを越える津波もありうることを念頭において、避難などソフト面の対応が重要である。
ハード面の整備には限界があり、行政側としては災害に強いまちづくりには地域防災計画をしっかりと立てておくことが重要である。昭和南海地震よりも大きい歴史地震・津波を想定して、道路、建物、橋などの構造物の破壊状況や火災による被害状況などの推算を行い、集落の被害を想定する。それに基づき、被災時に交通網・避難道・避難場所・ライフラインの確保及びその代替が可能かどうか、またそれらの早期復旧が可能かどうか具対的対策を検討し、被災者の早期救出、被害の拡大防止ができるまちづくり計画を立てることが必要である。
牟岐では、漂流した船舶による火災などに注意を要する。また河川に架かる橋梁の破壊などによる避難道の分断がある恐れがある場合にはそれらの安全性には特に詳細な検討を要する。
更に、防災体制を確立することが重要である。救援者や被災者に正確な情報伝達が可能かどうかの点検、デマによるパニックの発生防止、被災後の復旧に向けてボランティア活動が円滑に行える体制づくりが必要である。また、被災後の避難所での生活、環境の急変によるショックや孤独感からくる心のヶアなど医療体制の問題も今後確立しなければならない。
以上は行政側からの津波に対する対応であったが、防災体制は何ら行政側だけの問題ではない。個人としての心構えが一番重要である。そこで、あえて津波に対する心構え「十訓」を挙げておきたい。
(一)牟岐による南海地震津波の最高潮位標識を見よ。それより高い津波が来ることもあることを知れ。
(二)非常時のために最小限の持出品の準備を日頃より怠るな。
(三)わが家の緊急時の避難経路、避難場所を日頃より決めておけ。
(四)携帯ラジオなど、停電時でも正確な情報を得るよう努めよ。デマなどに惑わされるな。
(五)真剣に防災訓練に参加せよ。日頃の訓練、それが緊急時に我が身を救うと心得よ。
(六)津波警報が出れば直ちに近くの高い所へ避難せよ。もし、津波が来なかったら幸いと思え。
(七)大地震のあと、直ちに津波が来ると覚悟せよ。もし、津波が来なければ命拾いしたと思え。
(八)大地震のあと、車で防潮堤外の敷地に入るな。門扉が閉じられ、車も命もなくすと思え。
(九)津波は必ず数回襲ってくる。避難後、警報が解除されるまで避難場所で待機せよ。
(十)沖で地震を感じたら、直ちに湾外の深い所へ船を移動せよ。湾内では直ちに下船し緊急避難せよ。
地域住民にとっては、災害に対して自分の身は自分で守るという基本姿勢が最も重要である。
徳島県のように自然の脅威にさらされている地域では、災害の最小化を図るために防災施設が他の地域以上に必要となるが、それに期待をかけ過ぎてはいけない。一方、「大災害が自分の身に降りかかるはずがない。」という願望を込めた情緒的な考えが見受けられるが、そのことに危惧を感じている。
頻度からいえば、人間の一生よりも長い百年の単位で襲ってくる巨大地震や津波に対して、今後とも防災施設、防災計画、防災体制をしっかりとしたものにしなくてはならない。地震・津波の発生と来襲は避けられないが、その被害は人間の叡知で最小にすることができる。自然を制御するという傲慢な態度ではなく、自然の脅威を理解し、科学的な手法を駆使することにより減災を図るということである。
最後に、牟岐町が今以上に防災意識の高い、安全で快適な町となることを期待したい。
本稿を書くにあたり、多くの方々のご助力、ご協力をいただいた。まず、「南海道地震津波の記録を残す会」の中山清会長をはじめとする会員の方々には現地調査に多大のご助力をいただいたことに対し感謝いたします。更に、四国の歴史津波の現地調査・研究を協同で行っている阿南工業高等専門学校島田富美男助教授、京都大学伊藤禎彦助教授(元徳島大学)、徳島大学上月康則講師、元徳島大学大学院生平岩陽子、石塚淳一氏をはじめ徳島大学工学部建設工学科環境衛生研究室の学生諸君の協力を得たことを明記し、謝意を表します。
昭和六十一年の夏のことでした。当時東の東老人会(東クラブ)会長の大平勇さんが、私の勤務先、牟岐町役場収入役室へ訪ねて来られ、大阪市立大学宮野道雄教授から南海地震東地区死亡者の調査を依頼されたがむつかしいので、協力してくれないだろうかと話されました。
大平さんは旭町復興の世話人として、『あのような悲惨なことをくり返したくない』、又『旭町を復興してくれた指導者の方方の苦労を伝え残したい』、何とかして私達の体験を残せないだろうかといわれて感動しました。
実は私自身も十六歳で津波に遭い、観音寺川の方へ逃げて危険な目にあったが、父の知識と機転で助かった経験があるので、自分の子供や孫たちに正しい津波の知識を書き残しておいてやりたいと思っていました。
しかし、牟岐町には昭和二十二年十二月に牟岐町震災史編纂委員会が発行した「牟岐町震災史抄」があるだけです。誰も体験を残そうと言いださないし、又指導者もいない。どうしたらよいか、とりあえず宮野教授から依頼のあった犠牲者の当時の年齢と死亡場所の調査をするのに、聞きとり調査を行ない、宮野教授に報告しました。
ちょうどその年に海南町が『南海地震津波の記録—宿命の浅川港』を発刊されたので、当時の五軒家助役さんにお願いして一冊送って頂き読ませてもらいました。大平さんと私が考えていたことが同じで、是非牟岐町も作りたいとの念でいっぱいでした。資料も写真もなく、徳島大学の村上教授の面識もなく、どうしたらよいのかわかりません。六十二年から平成二年春までは、大平さんとことあるたびに体験者から話を聞いたり、意見を聞いたりして過ぎました。
○平成二年七月七日、東老人会(東クラブ)会員の皆さんと、東の東、東の中地区の津波体験者有志の方に呼びかけ、東部コミュニティセンターに集まり、発会の会合を開きました。
目的、南海地震津波の体験者の記録を後世に残し、将来必ず起きる地震津波への教訓とする。
一、当時の痕跡を残す最高水位標識をたてる
二、牟岐町の過去の震災記録、教訓碑をたてる。
三、津波の記録、体験集の出版
会員(順不同)
大平勇 川辺貞一 井元初一 真崎タマエ
真崎亀一 角谷磯吉 前田一良 東川マチエ
川辺茂 竹本正行 橋本節郎 川辺カメヨ
宮崎一誠 中山清 安土勝男 天野ハナ子
小島時男 川辺政幸 福田春子 前田美佐子
横田保 角田隆幸 亀井徳太郎
(平成八年七月二十六日なくなられた)
○平成七年一月に新しく「牟岐町南海道地震津波の記録を残す会」が発足するまでの間六回の会合を開き、次の事業と活動を行ないました。
◎平成二年七月、浅川南海津波最高潮位標、記念碑等視察
◎平成二年十一月
(牟岐町役場二階)
牟岐町文化祭「津波体験コーナー」に資料を展示した。
◎平成三年 九月第八回歴史地震研究会(東大地震研究所主催)浅川漁村センターで開かれた。
歴史地震研究に
おいてはトップレベルの研究会で、東大地震研究所の宇佐美龍夫名誉教授をはじめ、日本を代表する研究者四十七名が出席、歴史的な地震被害の報告や、事例の研究発表があり傍聴した。
◎平成四年十一月、(牟岐小学校廊下)文化祭「津波体験コーナー」南海津波浸水マップ等の資料や、地震津波関係図書を展示した。
なお、資料展示によって、当会の活動を知ってくださった県議会議員西沢貴朗氏に、徳島大学工学部村上仁士教授を紹介していただき、村上教授による南海津波の痕跡調査、南海震災史碑、体験集の編集などの指導が実現しました。
◎平成五年八月 徳島大学工学部村上教授、伊藤講師、阿南高専島田教授、外両校学生による南海津波痕跡予備調査、並びに東浦地区波高測量を実施した。(西沢県議、栄次長、大平、横田、宮崎、前田、中山、木内、井元、角田)
◎平成五年十月 牟岐小学校で「南海津波の体験」の話をした。(宮繁、中山)
◎平成五年十一月前年にひきつづき牟岐小学校廊下において文化祭「津波体験コーナー」を設置、徳島大学より借りた津波関係図書などを展示した。
◎平成五年十二月 徳島大学村上教授外同メンバーにより西浦、中の島地区痕跡、並びに波高測量を実施した。(福岡、宮繁、小栗、中山)
◎平成六年二月 新大川橋上街路灯に南海津波最高潮位を表示した。
◎平成六年五月 徳島大学村上教授による南海津波痕跡、波高測量調査報告会を牟岐町公民館で開催した。
(牟岐町防災会議主催)
◎平成六年五月 牟岐町文化財保護審議委員会により、南海地震津波最高潮位標が東浦四ケ所に設置された。
①東部コミュニティセンター前
T.P五.四七メートル
②東の西コミュニティセンター(海の家)前
T.P五.四〇メートル
③東七間町小松家前四つ辻
T.P三・四六メートル
④東部保育所(東南角)
T.P三・四六メートル
◎平成六年九月 東老人会、デイサービスセンター清流荘で津
波体験座談会(体験集に記載)
◎平成六年九月 河内小学校に於て、地震津波避難訓練終了
後、南海津波の体験を話した。(中山)
◎平成六年九月 NHKテレビで会の活動紹介
◎平成六年十月 京都大学防災研究所河田教授講演会
「来るべき南海大地震、津波に備える」
浅川漁村センターにて傍聴した
(福岡、宮崎、中山)
◎平成六年十月 牟岐小学校にて
南海津波の体験を子どもたちに伝える会
◎平成六年十一月 牟岐小学校教室にて
文化祭「津波体験コーナー」
浸水マップや津波関係図書も展示した。
◎平成七年三月 四国放送ラジオ
「午後はこれからハリキリワイド」
五十市町村ラジオカー、キャラバン隊が来町
保岡アナウンサーにより生放送で紹介
昭和21年12月21日未明、牟岐町は、南海地震による津波で大被害を受けました。とくに東の東、東の中両部落は、死者39名、ほとんどの家が、流失、全壊、浸水の被害にあい、漁船、漁具、倉庫なども流失しました。
あれから45年、昭和から平成に変り、最も被害の大きかった「ぼ小路」も、地あげにより旭町となり、新しい家が建ち並び、大牟岐田も土地区画整理事業による宅地造成で生まれ変わりました。
平穏で平和な日々が続き、あの悲惨な災禍も、東浦地区では、旭町誕生の苦労話も忘れがちになり、被災された方達も次第に減って、津波を知らない戦後生まれの若者が多くなりました。
その反面、国内では東海地震、関東大地震などが噂され一昨年はサンフランシスコ大地震が、昨年はイラン、フィリピン大地震など発生し、防災対策が叫ばれています。
将来の防災対策を考える場合、過去の被害の実態を明らかにし、それを貴重な教訓として対策をたてるべきですが、避難当時の詳細な状況などは、真に津波を体験した私達にしかわかりません。
本町には「牟岐町震災史編纂委員会」の編集された、「牟岐町震災史抄」がありますが、詳しい被災、避難状況の記録は残っていません。
伝えよう、残そう、子や孫に!!
あの悲惨な災禍を、そして教訓を!!
私達は、近い将来必ず襲来するであろう地震、津波に備え、身をもって体験したあの南海震災の被害、避難の状況を詳しく書き残し、子孫に伝え、教訓とする義務があります。
今年は、南海震災より45年目になります。
東の東、東の中地区では、「南海地震、津波の記録をのこす会」(仮称)を結成し、被災した住民ひとりひとりの手作りの「被災体験記録、教訓集」をみんなで考え、編集計画を進めております。
東浦地区の皆さんはもちろん、西浦、中村、その他被災された地区、また被災されなかった地区の皆さんにもご理解戴いて、ひとりでも多くの方の、ご指導、ご協力をお願いします。
平成3年11月
南海地震、津波の記録をのこす会(仮称)
これは平成3年11月文化祭に発行したパンフレットです。
「せっかく体験集を作るのに全町的なものにするのが良い」との声がもち上がりました。
平成七年一月二十五日、町内有志に呼びかけ賛同をえて「南海震災津波の記録をのこす会(仮称)を合併吸収して新しく「牟岐町南海道地震津波の記録を残す会」を結成し発足しました。なお公民館報により会の発足と震災当時の写真の提供を依頼しました。
主な会則は次のとおりです。事務局は牟岐町教育委員会にお願いしました。
名称 牟岐町南海道地震津波の記録を残す会
目的 南海道地震津波の記録(資料)を収集し、出版する。
事務局 牟岐町海の総合文化センター内
役員 会長 中山清
副会長 福岡千年
事務局 榮和男 大梅謙治
(人事異動により、平成八年四月より交替)
中田美晃 大黒昌一
幹事 小栗三男 宮崎一誠
大平勇 宮繁道弘 谷典博
富田武 木内和美 横田保
事業のあらまし
一、南海地震津波最高潮位識
平成七年八月西浦地区に四か所設置した。
①楠ノ浦小公園前 T.P五・七九メIトル
②中島ウタ子さん前の四ッ角T.P五・〇三メートル
③西浦会館前 T.P五・二四メートル
④第五消防屯所西側 T.P四・五二メートル
二、牟岐町における南海震災史碑
○平成七年二月より平成八年三月までの間に会合を重ねて碑文案を検討しました。
徳島大学村上教授、喜田典子氏(牟岐町灘在住、元牟岐中学校教諭)の指導もえて碑文案を決定した。平成八年四月牟岐町新開石材店が施行完成しました。
碑文は、木内和美氏の書です。
○裏面の「牟岐をおそった巨大地震津波」の地図、図表は村上教授の指導により委員会にて検討製作しました。
除幕は、南海地震五〇周年の平成八年十二月二十一日に現地で行なった。
宮崎一誠 中山清
○題名「海が吠えた日」は、牟岐町浜崎の(故)杉口正氏の体験談名を遺族の方の了承をえて採用しました。
◎平成八年八月 南海町神野海部川河川敷で行なわれた徳島県総合防災訓練を見学した。(大平、宮崎、中山)
◎平成八年九月 徳島市、ヨンデンプラザ徳島にて
徳島〜高知地震津波等災害記念碑拓本展
—災害記念碑の拓本を採る会—主催を見学
◎平成八年九月 宍喰小学校体育館にて
宍喰町津波防災フォーラム
南海大地震から五〇年〜あの悲劇を繰り返さないために〜
NHK伊藤解説委員、基調講演
「津波災害の教訓を生かし、今そして、これからを考える」傍聴 (中山)
◎平成八年九月から十二月まで
NHKラジオで体験談放送
◎平成八年十二月一日
NHKテレビズームイン96「何が生死を分けたのか」〜南海地震50年後の証言〜放映
◎平成八年十二月二十一日
NHKテレビ南海地震50年〜私はあの日を忘れない〜放映
昭和二十一年十二月二十一日、午前四時十九分、潮岬南々西沖約五十キロメートルを震源とするマグニチュード八・一の南海道大地震とそれに伴う大津波により、本町では犠牲者五十二名、家屋被害一、七七四棟の他、漁船・漁具・田畑などに甚大な被害を受けました。亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。
全町被災のなか、とりわけ被害の大きかった「坊小路」を「旭町」として立派に復興、誕生させた地元有志、地域関係者のご功績を讃え、そのご苦労に対し心より敬意を表します。
近代文明の弱さに警鐘を鳴らした平成七年一月の阪神淡路大震災の教訓を活かし、将来必ず起きる巨大地震・津波に対して被害を最小限に留めるよう牟岐町としても防災対策を強化するとともに、日頃より家庭や地域においても防災について心の備えを願うものであります。
南海道大地震から五十年の節目にあたり、私達が身をもって体験した貴重な記録を風化させないよう裏面に書き残し、牟岐町の震災の教訓碑といたします。
平成八年十二月二十一日
牟岐町長 皆谷又男
ふりかえればこの十年間、体験集の発刊までに大勢の方々との出合いがありましたが、みなさんのご協力により私たちの夢が実現しました、私たちの得た『貴重な体験』を村上教授は『宝物』といわれましたが、これをいかにして子どもや孫たちに、そして後世まで語りつぐか、私は私なりにマイペースでコツコツと進めて来ました。時には大平勇氏から早くとハッパもかけられましたが、大平さんにはずい分お世話になりました。みなさんのご協力がなければ、何もできなかったことでしょう。
一町民の願いが東浦地区を動かし、その輪が町内に大きくひろがって、官民一体となって立派な震災記念碑が、そして体験集が完成できるのは誇りうるものと確信しております。
皆谷町長を始め牟岐町役場、牟岐町教育委員会、図書館、牟岐町議会、それぞれの立場でのご理解とご援助を、記録を残す会の委員のみなさん、町内外の体験者の方々、西沢県議、徳島大学村上教授、伊藤講師、学生のみなさん、阿南高専の島田先生と学生のみなさん、牟岐小学校、河内小学校の先生と生徒のみなさん、ありがとうございました。厚く御礼申し上げます。
また、牟岐町では当時の被災写真がほとんどなく、公民館報でも依頼を呼びかけましたが集まらず苦労しました。高松気象台、徳島新聞社、小栗三男、宮崎一誠、谷宏、故谷林太郎の各氏に写真を提供して頂ぎました。ふるさとスケッチ会の花野茂会長に西浦の浜の風景を、小栗三男氏にはイラストを描いてもらいました。町内の現在の風景、体験者の顔写真撮影は木内和美氏にお願いし、体験集の表紙題字も木内和美氏の書です。ありがとうございました。
「牟岐町における南海震災史碑」と「南海道地震津波体験集」
『海が吠えた日』がこれからの防災の灯りとなり、かならず起きる「南海道地震津波」の被害を最少限にとどめることができることを願っております。
最後に体験を話してくださった方で、この体験集の発刊をまたずになくなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
牟岐町南海道地震津波の記録を残す会
会長 中山清
徳島大学工学部建設工学科環境衛生工学研究室では、「南海道の津波」の研究を行っており、今後の津波防災対策の基礎資料とする目的で、「津波に対する住民の意識・要望に関するアンケート調査」を実施しました。実施については、牟岐町婦人会の役員さん、婦人学級のみなさん、出羽島漁協婦人部のみなさんに配布と回収のお世話をして頂きありがとうございました。また町民のみなさんには、アンケートにご協力頂き、貴重なご意見もたくさん記入して下さいました。厚く御礼申し上げます。
現在徳島大学で集計中ですが、体験集発刊までには問に合わないので、集計ができれば何らかの方法で報告してもらうことになっています。現在概数ですが次の表に中間報告をしておきます。
牟岐町総世帯数二、三八四世帯のうち、五三一世帯にお願いしました。各地区毎の年齢別の人数等は別表のとおりです。但し概数ですから最終報告と多少異なると思います。
アンケート調査の中で津波対策に関する要望について、多数の方(現在百四十五名)よりご意見等頂きましたので、主な要望事項を列記します。
避難場所の指定と道の標識
津波情報の正確性
防災計画の確立
行政、住民とも災害危険意識の持続
避難路に太陽電灯を付けよ(誘導標識)
防潮堤の再構築を年次を追って作れ
町内防災無線の不備
若年層の津波防災意識不足が多い
水門の木材が腐飾している
一度避難したら引返すな
避難路に駐車している車が多いので取締れ
町道に夜間駐車が多く避難時の防害になる取締れ
昌寿寺山に逃げる道を早く整備して
瀬戸川に避難橋があるが川向うに駐車が多く
避難時に支障あり、また避難橋の中心ポールを撤去せよ
医療機関への受入態勢と充実
防疲業務の実施対策
平素の訓練が大切
防潮堤の扉門の改良
ヘリポート基地を作ってはどうか
防災マップの再検討
避難場所にプレハブを建てて資材、食料品の確保等いかがなものか
ばあやん おばさん、 小母さん
藁ぐろ(わらぐろ) 収穫後の稲わらを田の畦に積んで保存してあるもの
誰ぜえ!おたいに掴まったんわー 誰ですか、私に掴まったのは
下店(ぶちょうともいう) 雨戸の一種で上、下にたたみ
こむ戸 (海部地方独特の雨戸)
おまあ、おまい お前、きみ(君)
櫓 こたつやぐら
居らんのけー 居ませんか、居りませんか
つってつって ひきつけること、けいれん
入口のワキ(脇) 入口のそば(傍)
とえる、とえてくれる 大声で叫ぶ、叫んでくれる
おひつ 炊いた御飯を入れる蓋付の木の桶
おいご 子供を背負う道具
ととやん、おかやん お父さん、お母さん
押ししあがれて 押しつぶされて
ぬくめたり 暖めたり
(逃げることに)せなければ しなければ
言いつかり 命令される、指示される
ハイコミ 船の舶首部の場所
早ういなんか 早く帰らんのか
セイロ 魚を干す竹製の平たい道具
ダンジリ 花車
芋壷 床下に穴を掘ってもみがらなどを入れてさつま芋を貯蔵する施設
おっきょい、ごっつい おおきい
ソーギ葺 杉の板を薄く割った材料で葺いた屋根
逃げよんのに何しよん 逃げているのにどうしているの
等閑視 物事をいいかげんにすること、なおざり
長押(なげし) かもいの上など柱と柱の間にはられた横木
おまいら、おたいら お前達、私達ほない そんなに
ひっこい シッコイの訛、執念深い
上物(うわもの) 屋根を支える柱の上にはり渡してある材木
うまめかしのボサ うまめがしを積んだもの
オロサ 木の小枝を集めた薪
ほうろく(焙烙) 素焼の平たい土鍋で雑穀を炒るのに使用する
どないして どんなにして
おじけて(震えている) おそろしくて
舟をのぼす 舟を浜などに引きあげる
引き潮がえらく 引き潮がひどい、きつい、はげしい
妙見さん(東のお寺)
ごちひ坂、ごひつ坂
波止(はと)
シンコ渕(新光渕) 川長の溜池
アナツボ 津島の漁場の名称
タンガ 弁天組
国道(旧国道) 現在町道で国道55号線から本町商店街をえて、牟岐津神社で右折西浦を西進して八坂橋を渡り大阪をこえて内妻で現55号と合流する。
あの悲惨な災禍を、伝えよう、子や孫に、そうして教訓を!!一人の被災者の切実な呼びかけが契機となり、震災五十年の節目に、最高潮位標、震災史碑、体験談集の出版をみることができました。
編集に当たり、被災に関する資料はほとんどなく、唯一の現状証拠となる写真は、町民の撮影したものは皆無に等しかった。「百聞は一見にしかず」の諺にあるように、悲惨な現状を視覚に訴えることができなかったのは残念でした。
どの位置で、潮位がどの位の高さまで来たのか、少しも記録されたものはなく、被災を免れた建物もこわされていった。わずかに残った潮位痕跡をたどって、最高潮位標は設置された。
体験者に執筆をお願いした所、当時のことを昨日のできごとのように、鮮明に記憶されていた。
帰ってみれば、我が家は跡形もなく流出していた、などはまだよい方で、一緒に逃げたのに、何同も襲ってくる濁流と浮流物に別れ別れにされ、家族を失った悲しい話。病人を見捨てて逃げるのを断念し、家族もろとも命を落した家庭。涙ながらに校正した体験集は、また来る津波の、貴重な心の備えになると確信している。
本書の構成は、第一章、題「海が吠えた日」(被災者六十七名の体験記と聞き取り手記)から始まり、第六章までは、牟岐町の震災史ともいえる。
本書の発刊に当たり、徳島大学村上仁士教授、伊藤禎彦講師、阿南高専島田富美男助教授、両校学生。とりわけ村上先生には、研究論文の提供をいただき、何かと御指導下さったことに厚く御礼申し上げます。
また体験談記、写真の提供、御協力、御援助下さった方に厚く御礼申し上げます。
最後に、体験談集の完成を待たずになくなられた五名の方、南海道地震津波の犠牲になられた五十三名の方々のご冥福を慎んでお祈り申し上げ、後記と致します。
平成八年十二月
編集委員一同
南海道地震津波の記録
海が吠えた日
平成八年十二月二十一日
発行 牟岐町教育委員会
印刷製本 ㈱ぎょうせい
9 5 16
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